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2005年10月13日

都会の喧騒を離れ東北の小都市で静かに映画に浸る、そんなイメージを山形国際ドキュメンタリー映画祭にお持ちの方もいらっしゃるかもしれないが、そんなことはない。映画祭は過酷だ。会期中、どんなに夜遅くに寝ても朝7時にははっと目が覚めてしまう体になってしまった。スタッフの方々の疲労の色も日々濃くなっていく。そして会う人は大体東京の人だ。優雅な旅というわけにはいかない。
しかしながら、理念としての映画祭はいついかなる場合も旅であるべきだ。見知らぬひとや風景に出会い、連れ去られる。そんな体験の場所としてあるべきだ。今回もそのような体験をいくつか味わった。だがその一方で、こちらは出発の準備ができているのに、その行く先がどこか既視感にまみれていて腰が乗らないという体験もあった。
ともかく各受賞作品は次の通り。http://www.city.yamagata.yamagata.jp/yidff/2005/2005.html#award
そしてnobodyが選ぶ3本は『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー)、『白塔』(スー・チン、ミー・ナー)、『海岸地』(アルベルト・エリンフス、オウジェニー・ヤンセン)だ。この中の順位に関しては、渡辺との間に違いもあるかもしれないが、この3本を選ぶことでは意見が一致した。その理由は、この3本がドキュメンタリー映画の現在の潮流を裏返しに示唆しているものだと感じたからだ。
言うまでもないが、デジタルビデオカメラの普及によってドキュメンタリー映画の質は決定的に変化した。いや、その本質は変化していないが、スタイルが変化したのだというべきか。とにかく明確に見て取れる変化はふたつある。ひとつは機械的な性能の向上によって、映画作りに必要な人手が少なくなったこと。もうひとつはフィルムを使用しないことによって、より多いフッテージを容易に用意することができるようになったこと。このことから、今回の映画祭に出品されたほとんどの作品をふたつに大別することができるように思う。ひとつは、より個人的な作品、自分の家族や隣人を長時間にわたって撮影する作品だ。今回の特集のひとつ、「私映画から見えるもの」という企画自体がそのことを示している。もうひとつは、どこかへいって長期間にわたって進行する出来事に寄り添う作品である。大賞であるフラハティ賞を受賞した『水没の前に』(リ・イーファン、イェン・ユイ)もこのタイプの作品である。さかのぼれば前々回の『ヴァンダの部屋』、前回の『鉄西区』もそういった作品だ。こちらの傾向はまさに先ほどあげたデジタルカメラによるパラダイムシフト以後にしか現れ得ない新しいタイプの映像であることは間違いないのだが、しかしながらここで明 記しておきたいのは、『水没の前に』の映像がすでに既視感にあふれたものになっていたことだ。『ヴァンダの部屋』『鉄西区』では作品の強度として見えた細部が、この作品ではこのタイプの傾向を示す諸特徴として目に映ったにすぎなかった。
今回の作品には最低3、4年の制作年月をかけた作品が珍しくない。むしろ多数派だといってもいいのではないか。したがってその膨大なフッテージの処理、編集が画面に直接映し出されるものに負けず劣らず作品のよしあしに大きく関わってくることとなる。『海岸地』のふたりは、長時間の撮影で大量の素材を用意することを選択しない。7年という長い撮影時間をかけたこの映画だが、トータルフッテージは恐ろしく少ないという。スーパー16mmでの撮影であることの金銭的な要請もあってのことだが、単純に画面の強度では今回のベストだろう。『ダーウィンの悪夢』、『白塔』の2本に関しては、むしろその真逆、素材の処理の方法を評価したい。この日記では、この2作品にフィクション的なアプローチがあったことを書いてきたが、素材の配置の仕方が独特だ。「nobody」20号のインタヴューで、ジャ・ジャンクーが語っていた、「デジタルカメラによって、絵を描くように映画を撮ることができるのではないか」という可能性に近いのがこの2作品ではなかったかと思う。また『アンコールの人々』(リティ・パニュ)の名も、ここに添えておきたい。
クロージング上映は『OUT OF PLACE』(佐藤真)。エドワード・W・サイードの足跡をたどった映画だ。サイードは「境界線上にあれ」と言う。この映画を見ている間、『ルート181』(ミシェル・クレフィ、エイアル・シヴァン)のことを考えていた。暴力的に引かれた一本の境界線、ある者には自明のものとして存在すら認知されない線、またあるものは強く否定し描き変えようと試みる線、それを改めていまなぞりなおそうという試みがこの映画であるはずだ。しかし常に境界線の一方の側からもう一方の側に言葉を投げかけているだけで、決して境界線の上には立っていないじゃないかと強く思った。
映画祭は過酷だとはじめに書いた。例年思うことだが、毎日3、4本の映画を見ていてもこんなにまだ見ていない映画があったのか、と愕然とする。少なくとも山形国際ドキュメンタリー映画祭には、コンプリートする悦楽は存在しない。そんな自己満足な楽しみは真っ向から否定され、いやおうなく自分の選択に責任を取らなければならない。実は、それこそが2年に一度ここへ足を運ぶ重要な理由であることに気づく。初日はあんなに暖かかったのに、最終日も日が暮れると、すっかり冬の気候だ。(結城)

