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April 24, 2020

『ルディ・レイ・ムーア』クレイグ・ブリュワー
結城秀勇

[ cinema ]

 かなりの評判をこの数ヶ月間聞いてきた『ルディ・レイ・ムーア』をやっと見た。ご多分にもれず号泣。
 実在のコメディアン・映画プロデューサーの伝記映画なのはなんとなく知っていたから、もう60歳に手が届こうというエディ・マーフィの起用は、てっきり一瞬の栄華を極めた男のその後の衰退までを描くことを意味しているのかと思っていた。『ハッスル&フロウ』『ブラック・スネーク・モーン』に続くはずの三部作の完結編の製作の噂がまったく聞こえてこず、『フットルース』のリメイクを撮ったきり長編映画の監督の話を聞かなかったクレイグ・ブリュワーのひさしぶりの監督作というのも、そんな勘違いを助長したのかもしれない。
 だが実際のルディ・レイ・ムーアが「ドールマイト」のキャラクターを生み出した時期(40代半ば)よりもさらに10歳以上年上であるはずのエディ・マーフィの顔からは、老いのようなものをまったく感じない。それはメイクのせいやなぜか山寺宏一の吹き替えで見たという事情も関係しているのかもしれないのだが、新人として世に売って出るにはあまりに遅すぎることをしめすルディの中年太りの腹すらもエネルギーの貯蔵庫のようにさえ見えて、そのことはこの作品全体のテイストを決定づけているのかもしれない。
 感じないのは老いだけではない。「雌の象も雄の象もヒイヒイ言わす」といった下ネタや、枚数を重ねるごとに人数が増えていくアルバムジャケットに写る裸の女性たち、常に女性たちをはべらせるピンプという映画内のキャラクターとしての「ドールマイト」像にもかかわらず、この映画のルディ=エディ・マーフィにはセックスの香りをまったく感じないのだ。場末のクラブでスカウトするクイーン・ビー(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)に対しても、その他の女性男性を問わぬ共同作業者である者たちにも、仲間としての連帯という一線を越えることを疑わせるようないやらしさをほんの一瞬たりとも見せない。すべてはうわべだけ(「ドールマイト」というキャラクター自体が路上生活者たちの話からのサンプリングだ)なのにもかかわらず、そのうわべこそがすばらしい。ネット配信映画会社の製作で、これぞ「ザ ・下品」というモチーフなのだからもっといくらでも際どいものになってもおかしくなかったのに、『ルディ・レイ・ムーア』はまるで老若男女がみんなでテレビで見て楽しめるような映画になっている。......あれ?それってかつてのエディ・マーフィの映画みたいってことなのか......?
 ルディにとってのメディアは文字通り身体の延長だ。ステージ上で大受けした新キャラクターを、「6ブロック」に渡って住む黒人層に届けるためのレコード。販路拡大のためにドサまわりをするルディが映画に目をつけるのも、まさに自分の身体の代替物としてだった。だからこそ本作のラストにはもう涙が堪えきれない。「盲目の犬に見せるのすらもったいない」とまで酷評された映画が、蓋を開けてみれば、劇場に入りきれぬ大行列。夕方の回も、夜も深夜の回さえもいっぱいで、いま並んでる人は深夜2時の回まで見れないだろうという劇場主の声。それを聞いたルディが、「待ってる人たちには、その間映画の代わりにおれを見てもらおう」と言うときの感動をどう表現すればいいのだろう。ルディの身体の拡張だったはずの映画が、いつの間にか逆転していて、ルディは自分の身体で映画を拡張する。
 映画館がこれだけ閉まっていて、向こう数年の間には通念としての映画の意味が変わってしまうのかもしれないいま、この映画のルディ・レイ・ムーアのように、いままで自分を拡張してくれた映画を、この身体でわずかなりとも拡張することができたなら。

Netflixにて配信中

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