——脚本と映画のズレという序盤の質問と関連するかもしれませんが、脚本家のイメージだったものが完成した映画にもなっているという構成は、その後のアフタートークで主人公が言う「私には才能がないなと思いました」というセリフに複雑な響きをもたらしていると思いました。どこで彼女のイメージから逸れて、それとは異なる映画が立ち上がったのか、その境がよくわからなくなるからです。このような構成はどのように思いつかれたのですか?
三宅 映画を観ていると、ふと「これは映画だ」と気づく瞬間がありますよね。でもすぐにまた没入して、また気づいて、また忘れる。脚本の時点でどこまで想定できていたかは覚えていませんが、映画館という場所は何かそういう不思議な体験をさせられる場所だ、ということは念頭にありました。
——夏編と冬編の緩やかなつながりについてお聞きしたいです。映画内映画の場合、劇中の物語と劇中内の映画の物語を似せたり、より関連づけたりという方向性もあったと思いますが、『旅と日々』はとくにそのように関係性を目指されていないように感じました。
三宅 そうですね、そこまで綿密に考えていたわけではなかったです。脚本の段階で対になる共通点をいろいろと見つけてはいたけれど、撮影中はまったく別の映画として考えていました。ある程度似ているし、ある程度関係ない、という感じで。
——2篇を繋ぐ役割として、主人公を映画監督ではなく、脚本家にした理由も伺いたいです。さらに原作にはない、「外国籍の女性」という要素も加えられています。
三宅
映画監督ではなく脚本家というのは、直感的なものです。脚本を書いている時間の方が、マンガ家と近しいものがあるのではないかというところですかね。
そして、「外国籍の女性」という設定ありきではなく、シム・ウンギョンさんと仕事がしたいというのが先立っています。当初は、日本人の中年男性を主人公に書いていたんだけど、「ほんやら洞のべんさん」が相当に完成度の高いマンガで、はたしてそれを映画化する意義があるのかと、行き詰まっている時期がありました。そんなときに以前お会いしたシム・ウンギョンさんのことを思い出して、彼女ならいけるんじゃないか、と。彼女の第一印象がつげ作品の印象ともどこか通じているような気がした。その後にあれこれと検証をして、堤真一さん演じるべん造との共通点がより無くなって、「よそ者」感が強まることに気がついて、つげさんのテーマもより考えられた。50年以上前に、東北の湯治場を訪れたときの驚きは、つげさんが東京からやってきた「よそ者」だからこそだったと思うんです。今は東京もどこも似たような風景ですが、ウンギョンさんと一緒なら、全部「よそ」の世界として見れるんじゃないか、とか。つげさんは「生まれたときから生きにくい。最初から馴染めない」というようなことも書いていて、そのことともつながるのではないか、と考えていました。
——上映会の後、魚沼教授(佐野史郎)から「その後の体調はいかがですか?」と質問されますが、あのセリフはどういった意図で入れられたのでしょうか?
三宅 つげ義春さんの日記やインタビューを読むと、創作することと自分の心身の状態を保つことが非常に密接に結びついていることを思わされましたし、自分も、それは本当によくわかる。何か、いい状態ではない。もっと言えば、死んでいるわけではないけれど、生きている実感がない、と。
——原作「ほんやら洞のべんさん」は主人公がすでに旅に出た後からはじまるわけですが、映画だと旅へ出る前からはじまっている。その旅に出るまでの流れはどのように構想されたのですか?
