『ケイコ 目を澄ませて』三宅唱インタビュー

『ケイコ 目を澄ませて』では、ずっと見ていたいと思わされるケイコだけではなく、彼女以外の他者の存在が欠かせない。一見物語に関わっていないようなただ画面を通り過ぎていくような人から、わずかだがケイコと出会い別れていく人。彼らがいかにしてケイコと関わり、関わらなかったのか。公開からしばらく経ってしまったが、われわれが本作の何を見て、何を見逃していたのかを確かめるために改めてお話しを伺った。

誰かと出会うために

取材・構成:梅本健司、鈴木史、隈元博樹
協力:松田春樹

荒川拳闘会の外で

——『ケイコ 目を澄ませて』では、他者との関係が様々な層となって見えてきます。ケイコと関わっていく、あるいは関わらずにただすれ違っていくような人物も含めて素晴らしいと思いました。例えば、最初のトレーニングを終えたあと、ケイコがアパートに帰ってくると階段でゴミを出しにいく男性とすれ違い、会釈を交わします。お互いのことをほとんど知らないけど、知らないふりをする仲ではない、ある意味親密な関係が映っていますよね。

三宅唱(以下、三宅) 映画のなかに映る街や人につい気をとられるのが好きです。例えば、主人公がカフェにいるとして、まあ大抵は周りに他のお客さんもいるでしょう。そんな場面があったとして、この後二度と出てこないような客の単独ショットを撮る監督もいますよね。今ふと『ウェンディー&ルーシー』のカフェで本を読んでいる男の客を思い出したんですが、あの客を通して、その街だとか、さらには主人公のことも少しわかるように感じたのは気のせいではない気がします。以前から自分も、街をどのように撮れば映画が面白くなるかを試行錯誤してきました。
 ケイコさんは集合住宅に住んでいる。となると自然と、「周りにはどんな人が住んでいるんだろう?」って誰でも考えると思うんですよね。スタッフの中から探すことにして、照明の藤井勇さんが一番面白いんじゃないかとなり、お願いしました。僕らが普段、道で近所の人とすれ違うとき、お互い無視しあうということもあるかも分かりませんが、そういうリアリティーはさておき、映画でそれを撮るのはちょっとラクしすぎというか面白くない。じゃあちょっと会釈をしてみるのはどうだろう、と。それに対してケイコさんはどう反応するのか。ケイコを描くには、そういうリアクション、街の人とどう触れ合うのか、あるいは触れ合わないのかを見ていけばきっと面白いんだな、という発見がありました。周りの人とともにケイコのいろんな側面が見えてくる感じ。それで、先に隣の住人がフレーム内に映って、そこにケイコさんがやってくるという段取りになりました。

——そのような親密な働きかけがある一方で、無愛想な他者ともすれ違います。最初にジムに通じる小道が映るとき、ケイコがサラリーマンとぶつかって、罵声を浴びせられます。ケイコの日常の困難を示す一方で、嫌な感じが尾を引かない、あくまでケイコが生きていくプロセスのひとつに留まって見えてくる場面だと思います。

三宅 今言ってくれたように、嫌な感じとボクシングを因果関係として結びつけてしまうことは簡単です。例えばぶつかってワーッとなったあと、次のカットでドンっとサンドバックを殴っている、なんて展開もやれるのだけど、何か引っかかるというか、つまらない。そう描くのは、ケイコさんを狭く、短絡的に理解させてしまうことのような気がするし、別に面白くない。階段上でサラリーマンとぶつかったあと、会長(三浦友和)とスパーリングをしている場面に繋げていますが、あくまでもボクシングの修練に集中している。あの時点のケイコさんにとっては、プロ2戦目を控えるケイコさんにとっては、5分前にぶつかったあの男なんかどうでもよくて、今目の前に立ってミットを持ってくれている会長に真剣に向きあうほうがずっと大切なことなのだと思います。

——あの小道は反復して見せられます。いつも通りでないことが起こっても、常に同じ位置、角度から小道を捉えている。それはあらかじめ決められていたことだったのでしょうか。

三宅 はい、そうしたいと計画していました。ただ、それがうまくいくかどうかは自信がなかったので、念の為、ぶつかるところを階段上にキャメラを置いて撮ったショットもありましたし、ケイコがジムに行こうとするけれどUターンする場面も足元のクロースアップを一応撮っていました。階段下からのあの角度のショットだけでいけるだろうと決断できたのは編集の段階です。

