『ルディ・レイ・ムーア』(2019)
板井仁
クレイグ・ブリュワーは音楽がもつ変容の力をテーマに映画を制作してきたといえる。『ルディ・レイ・ムーア』もまた、音楽やコメディといったパフォーマンスによる変容の力を描いているが、注目すべきは、既存の産業から排除されたものたちが、DIY的な実践、すなわち自分たちの手によって表現の場を立ち上げていく、そのプロセスにある。
ロサンゼルスのレコードショップで働くルディ(エディ・マーフィ)は、併設されたラジオブースで、自分の偉大さをパフォーマンス的に誇示しながら、自分のレコードをかけるように訴える。しかしDJのロジ(スヌープ・ドッグ)からは、「じいさんが聴いていた」ような時代遅れの曲だと一蹴されてしまう。他の成功しているアーティストを調子よく貶しながら店内業務へと戻っていく彼は、夜にはコメディアンとして架空のペルソナをまとい、ナイトクラブに立つ日々を送っているが、そのコメディもまた思うように観客の心を掴むことができない。このようにして始まる『ルディ・レイ・ムーア』は、長年くすぶっていたルディが、いかにしてスターへと至ったかを描く伝記映画である。
転機は、ショップに出入りするホームレスのリコ(ロン・シーファス・ジョーンズ)が語るトーストをサンプリングしたことによって訪れる。黒人コミュニティの口承伝統であるトーストは、抑圧された人々の歴史や記憶を継承するメディアとしてあった。そしてそれは、のちのヒップホップ文化の核心となるサンプリングやミックスの手法へと連なるものである。ルディは、リコが店内で披露したドールマイトの物語をサンプリングすることで、観客を熱狂させる新たなペルソナを立ち上げることに成功するのであった。
映画の序盤、画面上に白人が登場することはない。当時のサウス・セントラル地区は、人種差別的な住宅政策とホワイト・フライトによって、黒人たちのゲットーと化していたからである。白人が初めて画面に現れるのは、ルディがレコード会社に録音テープを持ち込むシーンであるが、粗野で下品な内容であることを理由に契約を拒絶されたルディはここで、仲間たちとともにレコードを制作し、手売りすることを決断する。
このプロセスは、歴史的に生産手段を奪われてきた黒人たちが、DIY精神によって仲間たちとともにそれを奪還していく姿として見ることができる。この成功によってルディはレコード会社を動かし、ついに白人たちが持つ全国的な流通網に乗ることができたのだが、それは、レコード会社の幹部たちが語るように、開拓の余地がある黒人市場を、白人たちが搾取することを容認することでもあった。マイノリティが自らの文化を拡張するために、あえてマジョリティのインフラを利用する、戦略的な共犯関係である。ゲットーという閉ざされた空間からさらなる飛躍を遂げるためには、このように白人側のシステムに乗っかり、人種的、あるいは空間的な境界を撹乱していくプロセスが不可欠であった。
そうした共犯関係は、映画の中盤以降に描かれる『ドールマイト』の映画制作のプロセスにおいても反復されていく。廃墟を占拠して撮影スタジオを作り、白人の技術スタッフたちとも協働しながら撮影された『ドールマイト』は、買い手が見つからなかったため、インディアナポリスで自主上映をすることによって大きな成功を収めることになる。ここでもやはり、自らの手で実績を作った段階に至ってようやく、白人の配給会社と契約を結ぶことができるようになる。
また本作では、ルディが見出したレディ・リード(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)の表象にも焦点が当たっている。ルディは彼女の才能を見抜き、エンパワーしながら、舞台に立つよう背中を押す。それによって彼女はクイーン・ビーというペルソナを作りあげ、ルディとともにマイクを握るようになる。黒人で貧しい母親であるというインターセクショナルな立場にある彼女が、性愛関係のない対等なパートナーとして画面に映し出されること自体が、意義のある試みといえるだろう。一方で、実際にルディが仲間たちと制作した『ドールマイト』(1975)は、1970年代に人気を博したブラックスプロイテーションというジャンル映画であり、このジャンルは、従来の差別的な黒人像を打ち崩した反面、その多くはミソジニーに溢れ、家父長制的な暴力性を内包していた。そのことは『ドールマイト』の撮影現場のシーンや、本編の短い抜粋から窺い知ることができる。
『ルディ・レイ・ムーア』は、ルディの成功や、彼とレディ・リードの美しい連帯を描く傍ら、ルディの成功が白人社会と戦略的な共犯関係を結ばざるを得なかったことを必ずしも隠蔽するわけではなく、トーストやブラックスプロイテーションが含むミソジニーを完全に抜き去っているわけでもない。一見誰もが安心して楽しめるサクセスストーリーに映りながらも、この映画に複雑さを与えているのは、ブリュワーのある種リアリスティックとも呼べる成功への眼差しではないだろうか。そして、その複雑さは、白人監督クレイグ・ブリュワーとNetflixという巨大資本のインフラが手を結んで『ルディ・レイ・ムーア』を生み出したという事実にも、思いを馳せさせる。