10/7 「会えてよかった」

安東来
斗内秀和
松田春樹
板井仁
結城秀勇
梅本健司
鈴木史

  2日目は曇り時々雨。今日見た3作品は素晴らしかった。
 エキエム・バルビエ、ギレム・コース、カンタン・レルグアルクの3人の監督作『ニッツ・アイランド』は、オンラインゲーム内でドキュメンタリー撮影クルーというキャラクターでプレイする3人が、他のキャラクターと交流・取材するというものだ。プレイヤーたちは現実の自分自身とは異なるゲーム世界のキャラクターを演じている。キャラクターを操作するところに、自己投影や他のプレイヤーのとの関係構築を居心地良いものにする距離があるように思う。印象深かったのはゲーム内でプレイヤーたちが彼らの現実世界について語る場面だ。目の前のPCから目を上げて窓の外に何が見えるか、どんな部屋で暮らしているかといったことがキャラクターの姿で語られたとき、逃げて離れてたはずの時間が圧縮して戻ってきたようで、なんか泣きそうになった。
 イグナシオ・アグエロの『ある映画のための覚書』にはいくつもの映像の引用と、ときに誰が語っているのかわからない複数の語り、そして複数の言語によって、視覚と聴覚いっぺんには感覚できないような厚みと複雑さがあった。質疑応答でフィクショナルな方法はドキュメンタリーの定義に当てはまるかという質問があり、監督は、定義など無い、ドキュメンタリーは自由だ、とさらっと退けていたが、スプートニクに新谷和輝さんが書いているように、「この映画は歴史を語る術を模索している」のだ。そのとき自由さは大前提なのだ。
 『アンヘル69』は今日見る予定ではなかった。上記2本を見たあと、空き時間に中央公民館向かいのファミマの喫煙所に行くと、「Hello」と柔らかく声をかけられた。僕も「Hello」と返し少し話すと、その人が『アンヘル69』のテオ・モントーヤ監督だった。これから自作の上映だから良かったら見てと言って彼は戻っていく。僕は予定を変更した。彼のさりげない優しさに惹かれたから。そして本当に見て良かった。
 彼は長編を撮ろうとキャスティングのためにメデジンのストリートの友だちをインタヴュー形式で映像におさめる。そのなかには監督が特に惹きつけられ主人公にしようとしていたアンヘルもいた。けれどその映像が彼らの生きた最後のイメージになってしまう。それでも彼は自分が見てきた映画(コロンビア映画、B級映画、世界の映画)と自分が生きてきたコロンビア、メデジンの社会、生きている友人、死んだ友人に返すように、語ることをやめなかった。作中で監督自ら死を演じるように、インタヴューのなかで友人たちが死について「それは大親友だ」「休息だ」と語るように、質疑応答で監督が「亡くなった友人たちは映画のなかで生きている」と言うように、なんとか死んだ者たちと一緒に生きていこうとする。強い強い愛についての映画だった。(安東来)前日へ翌日へ

  夜行バスで6時半に山形駅に着く。降りてすぐにあるバスの待合所で鶏そぼろ弁当を買って食べた。7時になったら近くのスターバックスが開店したので、そちらに移動して上映まで時間を潰すことにする。9時半になったら出て、市民会館に行ったらすでにかなり並んでいた。
 まず、野田真吉の『原爆許すまじ:1954年日本のうたごえ』、『松川事件:真実は壁を透して』を見る。『原爆許すまじ:1954年日本のうたごえ』は、労働者たちの合唱イベントを記録した映画だった。ほとんど引きの絵と寄りの絵を一回ずつ映して、全国の団体を紹介していく。寄りの絵ではちゃんと一人一人の顔が分かるぐらいのサイズで撮っていて、感情を込めて歌うそれぞれの顔が印象に残った。最後は『原爆許すまじ』の大合唱で、引いた絵をカメラが上にティルドするという迫力のある演出があった。
 『松川事件:真実は壁を透して』は、取材や再現など様々な方法で松川事件を映画で究明するというもの。あまりに緻密な構成と徹底的な調査に圧倒されるが、この映画は自分に向けられて作られているのだろうかという疑問が湧いてくる。つまり裁判の映像資料のように見えてくるのだ。パンフレットによると野田真吉は徹底的に「モノ」と向き合うとある。この場合の「モノ」とは事実だろう。まさに事実と向き合うことで、冤罪という現実を変えようとしている映画のように思う。
 次に移動してフォーラム山形で『平行世界』を見る。本作の監督である母が撮ったアスペルガー症候群の娘エロディとの12年間を記録している。ほとんどの場合、母がカメラを持って娘をZOOM画面のように正面から撮り続けている。そして、娘に丹念に同じ質問を続けて、嚙んで含めるように様々な事を言い聞かせる。要するに教育の記録なのだ。この映画が異なっているのは、それを続けることで娘は成長しないことだ。いつまでも娘は娘のままで変わらない。また、母も母で同じ事で葛藤を続ける。2人が前に進んだり後ろに戻ったりしながらちょっとずつ前進していく姿を3時間に渡って丹念に映し取る。映画自体が娘と向き合うための手段だということが段々と分かってくる。最後に映画が辿り着くのは話の展開というより、12年という時間だけが経過したことが分かり終わっていく。平行世界という題名だが、この映画は子供を育てるということを世界と分かち合っているのだろう。
 最後に『Oasis』。共同生活をする男女の創作活動を通して都市を見つめるという映画だ。この男女は、カップルと言っていいか分からないほど淡々と生活する様子が描かれる。朝起きるところからはじまり、食事をするところ、休日にサイクリングに行くところなど。二人で行動しているが、そこにはいやらしさがなく自然体なのだ。一緒にいることが心地良いからパートナーなのだろう。そんな二人だからこそ、彼らが生活をする場所というものが見えてくるのだ。監督も後のQ&Aで言っていたが自分の実感から出発しているからこその実直さが魅力だと思った。
 22時頃に終わって、香味庵で少し飲んだ。楽しいからか、いつもより自分も他の人もそわそわしている。安井(喜雄)さんに挨拶したら安井さんはいつも通りであの笑顔だった。(斗内秀和)翌日へ

