他者によって反射する

——会長がいなくなり、林と松本がジムを支えていく一方で、後半は仙道敦子さん演じるその妻とケイコの関係がより前に出てきたように思います。なぜ会長の妻がケイコのノートを読むことにしたのでしょうか。

三宅 裏設定の話をするのは反則だと思うけど、まあ、いいかな。会長に「練習日記をつけるように」と言われて書き始めたことがケイコさんの習慣になり、それを時折会長に提出して練習の方向だとか体調だとかを共有している、というのが二人の歴史なんです、裏設定というやつでは…。ああ、劇中の序盤で、まだ会長の視力が日記を読める状態でそんな場面を撮ったら良かったのかもしれませんね。仙道さんが読み上げるあの病院ではすでに、会長の視力は低下していて、代読の必要がある。あのジムにいる人たちは、誰かが必要なのだと思います。一人では生きづらいというか、誰かとともに生きざるを得ない。まあ人間みんなそうだと思うんですけど、この世の中は誰しもが直接コミュニケーションできる世界ではなくて、時には、誰かが誰かの代わりをするような必要がある。通訳とか、手紙とか、そもそも言葉という存在だとか、何かを運搬するもの、何かを代わりに伝えるものが、人間の間には必要な場合があります。映画や役者という存在もきっとそうでしょう。この映画がドキュメンタリーでも再現ドラマでもなく、フィクションであるという点が、代読という行為を呼び寄せたのかもしれません。

——読み聞かせている声はナレーションのように読んでいるわけでも、過度に感情を込めているわけでもありません。初めて目にしたものを読んでいるというような声になっていて素晴らしいですよね。

三宅 ただただ仙道さんが良いということだと思います。それから、かれこれ10年以上の付き合いがある録音の川井崇満さんが僕以上に仕事として日常的に人の声を聞いていますから、いい耳をしているわけです。それに彼は、気になることがあれば遠慮なく、スマートなタイミングで伝えてくれる。仙道さんと川井さんと一緒につくっていった声だと思います。

——並べられるカットはどのように選んだのでしょうか。

三宅 7割くらいは脚本通りだったように思います。ケイコの様々な姿を捉えられるチャンスでした。ケイコがマニキュアを塗っている姿だとか、髪型はお団子のときもあるかもだとか、ごく小さなアイデアがあって、それを衣裳部とメイク部と一緒に膨らませていった感じ。脚本にない3割は、撮影したけれど説話上カットした方が良さそうだと判断した場面があって、でもこの瞬間だけでも残したいよねという思いで、あの場面に入れていましたかね。

——会長の妻とケイコは正面で向き合うことが多い一方、会長はケイコと常に横並びでいます。

三宅 僕ら人間の関係性というものは、同じ空間の中で物理的にどういう位置関係にいるかによって、かなり規定されているように実感することがあります。言葉のやりとりだとか互いの性格とかではなく、どの距離どの角度でそこにいるか、いなかったかが、僕らの関係を決定づけていくような感覚。これは自分たちの映画づくりだとか、他の映画とくにイーストウッドの演出から勝手に学んだことなのですが、自分の生活を振り返っても、少なくとも自分は確かにそうだなという感覚があります。身近な例だと、本作の編集以降よく一緒に仕事をしている編集の大川景子さんとは、大半の時間を編集室で過ごすというか、編集室でしか会ったことがないくらいの関係なんですが、編集室では同じモニターに向かって、並んで座っています。おたがいに相手の声だけ、姿は目にせずに、長い時間おしゃべりしていて、それが自分たちの関係なのだということにある時気づきました。というのも、一昨年、「現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜 Vol.2」でロッセリーニの『イタリア旅行』(1954年)について大川さんとトークをすることになって、喫茶店で打ち合わせしようと、向かい合わせに座ったんですが、なんだかうまくおしゃべりできない。「あれ? この前まで、編集室で一緒にめちゃくちゃ映画の話してたじゃん」って、戸惑って。それであとから、何であの時しゃべれなかったんだろうと振り返ったら、「ああ、いつもと違う位置関係だから話せなかったんだ」と。多くの人にそういう感覚があるのかは分かりませんが、そのような感覚が、僕が段取りを組む時のベースになっています。ケイコと会長はこの時どこにいるとこのセリフを話しやすいのかな、と考えていく。もちろん俳優たちには俳優たちそれぞれの身体感覚というか生理があるので、違和感がある時には違うところに立ったり座ったりという余地はあるんですが。