——例外としてケイコが会長とその妻とすれ違う場面では90度ほど角度を変えたショットがありますよね。

三宅 会長とケイコの距離がどんどん離れていく、あそこではお互いが何かを伝え損なうということが起きていて、あのロングショットのままよりも一度角度を変えて、もっと言えば空間を切断したほうが、今までとはまた違うレベルで決定的なことがあったような感覚だとか、ケイコについて考えている会長自身の姿や思いのようなものが見えてくると考えた記憶がありますが、正確には忘れました。あの小道の脇をみたかったのもあるかもしれない。

——職場もまたケイコが生きていくプロセスとして見せられます。なぜケイコの職場として清掃業を選んだのでしょうか。

三宅 モデルである小笠原恵子さんは歯科技工の仕事をされていましたが、映画はフィクションとして語るためにも、職場を変えようと決めました。そこで、ジムに通える時間が確保できて、かつ給料が比較的安定していて、接客業ではないだとか、そういう条件から絞っていくなかで、ホテルの清掃業を検討して、現実的にもあり得るだろう、という判断ですね。それがこの映画にとってどのような意味を持つのかということは、あとから発見しました。われわれの仕事が、心の動きという目に見えないものと、アクションという目に見えるものを扱うことであるのと同じように、清掃の仕事も、目に見えたり、目に見えなかったりするものを相手にすることなんだなということに現場中に気がつきました。ケイコさんが客室のテーブルを拭く場面が二度ありますが、一度目はゴミを手にとって片付けるのに対して、二度目は何もないように見えるテーブルをアルコールで拭く。丁寧に拭いている途中、何かが引っかかったのか、もう一度そこを擦るように拭いている。現場のふとした思いつきで、そういうアクションを試してみたところ、「あ、この人はここでも見えないものと戦っている」と気が感じました。編集中にも、ぼんやりとですが、コロナ禍の自分たちもまたそうだよなあ、などと考えたりしていました。

——拭くアクションは他にも登場します。ジムのリングに飛び散ったケイコの鼻血を拭き取る場面や、ジムに置かれた鏡は様々な人が拭いている。五島(渡辺真紀子)のジムを訪れる場面においても、その背後で掃除をしている人がいます。

三宅 『密使と番人』(2017)で一緒に仕事をした装飾の渡辺大智氏がボクシング経験者でして、彼から、ジムの鏡を拭くという動作は本当に美しいし、自分が拭いている時はボクサーとして特別な気持ちになれるというようなことを教えてもらい、シナリオに反映しました。もし鏡が汚れていたら、自分自身をちゃんと見ることができない、ひいてはボクシングも上手くならない。ちゃんと見るためには、磨く必要がある。だから、拭く、磨くというのがこの映画にとって必然的なアクションになった気がします。

——ケイコだけではなく他の登場人物たちがどんな仕事をしているのか、ということも描かれています。

三宅 登場人物の背景を考えること自体、楽しいんですよね。たとえ物語の本筋に絡まなくても、劇中で詳しく説明できなくても、背景の設定や歴史を決めておくと何かと安心できます。例えば、林(三浦誠己)の場合、家族持ちで、またジムのトレーナーと兼業でやれる仕事と考えると、ある程度絞られていき、あの仕事になりました。弟の職業選択に関しては、どこで試合の中継を見るのがいいのかなというところから発想していきました。最後の試合の中継を、病院で見ている人もいれば、街の中で見ている人もいるだろう、当然試合があることさえ気づかない人もいるだろう、というふうに撮りたかった。この間まで僕の中ではW杯が世界の中心で、現場帰りの電車で試合中継を見たりしていたのですが、周囲にはそうじゃない人も当然多くいる。そういう感覚に基づいてクライマックスの試合を撮りたいなと思い、「じゃあ弟はバイトの休憩中にしよう。店内じゃなくて、店の裏側だったら街も映るよな」となり、ロケ地候補としてあの場所があがり、中華料理屋の衣装であれば見た目で分かりやすいか、というような流れだった記憶があります。