『ニッツ・アイランド』はDAYZというオンラインSFサバイバルゲームのプレイヤーたちにゲーム世界の中でインタビューを試みていくという、企画の時点で既に面白そうな映画である。それもインタビューの対象は2012年にSteamでリリースされてから、未だにDAYZをプレイし続けているレベルのある種ゲームを極め切った人々であるのだから、見る前から相当気になっていた。実際、開始早々、ドキュメンタリー班の3人(監督の3人)が最初に出くわすコミュニティはかなりヤバい、ということが徐々に分かってハラハラする。全編がゲーム内の画面キャプチャのみで作られているとは思えないほどのサスペンスがあり、タランティーノばりの「3、2、1......バンッ」が行われるとは......。
  『ニッツ・アイランド』の素晴らしさは、その撮影にかけた情熱にこそある。映画内でも示される963時間という途方もない時間。これは日頃からゲームを嗜んでいる人なら分かる数字であると思うが、並大抵の時間ではない。つまり監督たちが選んだのは、物珍しい対象を一方的に観察することではなくて、彼らと出会い、相対し、共存することだ。当初はゲーム世界を調査するドキュメンタリー班として、よそ者扱いされていた3人だったが、中盤で出会う牧師やチル、マクロやスラッグといった「自分に見合った」人々と本当の友情を育んでいく。コロナ禍に撮影された本作において、何かしらのリアルな事情があって長らくログアウトしていた人が久しぶりにログインしてくる時のあの嬉しさには身に覚えがある。コロナ禍を潜り抜け帰ってきた牧師がドキュメンタリー班の3人に対して不器用にも、しかし心の底から「また会えて良かった」と言う場面は泣ける。もちろんそれぞれの姿はアバターというペルソナに過ぎず、繰り広げられるのはVCでのコミュニケーションに過ぎないのかもしれない。けれど、963時間という途方もない時間が、彼らの間にたしかな親密さを生み出した。そして、あのラストカットに至るのである。(松田春樹)前日へ翌日へ

  たくさんの仕事を抱えたまま山形に来てしまった。山形はもう秋だ。涼しい風がうすら寂しい。喫茶店ラヴでナポリタンを食べる。常連だろうか、お客さんが訛った声で話している。そのイントネーションがなんだか懐かしく、いとおしかった。
 トリン・T・ミンハの『ワット・アバウト・チャイナ』を見る。映画は、彼女が1993年から1994年にHi8で撮影したフッテージが用いられているという。トリンは中国を、「歴史」からではなく、人々の姿、編み籠、ヤカンといった人々の暮らしに関わるもの、そして、その土台となる建築様式や自然、さらには水墨画や詩、民謡といった文化のうちから見出そうとする。それらの対象は、複数の声と重ねられ、すこしずつ異なる画角やズーミング、画像などによって、いくつもの異なる位相を見せる。そこで見出される「円」あるいは「調和」というテーマは、国家が押しつける直線あるいは垂直的なものにたいするものとしてあり、それは円楼あるいは土楼の住宅といった、かたちとしての円だけではなく、水墨画で描かれた川と撮影された川のモンタージュ、そしてそこに流れる水が、雲や靄、霞となって、後景の山々をぼんやりと浮かびあがらせ、それがふたたび筆で描かれた線となっていく、そのような循環としても描かれていた。しかし、そのような調和の中においても存在する、男/女の非対称なあり方が映されてもいた。中国では、山は男に、川は女に喩えられるというのだという。それをしるしづけるように、椅子から一歩も動かない男たち、あるいはビリヤードに興じている男たちに対し、川のそばで洗濯をし、炊事をし、生地をこねたりしている女たちの姿があった。映画の後半でトリンは、そのような伝承を、男の山と女の山、男の川と女の川という言葉によってずらしていこうとする。しかし、中国の一部をとってみても、こんなに多様で異なる民族や建築様式があるなんて、驚きであった。(板井仁)翌日へ