投稿者 nobodymag : 21:01

2005年10月12日

今日はふたつのインタヴューだった。まずは『白塔』の監督たちにインタヴュー。映画の中に「ある」ものについて聞く。その「ある」ものが内容、あるいは監督たちの描こうとする聾唖者の世界と密接に結びついていることに気づかされる。ただこの奇跡のような映画が必ずしも監督たちの撮ろうと思っていたものではなく、いくつもの偶然が重なり合ったものであったことがおもしろい。いずれにしても、この映画を多くの人に見せたい。で、もう一方の映画の監督はというと時間になっても現れないのであきらめることにする。スタッフの方にはいろいろと調整をしていただいたのだが……。
そのあとは映画を見る。『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』(ドミニク・オーヴレイ)。ジャンヌ・バリバールの歌う音楽を背後に、壁に貼られたデュラスの写真を撮影していくことからこの映画ははじまる。監督自身、「この映画は私の中にいるデュラス、私の知っているデュラスを見せるようにフッテージを選んだ」と語っていたが、ここで見られるデュラスは微笑を浮かべ、仲間に慕われ、真摯に対話をするどこまでもやさしいデュラスであった。そこには文学者でも、映画監督でもないデュラスがいる。唯一この映画のために撮影したという最初の場面がデュラスと監督の関係を物語っているだろう。
そのあと、『アフリカ・ユナイテッド』。アイスランドの3部リーグ、アフリカ人を中心としたチームの奮闘振りを描く。アフリカ人特有なのだろう。テクニック重視のチームプレイを無視したプレーのオンパレード。そして、そのチームを率いるのは、偶然ではあるが、ジーコという名前の男なのである。ジーコは選手に当り散らし、審判に文句を言う。内容としては予想通りの展開。そのあとテレビで見たウクライナ戦でも映画とまったく同じような場面が見られたので笑ってしまう。
山形の滞在もあと少しとなったが、結城さんにいろいろなところに連れて行ってもらい山形の「食」を食べた。山形では牛肉を刺身で食べる。小さいころから親に肉は赤い部分がなくなるまで焼かないと危険だといわれて育った僕はそれが日常的に食されていることに大変驚くのだが、口の中でとろけるような柔らかい食感で大変美味しかった。そして菊の花の天麩羅が美味しかった。花びらのさくさくとした食感がよくて、僕にとってはこちらのほうが山形牛以上に山形の「食」だ。映画の中に美味しそうな食事を見ることはほとんどなかったが、山形の「食」は大変美味しかった。
映画祭も明日で終わりである。(渡辺)