——クリス・フジワラさんが本作について書かれた文章の中で「生きることを学ぶことは、他者から、他者のために生きることを学ぶということなのだ」という文章があり、まさに弟はケイコという耳の聞こえない姉がいるからこそ手話を覚えて、彼女を見る存在としてあり続けます。

三宅 クリス・フジワラさんが書いてくれたその一節を読みながら、僕はこの映画づくりの過程そのものを思い出しました。岸井さん本人がケイコさんという役、つまり他者のために生きようと研ぎ澄まされていく様だとか、松浦さんが岸井さんのトレーナーとして、彼女のために途轍もなく集中している姿だとかを間近で目にしながら、また、そのケイコさんがジムや会長のためかのように戦いの準備をする様を考えていると、果たして自分自身はどうなのか、いまどのように生きているか、誰のためにどう働けているかを日々自然と考えていたことを思い出しました。

——一方で、母親はケイコとある意味一番近い距離にいながらも、ボクシングという営みには距離を置こうとしている。試合が見やすくなるようにハナ(中原ナナ)は母の方へ視聴用のノートパソコンを傾けるけど、母親は居ても立っても居られないのか、急須を持って奥に行き、遠くから試合を見ます。見たくはないけど、見ないわけにはいかないアンビバレントな距離感だと思いました。

三宅 この映画は、見ないことや見逃すことを描く必要があると考えていました。タイトルに「目を澄ませて」という言葉を置きましたが、見ればオッケー、という単純な話ではない(笑)。じっと見たところで井上尚弥のパンチをかわせるわけはないし、目の前にいる恋人を見つめたってその人のすべてを分かるわけではない。じゃあ見なくていいのかというと、そういうわけでもない。見れば全部オッケーなんてことはないけれど、何かを見逃してしまうと致命的なことが起こる場合があるから、ともかく見ないことには始まりもしない、というようなことがこの物語の軸にあるだろうと捉えていました。歩きスマホでぶつかったり、鼻血が出たり、最後の試合中のアクシデントはそういうあたりです。そもそも映画を見ている時もそうですよね。サイレント映画は1カット見逃すだけで話についていけなくなる、見逃すことは致命的であるという映画体験だと思います。それが最高に面白い。

——母親と試合を見ているハナは、ケイコが出会う他者の中で、最も大きく関係性の変わる人物のようにも思えました。ケイコも最初はハナに対して無愛想に接していたけど、そのあとは同じ動作を真似る関係までになっていきます。

三宅 おっしゃってくれたように、変わったのは関係性であって、ハナ自身は特に変わっていないという点にこだわっていました。ハナさん、とてもいいんですよね。最初に会った時から「帰ります」って声を掛けている。無視しない。そのあたりのバランスを間違えると安直で図式的な成長物語になってしまいそうなところ、演じてくれた中原ナナさんのおかげで、自発的な、気持ちのよい関係が生まれたように思います。

荒川拳闘会の中で

——冒頭にあげたアパートの場面や、家に帰ってくる時には弟とハナが先にいるように、まずは他者がいて、自分はそこにやって来なくてはいけない。そのことにケイコは意識的であるように思えます。最初にケイコがジムに入ってくるシーンも、更衣室にジム生の柴田貴哉さんが先に座っていて、そこにケイコが入ってきますが、ケイコは彼に「ちょっと更衣室からどいて」と促すように、ロッカーをノックするアクションをします。そこにある種、他者と空間を共有することの妥協といいますか、流儀のようなものがあるように見えました。

三宅 ボクシングはリングという限定的な空間に二人がいるという条件で成立しています。この映画は、リング同様一つの空間に異質な二人がいる、そんなシチュエーションを何度も撮ることになるだろうと考えていました。正確に言えば、相手と自分が異なる他者同士であることを互いに知っていく、そういう場所や時間を描いていく、その変化がドラマになるだろうと。
 柴田くんは僕の映画にとって常に最も重要な人物の一人で、『やくたたず』(2010)からほぼ全作一緒に作っています。彼は『やくたたず』で主人公でしたが、その後の映画でも、彼はどんな役でもその役の人生を完璧に全うしてくれている。今回はケイコの話ですが、柴田くんが演じる若いボクサーの物語も同時にあのジムには存在していて、それができたのは彼のおかげです。彼は彼で、ケイコが試合をしている裏側でデビュー戦を迎えようとしているという引き返せない流れの中で生きている。いわばもうひとりの主人公ですよね。そういう役を任せられるのはやっぱり柴田くんなんです。彼が三浦誠己さんと一緒に、ケイコさんたちのステップを真似る場面は、同時に柴田くんの物語も一段落できるような気がして、気に入っています。