 『ラジオ下神白ーーあのときあのまちの音楽からいまここへ』小森はるか。たった3分ほどの歌謡曲のメロディとフレーズが、見知らぬ他人の長い人生の中にたしかにあったであろうある瞬間を、くっきりと浮かびあがらせてしまう。「人生って不思議なものですね」「ふたりを夕闇がつつむこの窓辺に」「見れば涙がまたにじむ」。そんなフレーズのただひとつだけで、その人のことなんてよく知りもしないのに、共感などというなまやさしいものではない激しい感情が呼び起こされてしまう。
 そしてその感情は、楽曲の盛り上がりに合わせて隆起するというよりも、ただただ楽しい歌唱の後、活気ある宴の後、「楽しかったね」「またね」と手を振り見送った後の、束の間訪れる静寂の中でこそ爆発するのが、すごく小森作品らしいところだと思った。
 そしてもちろん、『息の跡』の佐藤さんの「夜来香」を思い出す。(結城秀勇)前日へ翌日へ

  寝起きに『ニッツ・アイランド』。映画も一時期(今も?)言われていたように、ゲームも没入とよく言われるけれど、本当だろうかと思う。『ニッツ・アイランド』を見ていると現実のようにゲームの中で生きることのできないプレイヤーたちの虚しさのようなものをむしろ感じてしまう。ほぼ全編がゲーム内で撮影され、ラスト数ショットは現実世界を映すのだが、確かに現実がゲームのように見えなくもない。でもそれって「映画館を出た後に街を歩くと輝いて見える」くらいの話とは違うのかな。
 山形を離れ、仙台で開かれた上映会「Nowsreelシネクラブvol.2「ヴィジュアル・プレジャー : ローラ・マルヴィとピーター・ウォーレンのシネマ」へ。『スフィンクスの謎』。女性性、母性と物語の関係を全7章で検討していく。一見まったく違う7本の映画を寄せ集めたように思えるのだが、4章における13回の360度パンで一人の女性の生活の変化を捉えていく間に、ピリオドがない、まだ続いているテクストが挟み込まれていくように、すべての章が断続している。つまり1章が7章に、2章が6章に、3章が5章に対応する。くだんの4章は全体の構成を織り込みながら、もっとも具体的な物語を提供する。『エイミー! 』女性飛行士エイミー・ジョンソンのオーストラリア単独飛行50周年に寄せた、ヒロインとは何か、いかにして作り上げられるのかと問う短編。『クリスタル・ゲイジング』それぞれ不幸な結末を迎える4人の男女の物語映画。登場人物たちと同じようにマルヴィン、ウォーレンも物語を語ることがいかに何かを抑圧し、搾取するかに気付きながらも、物語を語ることの楽しさにも魅了されてしまっているように思った。3本とも明確なコンセプトがあるものの、それが袋小路に陥ったり、むしろ批判的に検討したい対象が魅力的に映ってしまうことにこそ、彼らの映画のスリリングな面白さがあるのだと思う。

 というイレギュラーな動きをしてしまったので、他の編集部には会えず。(梅本健司)前日へ翌々々日へ

 寝たのが遅いので、お昼前にもぞもぞ起きたら住本氏、やない氏はとっくに映画を見に出かけていて、「6年前に来た時はめっちゃ映画見たのに私もヤワになったな〜」と思う。ブランチを食べにカフェに寄ったら店員さんになぜか英語のメニューを渡されたので、日本語で「ルーローハンください」と答えた。