投稿者 nobodymag : 15:27

2005年10月11日

『アンコールの人々』(リティ・パニュ)。監督がなぜわざわざ、誰もが感情移入できるような貧しい美形の物売りの少年や、遺跡で働く老いた労働者たちに語ることを強いるのかといえば、それはひとつの絵解きを行っているからにほかならない。前作『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』でも非常に重要な小道具として存在していた写真は、今回もまた大きな役割を課されている。母を失った少年は、見知らぬ女性が写った写真の中に母の姿を見出すのだ。だが今回、写真以上に作品全体に影響を与えているのは、遺跡の壁に刻まれた彫像たちである。その遺跡があるために集まってくる観光客にみやげものを売ることで少年は生計をたて、労働者たちはその遺跡を修復する作業によって日々の糊口をしのいでいる。彼らはそれなしでは生活することができない。そして思い思いにそこから物語を汲み取っていく。片膝をつき額に手を当てた男の絵は、病に苦しむ姿なのだとも、妻を殺そうとした罪の意識にさいなまれている姿なのだとも語られる。「いくつもの異なるヴァージョンがあるからな」と、彼らは異なった解釈をもさらりと容認するだろう。
前作『クメール・ルージュ』で人々が見つめていたのが、虐殺の犠牲者たちという非常に限定された対象だったとすれば、この映画に出てくるのはもっとあいまいな図像である。アンコール・ワットが写っている以外に、どのようなコンセプトで撮られたかわからない写真、巨大すぎてそのひとつひとつの細部がどんな物語を語っているかはもはやわからない壁画、国旗の変遷の中で変化する塔の数。ここで監督が目にしているのは、カンボジアという視界に入りきらぬまでに大きなひとつの絵なのである。このようなやり方がいくつもの亜流、異なるヴァージョンを持たなければ完成しないのだとしても、「正しい歴史」には決してならないやり方で、彼は絵解きを試みる。
先日の日記で渡辺が「衣食住」が大事だと書いていたが、彼がまったく山形らしい食い物を食っていないようなので、市役所の裏にあるそばやへ連れて行く。その後上映時間の合間を縫って『ルート181』の一部分を見る。またしても「住」の問題だ。48年の分割線上に沿って移動し、ときにそこで出会った人々を詰問し、ときに彼らに共感するカメラが、言葉を放つこともできずなすすべもなく人の波にもまれてしまうシーンがある。デモ隊と軍隊の衝突の場面だ。プラカードや横断幕を持ち、Tシャツにジーンズといった各人がめいめいの格好をしたデモ隊の人々は、「戦争はいらない、兵器もいらない、制服もいらない」と大声で叫ぶ。警察や軍隊との衝突はなしで、と前もって語っていた彼らはいつの間にか軍隊と向き合い、突破しようと試み、交じり合う。そんなとき彼らと軍隊との間に明確な分割線があるのだろうか。走り抜けようとする女性を引きずり倒す制服の人間たちを好きになれようはずもないが、私には思い思いのTシャツとパンツもまた別種の制服なのではないのかという気がしてならなかった。
昨日上映された『白塔』(スー・チン、ミー・ナー)。スケジュールの関係で明日の上映を見ることができないためビデオにて視聴。全世界の聾者の実に1/5を抱える中国における、彼らの恋愛と結婚をめぐるドキュメンタリーだ。『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー)が探偵映画だとすれば、こちらは疑いもない恋愛映画に仕上がっている。何がそんなにいいのかというと、ひとえに手話がこれほどまでに恋愛を描くのに適したものだということをこの映画は教えてくれることだ。彼らはコミュニケーションをとるために必ず向き合わなければならない。対話におけるイマジナリーラインを現実に結ぶことによって意思が伝達される。自分の話を聞いてもらうために相手の体に触れたりする、そんな親密な距離感もひとつのフレームに収まっている。聾者と健常者の間の溝、中国と台湾との経済格差、田舎における老いた親との関係、そんな問題をはらみつつも、この映画はあくまでひとりの男とひとりの女を捉え続ける。
この映画のラスト近く、それまでこの映画が保持していた直線的な視覚のコミュニケーションが一瞬にして奪われるシーンがある。街頭で女が歌っている。その歌の歌詞は互いにこれまで恋愛相手を見つけることができなかった男女の出会いの物語である。そんなまさに主人公の男の物語そのものな話を、彼はその場にいつつ耳にすることはない。カメラはふらふらと不連続な映像をつなぐ。
そして音のない世界を描いてきたこの映画は、最後に音だけになって終わる。周りは敵ばかりの世界と、音という失われた手段でコミュニケーションをとろうとする男の姿は、不器用だが勇敢で感動的だった。(結城)

