10/10 「目をそらすな、怪物にならぬために」

結城秀勇

あえての『ヒア&ゼア こことよそ』ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリーミエヴィル、ジャン=ピエール・ゴラン。本映画祭では「政治と映画: パレスティナ・レバノン70s - 80s」という企画内での上映だが、そうした区分を越えて、ある種のフッテージ映像を使用したドキュメンタリー作品がどうあるべきかを考える参照項として見えた。
1970年の映像は完成されないまま手元にある。1975年に再びそれらを編集し始めねばならぬのは、その作業が慎重なやり方で進めなければならぬのは、ときとしてその映像そのものが持つ声はそこに付された「あまりに大きすぎる音」で単純化されてしまうからである。この作品の最終盤にいたって、ようやくゴダールとミエヴィルはいくつかの映像そのものを見るために必要な言葉を彼ら自身の声で乗せる。その慎重さはいまなお見習うべき指標としてある。この映画祭で見たいくつかの作品を思い起こしても、映像そのものを見るため音を付す作業をあまりに自明の前提として行っているのではないかと思えることがあり、あるいは逆にその作業の完遂が作品の最終目的になり過ぎているのではないかと思えることがある。あくまでわたしたちが見なければならないのはその映像であり、聞かなければならないのはその音であるというのに。

直前にそんな映画を見た後での『私はあなたのニグロではない』ラウル・ペック。これもまたフッテージの問題を避けて通れぬ作品だ。ジェームズ・ボールドウィンの未完原稿を元に、メドガー・エヴァーズ、マルコムX、マーティン・ルーサー・キングという3人の暗殺された活動家の横顔と、彼らが生きた公民権運動とが描かれる。だがベースにあるテクストのせいもあってか、作品自体から受ける印象は伝記的なものとも自伝的なものとも少し違う。むしろひとりの人間の孤独、欲望、そして愛についての記述が、文化的政治的な背景の中で肉付けられ彩色されていくという感じか。概ね好感を持って見たし面白かったが、だが「あまりに大きすぎる音」が付されているのではないかという懸念がよぎる瞬間がまったくなかったと言えば嘘になる。
しかしジェームズ・ボールドウィン自身の残された発言は、ゴダール=ミエヴィルとほとんどまったく同質のものだ。「私をリンチにかけたり、銃で撃つならばそうすればいい。そのとき私は彼より優位に立つ。なぜなら彼は私を見なかったことで怪物になったからだ。彼は私から目をそらし、私は彼を見つめた」。