——お互いに妥協しながら、時間を分けてその空間をシェアしている。そのような関係性の力学の中で、そこに誰かがいると誰かがはじき出されてしまうということが起きているとも感じました。男子高校生がジムに通っていますが、途中でジムを辞めてしまう人物もいます。

三宅 ケイコを嫌に思う人もいるだろう、それがどういう人物だったら面白いのかなと考えていました。ただ単に差別的で保守的なキャラクターも考えましたが、そんなバカに尺を使っている暇はないというか、そういう作劇は単に雑だよなあと。キャラクターが手段になってしまいますからね。そこで、ケイコとまったく同じように「強くなりたい」と願っている事情を抱えている、でもケイコよりも弱くて年下の男が同じジムにいたら? と考えて、あの高校生の言動が生まれました。自身の弱さに耐えられないが故に、その結果が差別的な言動として表に出てくる、という感じだと思うんですよね。恐怖と保身、それから弱さに目を瞑って強いイメージを求めちゃう、幼い感じ。そういう重要な役を、『ワイルドツアー』(2019)で一緒に仕事をした安光隆太郎くんに演じてもらった。何ていうかなあ、彼はすごくいいやつなんです。嫌な役は、好きな人に演じてもらわないと僕は本当に興味を失って撮れなくなっちゃうから。

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

——その彼がジムを辞めることを告げる相手が林だったのはなぜでしょうか。

三宅 ケイコも同じ時期に、休みたいという思いを持っている。ケイコは直接、会長に手紙を渡して伝えようとするものの、その瞬間に心変わりして手紙を捨てます。一方で、あの高校生は残念ながら、タイミングが違って直接会えなかった。もし会長に会えていたら、彼もボクシングをあのジムで続けていたかもしれません。柴田くんも安光くんもケイコと同等で、でも、ちょっとした運命の違いで、違う人生、違う物語を生きているのだと思います。
 なぜ林が安光くんの対応をするかですが、あのジムを動かしている人は実質的に林と松本で、松本はケイコ担当になっていますから、林が出てきますよね。ジムのあの雰囲気は、三浦誠己さんの空気づくりで引っ張ってもらっているおかげです。演じる人が違ったらああはならなかっただろうな。

——一方で松本トレーナーの立ち位置は林トレーナーとはまた違います。例えば、林トレーナーが柴田さんを呼びつけて「何で2キロ増えてんねん!」という場面で、松本にはその怒鳴り声が聞こえているけれど、目の前のいるケイコのためにまるで聞こえなかったように振る舞わなきゃいけない。あるいは、林がケイコとスパーリングをしているシーンでは、「下がっちゃダメ!」とケイコに厳しく言う林に対し、後景で見ていた松本が少し戸惑った表情をしたところで、後ろから来た練習生に「今日は早いっすね」と挨拶をしてちょっと場の空気を変えようとする。林とは別の意味で、人と人の間に立たされる人でもあると思いました。

三宅 松浦さんは準備段階から岸井ゆきの=ケイコと向き合い、一緒に撮影に向かっていくまでの時間を過ごしていました。その場には僕もいたことを考えると、準備段階から松浦さんは、三宅と岸井さんの間にずっと立ってくれていたように思います。ともかく、あの二人のツーショットというのはたまらなく魅力的だと準備段階からわかっていたので、リングの上の練習以外でも、松本のリアクションと同時にケイコさんを見つめていけるような場面を書いていきました。いやあ、松浦さんってほんとすごいんだよなあ。話が逸れるようですが、僕も彼からボクシングを習って、自分をこんなにも見てくれる他者がいるって本当に安心するもんなんだなというか、何かが安定するんだなという経験をさせてもらいました。自分を親身に見てくれる人が家族以外にいることの良さというか、ケイコさんにとってのジムが一体どんな場所なのかが、松浦さんと岸井さんと過ごすことを通して学ばせてもらいました。

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