投稿者 nobodymag : 18:01

2005年10月10日

『海岸地』(アルベルト・エリンフス、オウジェニー・ヤンセン)。河川と陸地の間の、土手のような中間地帯をカメラは静かに捕らえ続ける。
そこにいる家畜、人間、花木といったものを7年間に渡って撮影し続けながらも、監督たちはわずか70分の作品に作り上げている。しかも「year 1」「year 2」という記号的な章立ての下、1年1年がすべて約10分という長さに機械的なまでに凝縮されている。そのわずかな時間の中に、人の死、建物の解体、道路の開通など、綿々と続く日々の生活に変化を与えるような場面の映像が入り込む。ただしそれが、ひとつの方向性(たとえば進歩や近代化と呼ばれるような)をもった徐々に進んでいく変化の一部分なのかはわからない。たとえば、兄の急死を知った男性が淡々と語るような、季節や自然の営みのサイクルを越えたところにある反復(「10年前上の兄が死に、今日その下の兄が死んだ」)に、この作品は触れている気がした。(結城)

投稿者 nobodymag : 11:16

2005年10月 9日

ここまでに7、8本の映画を見ただろうか。それらの映画の多くを見ていると既視感が襲う。手法やカメラの向ける対象がすでに他の映画で見たような気になる。決してつまらないわけではない。だが、情報を交換しようと知り合いに見ていない映画の感想を求めると、「いたってオーソドックスな手法で……」であるとか、「○○みたいな映画だった」といった言葉が返ってくる。また自分もそんなことを言っているような気がする。何か物足りない気はするが、しかしそれは同時にひとつひとつの作品の水準が上がっていることも意味しているのではないかとも思う。
そんななかコンペ部門『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー)は他の映画とは毛色の違う映画であった。ひと言で言ってしまえば、まるで探偵映画のようなのである。湖の上を低空で飛行機が飛んでいる。大きな唸りを上げて一日に何度も上空を飛ぶ飛行機。それはナイルパーチを外国へと輸送する。アフリカ第一の湖タンザニア湖では50年前にはいなかったはずの魚ナイルパーチが在来魚200種の魚を食いつくし大繁殖している。そしてその魚はヨーロッパや日本などに輸出され、現地で大きな産業となっているらしい。漁師、加工業、そして加工の段階でごみとして出る魚の骨や身などが現地の人向けの食料としてまた新たな産業となっており、現地の80%の人間がナイルパーチに関わる職業についているという。この地域から魚を運び出す飛行機だが、その飛行機はこの地域に来るときにはいったい何を運んできているのか。監督はそこに武器密売の気配を感じひとり調査を始める。その姿はフィリップ・マーロウのような探偵の姿を思い起こさせる。監督の周りに集まってくる人々もあたかも探偵小説の登場人物のようだ。ナイルパーチで一大財産を築いた社長。現地の様々な情報に精通している絵描きの男。彼は監督に情報を提供する。兵舎の警備をしていて戦争が再び行われることを期待している男。この男は監督を毒矢で挑発する。「この矢が当たればおまえなんてすぐに死んでしまう」と。ロシア人パイロット相手に身体を売る女たち。そのなかでもとびきり美人のエリザはあたかもファム・ファタールのような印象さえ受ける。甘い声でタンザニアの歌を歌う。監督は彼らに対していったい飛行機は何を運んでいるのか問いかける。その質問に対して狂ったように笑い出す者も沈黙する者もいるが彼らの答えは一様に同じである。飛行機の中は「空っぽだ」と。しかし監督だけがその背後に何かがあることを確信しているのだ。この映画の舞台となっている場所にはある産業の光と影がある。魚をそのまま映画に、ハリウッドをそのままタンザニアに変えればかつての探偵小説そのままの世界だ。監督は必ずしもフィリップ・マーロウではなかったようだったが、この映画はこの日まで見た映画の中で一番の発見であった。
