10/09 そこにいたのかもしれない私

結城秀勇

深夜バスで早朝到着した際には、シャツの上にスウェットとベストという格好でちょうどいい、想定通りの寒さ。しかし日中はあったかい。パーカーで、雨風しのぐ薄いアウターを鞄に忍ばせおく、くらいがちょうどいいかも。

本日1本目は『映画は時代を写す時 ―侯孝賢とエドワード・ヤン』是枝裕和。このふたりの映像が並んでいるだけで泣けるとか、『牯嶺街少年殺人事件』の若いチャン・チェンがピアノ弾き出すシーンが泣けるとかいろいろ言いようはある。しかし、近年のホウ・シャオシェンしか知らない、エドワード・ヤンの死後しか知らない、そういう若い人にとってすごくためになるドキュメンタリーではなかろうか。ホウ・シャオシェンとエドワード・ヤンとの対比が、伝統と革新、中国大陸の文化とアメリカの文化、といったやや類型的なものであるきらいがあるが、それでもこの作品に好感が持てるのは、彼らふたりとはまったく関係ない、監督でもなんでもない台湾の普通の人々にとっての映画というエピソードが挟まれているからだ。ホウ・シャオシェンはキアロスタミ『そして人生はつづく』を見て、一晩眠れなかったと語る。イランの人々の生活が台湾のそれに重なると。そうした意味で、この作品は不世出の台湾の二大監督についてのものというよりも、私たちがそうでもありえたような台湾という国に住む人々の物語なのではないか。

かなりあったかいので、ちょっと歩くが山形一寸亭で冷たい肉そば。平日ランチ、天ぷら付きで¥802。余談だが、ここの水は二日酔いにはたまらなくしみ込むうまさ。

続いて『叫び』レオバルド・ロペス・アレチェ。1968年10月2日、オリンピックを直前に控えたメキシコで、デモのため集まる学生たちに軍と警察が発砲した事件についてのドキュメンタリー。ナレーターは語る、「これは戦争じゃない。戦争ならばそこにいるものたちは戦うつもりでそこにいる。ここヴェトナムじゃない」。しかし発砲が行われるまさにその瞬間、戦場ではないその場所で、戦場と同じ出来事の連鎖が起きるのを目の当たりにする。「私はヴェトナムに行っていたから、照明弾が砲撃の合図だと知っていた。逃げろと叫んだが、誰もなんのことだかわからなかった」。
オリンピック、デモ。あえて言うまでもないが、それが遠い国の遠い過去の出来事だと、どうして言い切れるだろうか。

そして続けて見た『6月の取引』マリア・アウグスタ・ラモス。なんの前情報もなく、コンペも1本くらい見ておくかぐらいの気持ちで行ったら、そこでも同じことが違う時代違う場所で繰り返されている。2014年のサッカーワールドカップを控えたブラジルで、教育への支出を増やすように訴えるデモ。地下鉄職員のストライキと、そこに打ち込まれる催涙弾。
この2本を立て続けに見て、いまの日本を考えずにいられる者などいるだろうか。