三宅 何かを求めてではなくて、とにかく逃げたいというはじまりです。そして旅先に到着しても、強風が吹いて、雪が降っていて、決して居心地のいい場所には見えない。なのに、ここに来れてよかったという気持ちよさがある、という流れをイメージしていました。そうした感情になるためには、東京での時間は、何か地に足のつかない、鬱々と閉じ込められたような雰囲気があるだろうと思い、作っていきました。あと、映画内映画が終わって、現実の場面に戻るわけですが、そこでこそ現実味のない出来事が起きるのが、映画としては面白いんじゃないか、と。なんというか、この映画自体、重さから解放されたい、どんどん軽くなっていきたい、ということですね。
© 2025『旅と日々』製作委員会
——旅に出るきっかけとして魚沼教授から渡されるカメラがありますよね。
三宅 つげさんが写真家でもあり、カメラのコレクターでもあることからヒントを得つつ、とはいえ、カメラがペンの代わりになる話ではないぞ、と考えていました。主人公は旅先であんまりファインダーをのぞかず、使うときは大抵夜で、たぶん何も写っていない。せっかくもらったカメラは全然役に立たないし、ついには失くしてピンチにもなるというのがコメディのテンションだよねと考えていました。
——たしかに、たとえばまさに旅に出る直前に主人公が自室の窓から近くを走る電車にカメラを向ける場面で、カメラは迫ってくる電車をほとんど追わず、電車というよりもそれが過ぎ去った何もない線路に向けられているように感じました。シム・ウンギョンさんも電車が去ってから何かを見つけたように、レンズから視線を外して遠くを見つめますよね。
三宅 シナリオでも「暗闇を見る」とはっきり書きました。その身振りにも意味はあった気がするけど、それ以上に、前後の画面連鎖をかなり具体的に考えていました。旅の道中の何を撮って、何を省略するか。たとえばまずは車中の時間を撮って、次に駅のホームに電車がやってきて降りたつ場面を撮る、というパターンもある。今回は、車中の描写はひとまず必要なさそうだ、駅から出る場面は多分必要だろうと思って、駅のロケハンもしていたんだけど、途中で「別になくても物語は前に進むな」と思いついて、やめました。驚きにどう立ち会っていくかが旅の定義なんじゃないかと、ロケハンと夏編の編集を並行しながらなんとなく掴んでいったんです。この映画自体も、ショットが変わるたびに驚きがあり、物語もちゃんと前に進んでいくようにしたいなと。主人公がカメラを暗闇に向けるショットに続いて、なるべく早くもう旅先の雪に立っているにはどういう画面連鎖なら面白いか、その速さを結構真剣に考えました。
——原作である「海辺の叙景」にはないですが、夏編においてもカメラが登場しますよね。高田さんがビーチで本を読んでいるとカメラを持ったイタリア人の女性に話しかけられる。三宅監督は『ケイコ 目を澄ませて』や『夜明けのすべて』でも、たびたび登場人物たちにカメラを持たせています。『無言日記』や『ワイルド・ツアー』もそこに関連させられるかもしれませんが、近年の三宅作品では、何かを記録するという営みを意識的に物語のなかに入れ込んでいるようにも思えます。
三宅 自分のここ20年を振り返ると、結局映画しかやっていない。書いたり撮ったり繋いだりということ以外、正直あまり知らない。毎回違う題材を勉強はするけれど、あくまでそのときでしかないアマチュアだし。自分の実感を持って描けることとして、ついそうしているところがあると思います。誰かが何かを記録する、そのときに起こるあれこれなら、ある程度知ってるので。
——今回だと夏編の博物館がそうした記録の最たるものとして見えてくるのですが、主人公が旅先についてすぐに寄るうどん屋のご夫妻を映したショットもある種ドキュメンタリー的に見えました。
三宅 おふたりは実際にあのお店を営んでいる方たちで、ロケハンの際にも何度か通っていたんですが、すごく素敵な方たちだなと思っていました。映画のなかで、主人公は東京での生活から逃れて旅に出るんだけど、その先にも別の誰かの生活があるというのが現実です。そうしたことはべん造の宿で立ち上がるけれど、でもべん造の宿は、人里離れた場所にあって、ちょっと現実離れした雰囲気だから、それとは別のレイヤーの、もっと実在感のある生活の場面も撮りたいと思っていたんです。そしたら、おふたりのとてもいい瞬間が収められた。
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