リティ・パニュの新作『アンコールの人々』はやはり記憶を扱った映画であった。彼の前作『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』を見た人はあまり納得していないような感想が聞かれたが、一番安心して見られる映画ではあった。登場人物は観光客相手に物を売り、母親を探しにアンコール・ワットに来ている『誰も知らない』の柳楽君を思わせる風貌の少年と、アンコール・ワットの修復に携わる男たち。彼らはアンコール・ワットの石に刻まれた壁画から、少年の持つ写真から、そしてこれまでのカンボジアの国旗が書かれた写真から物語を話し始める。またイタコや古僧などが現れ、それを装置に物語が発動していく。そこからアンコール・ワットの作られた当時からのカンボジアの歴史そのものが姿を現してくる。見ていて流石という印象は受けたが、リティ・パニュの映画に特有の、人々があらかじめ決められたせりふを話しているかのような棒読みのしゃべり方や、演出の介在を強く感じさせる部分が前作に比べるとあまりうまい方向に向かっていないのは否定できない事実ではあった。(渡辺)

投稿者 nobodymag : 11:06

2005年10月 8日

初めての山形。いきなりであるが、思うのはやはり「衣・食・住」の「食」と「住」が重要なのである。いかに快適にやってくるか、いかに良いところに滞在するか、そしていかに現地で美味しいものを食べるかが大事なのだといたく実感する。とはいってもどれもおろそかにしてしまっている。知人のところに居候のように滞在し、いまだたいしたものは食べていない。いまだ山形に来ているという感じはしていない。いまいちまだモチベーションがあがってこないのも映画だけの問題ではないような気がする。
この日見た映画は偶然であろうか、多くが「家」についての映画であった。スウェーデンの映画『老いた猫のお引越し』(ヨハン・ルンドボーグ)も、その後見た「特集「全景」の試み」のなかの1本『天下第一の家』(ウー・イフォン)も、コンペ部門『水没の前に』(リ・イーファン、イェン・ユィ)もすべて家についての物語であった。そこでは年老いたひとり暮らしの男女が老人ホームに入るかどうかの判断に揺れ(『老いた猫のお引越し』)、地震によって家を失った人々が(『天下第一の家』)、あるいはダムで水没してしまう街の人々(『水没の前に』)が自分たちが今後生活する場所を探し求める姿が語られる。彼らは国の用意した住居に満足せず、ある者はいつまでも劣悪な環境にとどまり続け、またある者はその環境を受け入れ引越していくのだった。たとえばドキュメンタリー映画において、人や街を対象とする場合、そこでは生活が重要なものとなり、それゆえに「家」が対象になるというのはいたく当然なことなのだと改めて気づかされた。
この日、一番の目玉はコンペ部門の『水没の前に』だった。前評判がとても高い作品。この映画はダムが建設されるために水の中に沈んでしまう街を描く。水揚げされた魚を運ぶ男たち。ふたり一組になって、樽に入れられた桶を担いで街の中心にある階段を上っていく。カメラはその姿を追っていく。男たちが走り出せばカメラも走り出し、男たちが暗がりの中に入っていけばカメラもその後をついて行く。カメラに何も写っていなかろうがお構いなしだ。その代りに多くの音がそこに溢れている。男たちの話し声や、魚の飛び跳ねる音、街の騒音。映像が語る以上に音が多くのことを語っている。たとえば、お金について語っている人々の横で「パチッ、パチッ」という音が聞こえてくる。画面に映りもしないそろばんと思わしき音がやけに印象に残り隣の話し声を打ち消してしまっている。そうした最初の、落ち着きのなさと言ったらいいのだろうか、バタついているところは見ていて楽しかった。だがその後、カメラは映す対象を限定し物語が安定しだすと同時に、味気ないものに感じられるような気がした。現在多くのドキュメンタリー映画が3年、5年といった期間に渡って同じ対象を取材し続けるということが普通に見られる。そうしたことはいまではぜんぜん珍しいものではなくなっている。この作品に関して言えば、そうした時間を経て画面に映るものよりも最初にある、起こっていることをとり逃さないぞといった意思の感じられるバタバタとした感じが個人的には好きだったので、後半はちょっと残念だった。(渡辺)

