10/6「いくつかのフロー」

安東来
松田春樹
梅本健司
結城秀勇
鈴木史

  夜行バスで朝6時に山形駅に着いた。初めての山形の早朝は雨が上がって空が澄んでいる。駅前の居酒屋街には白黒斑の野良猫、霞城公園にはラジオ体操をする人たち。歩き疲れて7時半に開店したOrion Caféに入る。煙草が吸えるのも有り難かったが、モーニングセットが290円なのは驚いた。明日も行こう。プレスパスを受け取った中央公民館の6階ロビーの一面のガラス窓に黄色い映画祭ポスターが目の高さで横並びに貼られている。開けた外の景色を見たい気もする。そのままダニエル・アイゼンバーグの『不安定な対象2』を見る。上映前に監督の挨拶があり、作品の一つのテーマは「個人vs大量生産」だと言った。3部構成で描かれる製品生産の現場のうち、ドイツの義肢工場とトルコのダメージジーンズ工場がその両極で、フランスのオートクチュール手袋の工場(こうば)はその中間と言えると。いずれにおいてもカメラが捉えるのは、作り手=労働者が生産過程でモノと向き合う姿だ。モノと動く手と表情が一つの画面にずっとあると、その作り手の労働と生産と消費までの関係がどのようであり、それが彼女自身にとってどんな意味があるのかと考えてしまう。特注の義肢ならば、誰のために作っているのかを想定できるが、大量生産のジーンズでは無理だ。オートクチュールの手袋でも消費者は匿名だが、作っているものに対しての愛着というか、意味付けができる。ジーンズ工場にはその時間的猶予がまず無い。関係経路が明瞭であることと、製作自体に意味付けができることがあるとひとまず言えるのか。けれど、手はそんなことを考えて動いているのか。3つの現場とも型があって、特注義肢ならば顧客の身体の一部の型が、オートクチュール手袋ではブランドのオーセンティックな手型が、大量生産ジーンズでは簡易的でマニュアル的な型があった。手はただ型を目指して動かせる。だとするとジーンズ工場のあの生産ラインの速度に手は付いていけるが、付いていけない何かがあるのか。それからもう一つ、ダメージジーンズのダメージの付け方が面白かった。擦ったり、線を入れたり、塗料を塗布したりする方法が、画一のマニュアルがあって効率的にやられているんだけど、それをやってる人たちにはアドリブっぽい感じもある。マニュアルの枠内のアドリブには勢いとノリがあった。あれはなんだ。(安東来)翌日へ

 グスタボ・フォンタンの『ターミナル』を見る。舞台はアルゼンチン、コルドバ州にあるバスターミナル。フレームいっぱいに広がる大型バスが画面の奥から登場し、ターミナルへ到着する。プシューッという圧縮された空気がリリースされるように、扉が開くとともに乗客がぞろぞろと降りてくる。ぱっと見でも40人前後は乗るであろうその大きさからは、頻繁に乗り降りされるタイプの定期循環型バスというよりは、朝と夜にだけ数を絞って運行するような長距離型のバスに見える。まだ霧がかった未明の、ろくに頭も起きていないような時間、光の中で、被写界深度の浅いカメラは、バスを乗り降りする人々の微睡みの時間を捉えている。バスが次の乗客を乗せ、ターミナルを発ってからは、それとはまた別のバスに乗るであろう人々がターミナルに集う。これからある場所に向かう(向かわなければいけない)人々の、覚悟を決め何かに集中しているような表情。あるいは、ただ頭を空にしてぼーっとしているような、けれどどこか少しナーバスにも感じているような、そんな表情が捉えられる。いや、表情とつい書いてしまったけれど、厳密には人々の表情など、この映画ではほとんど映されていない。フォンタンにとってのショットの厳密さであるかのように、カメラはバスを待つ人々の姿を真正面からは決して捉えていない。あくまでカメラはバスターミナルの中からガラス越しに外へと向けられているだけである。カメラがその位置から見据えるのは、ガラスの向こう側のベンチに座っている人々の背中、あるいは横顔である。さらに内から外への規則によって、キーライトとなるはずの朝日を背後に捉えてしまうがために、全てのショットが逆光になる。そのような理由から、バスを乗り降りする人々やベンチで待つ人々の姿は黒く塗りつぶされた影同然になる。夜の場面も同様に、キーライトがバスやターミナルが放つ光に取って代わるだけであり、その光の間を行き交う人々が影であることに変わりはない。ガラスに遮られているがゆえに、人々の会話の音声も拾われず、光と影のみで構成された映像はほとんど白黒の無声映画のようにも見え、知らぬ間に朝と夜が切り替わっている。バスの到着と出発は純粋な運動として繰り返され、ターミナルを行き交う数多の影がスクリーンを通り過ぎていく。『ターミナル』はそんな映画だ。と、ここまで淡々と、目で見たことを忘れないように何度も脳内で反芻しながら書き出してみたが、端的に言うと、グスタボ・フォンタンの『ターミナル』は傑作である。もうこれさえ見れればあとはなんでも良いとなってしまったので、とにかくまだの人は見て欲しいと念押すとともに、今日はこれを記するに留めたいと思う。(松田春樹)翌日へ