 タイミング的に小ホールでの野田真吉特集へ。『京浜労仂者 1953』と『1960年6月:安保への怒り』を見た。どっちも見たことある作品だったんだけど、フィルムで見るのは初めてで、その鮮明な画面に感動。『京浜労仂者 1953』にいたってはニュープリントだった。『1960年6月:安保への怒り』は、デモのシーンで「わっしょいわっしょい」と御神輿と同じ掛け声をかけあっていて、この時期の闘争をとらえた日本の映画を見てるとそのことがいつも気になる。1970年前後の学生闘争の映画を見ると、節回しは同じだけれども、そこに乗る言葉が「安保反対、闘争勝利」など具体的なものに変わってくる。一度、デモという形式が退潮して、また震災後の原発再稼働反対デモを経てSEALDsの頃になってからは、節回しそのものが微妙に変質してきてヒップホップと近接し、最近のトランスマーチなどはかなり抑揚のある節回しで、英語訛りの日本語みたいなコールなっていて(実際、人種や民族が多様なのだ)、そもそもクラブカルチャーと隣接した運動になっている。スクリーンいっぱいに何度も映し出される岸信介の顔を見続けて、なんだか悪い夢の円環を見させられているような気分になった。
 視界全体の面積が、景色よりも知人友人で満たされてしまう数日間。劇場を出たら、向こうから小田香氏が歩いてきたと思っていると、いつのまにかあたり一面が知人友人になっていて、「あーこんにちはー!! あーげんきですかー!?」と言い続ける。横浜で開催中の自分の展示を見に行ったよと言ってくれる人もいて、超嬉しかった。ありがとうございます。

 15:00頃からフォーラムで、波田野州平『それはとにかくまぶしい』と小田香『GAMA』を見た。『GAMA』、深く深く感動しました。カットの中でも、カットとカットが変わるタイミングでも、画面に生まれた意味に対する乗り越えや裏切りが起きる感覚。現実とフィクション、過去と現在、性差、生きているものと死んでいるもの、あらゆる境界が揺らぐ感覚。青いワンピースを着てグラディエーターサンダルを履いた吉開菜央さんが沖縄の砂浜に三角座りをしていると、航空機の轟音が3度響く。タルコフスキーの『サクリファイス』終盤の軍用機の轟音や、ストローブ=ユイレの『アンティゴネ』ラストの戦闘ヘリの轟音を思い出すけど、これは沖縄のリアルでもあるし、重ねて言えば過去の映画作家が画面に響かせたそれらの轟音も、我々の現実を取り巻く耐えがたいリアルがもたらしたものだったことを思い出す。
『GAMA』で感動しすぎたので、いったんホテルに戻って小休止してから、やまぎん県民ホールイベント広場での「野外スクリーン! で東北を魅る」にて、小森はるか『ラジオ下神白』。見ながら、雨が降ってくるし、めちゃくちゃに寒いし、でも映画は画面全体がやさしさで爆発していて終始号泣。「画面のなかにはいりたいけど、本当にこんな世界が存在するのかな、現実は悲しいことばかりなのに!!」「全然、冷静に見られなかった!! やさしさで感情がおかしい!!」などと、一緒に見ていたやない氏と話しながら、会場をあとにした。感情が爆発してしまったけど、ゆっくり腰を落ち着けて再見したいので、近々関東でも上映機会があるそうだから、そのときあらためて見直そうと思った。
 夜からフォーラムでニダール・アル・ディブス『ホームストーリー』。「だめだお腹がすいた!!」ということで、その場凌ぎで、やない氏とポップコーンペアセット・ハーフ&ハーフ(塩とキャラメル)を抱えて劇場に入ったら、だれもそんな観賞スタイルの人はいなくて恥ずかしかったけど、映画そのものは映画館への哀惜に満ちた映画だった。映画館は美男美女の幻影を見る場だったし、そもそも映画館はナンパするとこだったと語る市井の老人たちが良くて、わたしたちの観賞スタイルもなんとなく肯定された気がした。

 そのあと、「きんぎょ」という居酒屋に行ったら、住本氏、井戸沼紀美氏、秋田祥氏らが集まってきて、だんだんと人が増え、日本酒と山形の幸をいろいろ注文。だんだん酔ってきて、新・香味庵に顔を出そうということで行ってみたら、ものすごい人数の人々の洪水と、部屋に充満するサウンドに気圧されて、早々に離脱。外に出たら、夜中なのに店の軒先に「ズンドンッ!! ズンドンッ!!」とものすごい音で回る洗濯機があって、「山形にクラブがある!! コンタクトが山形に移転!?」などとみんなで騒いでいたら、「カラオケに行くぞ! まねきねこ行くぞ!」と誰かが叫び、走って行ったらさっき来たという草野なつか氏らが道路の向こう側にいて、「これは向こう岸に行ったら、わたしは体力ないから明日は映画見られなくなるぞ......」と理性を取り戻して、みんなに挨拶だけしてホテルに帰還。(鈴木史)前日へ 翌日へ