投稿者 nobodymag : 10:59

2005年10月 7日

例年、この季節に山形に来ると秋口の寒さはこんなにもだったかと思い知らされる。その教訓を生かして、真冬でもいけるアウターとニット帽を身に着けてやってきたが、肩透かしを食らったように寒くない。むしろ東京のほうが寒いのではないかというくらいだ。開会式の時間に急いで走っていったら汗ばんだ。
そんな個人的な事情とはお構いなしに、オープニング上映の2作品はどちらも豪雪映画だった。小川紳介『肘折物語』(92)と石本統吉『雪国』(39)。前者は温泉で有名な肘折を舞台にフィリピン人妻の問題を作品化しようとしていた小川が、そのテスト撮影のために肘折を訪れた際の素材である。彼の死によりその作品は制作を中断した。後者は、こちらも豪雪地帯として名高い大蔵村の冬場の雪との戦いを、3年の歳月をかけて取材したものだ。
『雪国』では、雪は克服されるべき敵だという主張を繰り返す。夏場の田植えの時期にも、秋の収穫の時期にも、目には見えずとも住民たちを冬への危機感へと駆り立てるような存在なのだと。そのために傾斜が50度を越える勾配の切妻屋根を持つ西洋風の住宅が建設され、雪道をものともしない戦車のような乗り物が配備される。その一方で、たったひと言なのだが村の上役のような人が、「雪の恐怖を克服して、われわれは雪の白さを持った明るい心を持つようにならなければならない」というような棒読みの台詞を言う場面がある。駆逐しなければならないが、同時にそこに同一化してもいかねばならない対象である雪。広い窓をもつ西洋風の実験住宅とその周りにたくさんある従来の薄暗く住民も馬も(馬も同居しているのだ)健康を害するような民家、あるいは巨大な雪上車と馬が引く荷車とは、漸近的に接近していくような関係ではなく、むしろまったく関係を持たずにただそこに併置されているかのように見えた。
残念ながらフィリピン人妻とどのように関わっていくはずだったのかはうかがい知れない『肘折物語』だが、冒頭の男性の言葉が彼女たちも必ずや受けたに違いない雪による拒絶を想像させる。「寒の雪だから。ここいらのもんでも大変だ。ましてやよそのもんでは無理だ」。大変だ大変だと繰り返しながらもどこか楽しそうなその男性は、こんな印象的な言葉をつぶやく。「寒の雪だからね。下から下から吹き上げてくる。そのまま持ち上げられて、自分が雪になっちまうみてえだ」。その愉楽のような苦痛への、同化と拒絶の境界線へ向けてこの作品は作られるはずだったのかもしれないと、そんなことを考えた。(結城)

投稿者 nobodymag : 13:11