  4年ぶりの現地開催。日記は山形のときしか書かないから日記も4年ぶり。
 ずっとここで見ていればいいんじゃないか、と野田真吉『農村住宅改善』『東北のまつり』第一〜三部『忘れられた土地 生活の記録シリーズⅡ』に思わされる。人々の良い顔や力強い身振りは印象に残るけれど、特定の人物を追ったり、住民の心理的な葛藤を演出したりせず、もはや以前と同じように送ることができなくなった生活こそを、土地や居住空間、生活用具、行事と、それに合わせた住民の動きの関係によって見せていく。あっという間に5本見終わってしまう。
 とはいえ、当初立てた予定通りグスタボ・フォンタン『ターミナル』へ。決して広くはないそのバスターミナルがどんな場所なのか、よくわからない。カメラは全体像を把握できる場所に置かれることはなく、物陰に隠れたり、床を見つめたりしながら、暗く、ピントが合っていないボヤけた画面で、そのターミナルに訪れた人々を捉える。人に対しても、顔をしっかりと映したりせず、特定の人物が浮かび上がることは先ほどの野田真吉の映画よりもない。エンジン音、クラクション、話し声、足音、音楽など、多重に響き渡る音響から際立つように何人かの恋愛の記憶が語られるものの、それが一体誰の話なのか、その語りが始まる直前に映される人のものだと考えるのが妥当なのかもしれないが、はっきりと画面上で彼らと語りの関係が示されているとは言い難く、やはりわからないままだ。ゆっくりとした波に揺られているような感覚で、これもいつまでも見ていられる気がするけれど、さすがに見ているこちらも断片を繋ぎ合わせ、少しずつバスターミナルが頭の中でなんとなく具体的に立ち上がりそうになってくる。しかし、素晴らしいのはその直前に映画が何かを鮮明に示すことなく、淡さを持ったまま終わることだ。62分。
 最後に見たのはパヤル・カパーリヤー『何も知らない夜』。その前に見たイグナシオ・アグエロ『ある映画のための覚書』におけるマプチェ・コミュニティの闘争の記憶よりも、そこで語られるある恋愛と学生運動の記憶がより遠い朧げなものとして描かれているような気がした。でも、その出来事はつい最近、2016年から今も続いていること。モノクロのスタイリッシュな映像は現在性がどこか漂白されていて、見せられている悲惨な光景がこちらと地続きにある感じがあまりしてこない。あと「映画はシロとクロに収まらない微妙な色合いを描くことができる」という言葉自体はかまわないけれど、それを映画の最後に自ら提示してしまうのはどうなのだろう。(梅本健司)翌日へ

 『訪問、秘密の庭』イレーネ・M・ボレゴ監督を取材した(インタビューはnobodymag.comではなく映画祭オフィシャルサイトに掲載予定です)。
 カチンコやマイクが映り込むのを隠さないこの作品のつくりは、画家が自画像を描く時に絵筆やパレットを描き込むように、「自画像」的であるためなのだとボレゴ監督は語る。そのような自己省察的なフィードバックのループが、映画全体をかたちづくっている。いまにも生命の燃え尽きそうな弱々しい老人として登場するイサベル・サンタロが、後半ではいまなお圧倒的な尊厳をまとう現役の芸術家である姿を見せる時、「叔母みたいになるぞ」という家族の言葉に怯えていた姪は、彼女を師とするに至る。そしてその流れは、独裁政権下に「召使」として生きることを徹底的に拒んだひとりの芸術家にしてひとりの女性の肖像として、我々観客にも勇気を与える。

 その後道端でジャン・モンチー監督とバッタリ会ったら、「やっと小森はるかさんに会えてよかった!」と。4年前の香味庵で小森監督の作品とジャン監督の作品には通じるものがあるのではないかとオススメしていたのだった。
 その後、新香味庵にて小森監督に会ったら「ジャン・モンチーさんに会えたのでサインもらおうかと思ったんですけど、ペンを持ってなくて......」と。
 やはりこうした出会いの場が「ヤマガタ」なのだ。(結城秀勇)翌日へ

  山形に来ると知り合いが多すぎて寂しくなる。
 新幹線で山形に到着したのは映画祭2日目の10月6日の夜。とにかく寒くて、服装を間違えた。パスを受け取りに事務局に着いた瞬間から、受付に立っていた知人に声をかけられる。「あ〜、山形国際ドキュメンタリー映画祭が幕を開けた」と思う。この日は、〆切ギリギリの某原稿があり、山形に着いてからもホテルに直行しそれと格闘していたので、本格的に映画祭に参加するのは翌日の7日からになった。というわけで、初日はとりあえず、一緒の宿に泊まっている住本尚子氏、やないももこ氏らと合流して、ホテルで遅くまで原稿やって、爆睡。(鈴木史)翌日へ