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

——ジムの閉鎖が知らされたあと、会長がケイコと対面で話す場面があります。窓に滴る雨を背後に捉えた逆光と暗さを帯びた2ショットが、あの時のケイコの心情やジムの状況を見事に表していると思います。

三宅 僕にできることは、あのジムの中の一体どこで話すのか、その場所を決めることぐらいです。あとは、どのタイミングで声をかけるかというぐらいかな。選択肢はいくらでもあって、リングサイドに腰かけてしゃべるという可能性もありますし、会長のあの席にケイコを呼んで話すというのもある。あるいは前のシーンで会長がインタビューを受けていた窓際のベンチで話すこともできる。そのうちのひとつを選ぶのが僕の仕事だけど、選択肢を全部試してひとつを決めるというのはなかなか難しい。だからさんざん考えた後に、最後はほとんど賭けですよね。あの玄関前であれば、必然的に会長とケイコはあのような体勢になる。あの位置、あの距離、あの体勢からなら、きっと何かが最も出てくるだろうという賭けで、あとはとにかく二人のおかげで充実した場面になったなあと安心しました。うまくいかない場合というのもあって、それはたいてい芝居のニュアンスではなくて、僕が場所の設定を間違えている気がするんです。そういう時は、目線とか口調や心理なんかについて言ってもほぼ無駄で、「ごめんおれ間違えた」と、そもそもの位置かきっかけを変える。他の監督はどうやって演出しているのかはわからないから、これでいいのかは全然わからないけれど。
 暗さで言えば、ジムの前半はナイターが多く、後半はデイシーンが多いんです。物語上はジムが閉まっていくという暗さを帯びる反面、画面上は明るくなっていく、ということを考えていました。玄関のシーンはちょうど物語の中盤で、「デイだけど暗い」というグレーな状態として描きたかったので、じゃあ雨を降らそう、とシナリオに雨を書いていました。その後の台所の水までの流れは編集でつくったところですが、水のモチーフはロケ地を決めた時点で必然的に出てきたものでした。ジムが変化していくこと、会長の身体が悪くなっていくことなども相まって、主題を捉える具体として雪だとか川だとかが出てきたように思います。

——照明がにわかに変わっていくように、撮影も最初の試合ではほとんどフィックスで撮っていて、カメラがリングに上がった時のみ微動しているのが感動的でした。後半の試合ではフォローが多くなり、固定画面が多いこの映画で動的な瞬間が増えていくと思います。そのあたりはどのように考えられていましたか。

三宅 基本的にフィックスでいきたいというのはありました。試合をどう撮るかというのは難しくて、カメラは二台用意しました。これは効率の良さと事故なくいきたいというのもあり、撮影の月永雄太さんによる提案です。後半の試合はケイコさんのフォームがだんだん崩れていくわけでそれにカメラが対応したということだと思います。動的なものにしたいというよりは、被写体の変化に応じた結果ですかね。

——ラストシーンの対戦相手と出会う場面についてお聞きします。あの場面ではケイコから対戦相手を見つけるのではなくて、相手からケイコを見つける順番となっています。それはなぜでしょうか。

三宅 なぜでしょうね……。

——この映画がずっとそうであるように、まず他者がいて、そこに反射するように自分があるというプロセスのひとつなのかなと今日話しながら思ったのですが。

三宅 なるほど、きっとそうだと思います。僕が考えていたのは、あそこで互いが相手を無視しない、見なかったふりをしない、ということです。あの二人の試合展開が決定的に変わったのは、足を踏んだ瞬間を誰も見ていなかった、というあたりですよね。審判も誰も見ていなかった。それまであれだけ松本はケイコを見ていたはずなのに、見えていなかった。まあ松本はケイコが鼻血を出す瞬間も見逃したんですけども。ケイコが我を忘れるきっかけとなったのは、誰のせいでもないアクシデントの瞬間を誰もが見逃していたからです。見逃したり、見なかったフリをすることは、少なくとも映画の中のあの世界においては危険である、という感じでしょうか。最後のあの場面で、ケイコと対戦相手が互いに相手に気づかないだとか、もし見ないふりをしていたら、ケイコの人生はまた違う方向に行ったかもしれない。でもそうしなかった。彼女たちはちゃんと相手を見て、出会った。それが、ラスト以降のケイコさんの流れを決定づけるアクションだったように思います。

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