終わりのない戦争を生きる

──ここで東京の「NOBODY」編集部の編集部員(結城秀勇)から届いている質問をいくつかさせて下さい。

小野田は「なにがあっても生き延びろ」という命令を受けます。歌は歌詞が変わっても同じ歌だと教えを受けます。これは日本帝国軍の美徳に反し、現代的な命令であると同時に、まるで資本主義的な命令のようにも感じます。むしろこの映画を観る我々は、高度資本主義社会という「終わりのない戦争」を生きているのだと言えるでしょうか?
キャラクターが現代的なのは、舞台となる太平洋戦争下において「異常」な命令だったものが、戦後さらには現代に至るまでとんでもなく「常識化」されたからだと思います。「美徳に反してでも(お国のために)生き延びて繁栄しろ」という誰かから受けたわけでもない命令を我々は実行しなければならなくなっている。谷口のいう「自分自身の司令官であれ」という教えは、まるで非正規雇用者に自分自身の雇用主であるかのように振る舞わせようとする新自由主義経済と似ている。その中で末端にいるものたちが孤立化させられるというのも。平たく言えば、実在の小野田寛郎という人が無実の村人を殺したただの殺人者だ、というような批判に対して、この映画の小野田に対しては、我々もどこか似たような罪を抱えているという気がするのです。

AH 大変興味深いですね、資本主義との関係、新自由主義経済による「自分自身の雇用者であれ」という無言の指令についてなど。私がこの話で興味深く思ったのは、命令を尊重し、自己犠牲を強いていた帝国主義の時代においては普通とされなかったことが行われていたということです。小野田に課された命令は奇妙なもので、即興的な対応、自己決定が求められました。それはそれで服従の命令のひとつなのですが、そこにはパラドックスがあり、どのようにという方法を与えられないまま、たったひとりで、自由でいることを求められた。それは時代錯誤的とも言え、小野田にとってはそれまでの古い時代が続いていながら、彼の周囲の世界は変化しています。しかしながらその世界のルールは、彼が生きている泡の中のような世界とそれほど変わっているわけではない。その泡の中で小野田はヒエラルキー的な命令を参照することなく、言わば自主的に行動することが求められた。これまでそうした側面に考えを及ばせることはありませんでした。彼が行った学校では自由主義的なイデオロギーと呼べるような教えがされ、それに衝撃を受けています。他で教わったことからあまりにもかけ離れていたからです。小野田はそういった意味で現代的なものを実体験したのだと言えるかもしれませんが、月日が経つにつれ、彼はかつての時代の亡霊のようになっていく。小野田とモデルニテとの関係は非常に奇妙なものです。まったく現代的でないと同時に、彼は現代的なものを自分自身の基準で体験していたのです。

歌から歌へ

──引き続き編集部(結城)からの質問をお伝えさせてください。

この作品のテーマソングともいえる「北満だより」についてうががいたいです。この曲にこれほど重要な役割を持たせたのはなぜでしょう?以下余談ですが、この歌は大島渚監督の『日本春歌考』(1967)で吉田日出子が歌う、軍歌が朝鮮人娼婦の歌となった「満鉄小唄」を思い出させます。「満鉄小唄」は、「北満だより」と同様の満洲発の軍歌「討匪行」が性的な内容を歌う春歌として「歌詞を変えて生き延びた」歌だからです。「北満だより」は軍歌としてどこか「女々しい」。勝って帰るぞ、みたいな歌詞じゃない。そこが好きなのですが、実在の小野田寛郎もあの曲が好きだったのか、それでもこんなに映画の中で重要な役割を持たせることになにか理由があるはずだと思うのですが、いかがでしょう?

AH 頂いた質問に驚いています。作品の前半、小野田が谷口と出会う居酒屋で酔っぱらって歌っている歌は、実は『日本春歌考』で歌われている朝鮮人娼婦の歌、「満鉄小唄」でした。これは撮影監督で、私の実兄のトム・アラリが『日本春歌考』を見ていて、素晴らしい歌があるから聞いてみろ、と勧められ、若い女性(吉田日出子)がアカペラで歌っているあの驚くべきトラベリングのシーンを見ました。(通訳の)渋谷悠さんに歌詞を訳してもらい、軍歌を娼婦たちが歌うことになったことがとても興味深く、前半で小野田がこの歌を歌ったら面白いのではないかと思ったのです。歌い終わった小野田は女性を知らないと発言し、その部分からもこの歌を使うことが面白いと思い、撮影時には歌われていました。いろいろ複雑な事情により、編集の段階で「北満だより」に変えているのですが、それは読んだ本の中でこの歌の歌詞の記述があったからです。小野田はこの歌が心に残り、同僚の兵士たちと歌い、士気を上げていたのではないかと思います。本の中に数行だけ歌詞が記されていて、そこから悠さんにお願いして歌の題名を探してもらい、全曲聴けるYouTubeのリンクを送ってもらい、歌詞も訳してもらいました。軍歌でありながら、男性的であるよりも、どこか穏やかで、ノスタルジックな歌だと思いました。風景を歌い、旅の体験を詩的ともいえる言葉で歌っている。軍歌にはこうして戦争をすることがまるで幸福であるかのような幻想を歌っているものも他にはありますが、小野田が戦争をしているだけではなく、人生を、青春を生きているのだというアイディアとこの歌が強く一致していると思ったのです。そこで脚本段階でこの歌のシーンを2つほど入れていたのですが、完成した映画で見られるほど重要ではありませんでした。いずれにせよその時点では全編で聞こえてくる「佐渡おけさ」と比べるとそれほど重要ではありませんでした。鈴木がカセットテープレコーダーのボタンを押して、ジャングルの中へと響いていく曲、それを耳にして小野田が辿ってきた物語をすべて思い出す。そうした流れは、まさに編集段階で考えつきました。鈴木が島へやって来るところから映画が始まるというアイディアも当初はなく、レコ—ダーから歌が流れるというのも脚本にはありませんでした。

──映画は小野田の声、ナレーションから始まります。様々な入り方、見方ができる映画だと思いますが、この映画を観ることは小野田の頭の中に入っていく体験としても考えられますよね。

AH 冒頭から聞こえてくるのは小野田の声ですが、見えているのは、鈴木の島への到来です。聞こえてくる声の主とは異なる、誰だか分からない人物が見えてくるというのは実際のところ奇妙なことなのですが、その人物が声の主を探しに行くわけです。ここですでに私たちは小野田の頭の中にいる、すべてが彼の頭の中で起こっているかのようです。小野田と鈴木は相互補完的な関係と言えるでしょう。また冒頭のショットは後から撮ったもので、鈴木役の俳優である仲野太賀さんと日本で撮りました。こうして小野田が歌いながら登場し、鈴木の出会いがその歌で可能になるという映画の構成を見出していきました。その歌はノスタルジックなもの、それによってあの居酒屋での出来事が想起されるような歌であるべきだろうと考えました。(小野田寛郎の青年期を演じた)遠藤雄弥さんにはポストプロダクションの際に前半の居酒屋の歌のシーンにアフレコで「北満だより」を歌ってもらいました。それによってこの歌が当初より重要性を持つことになりました。当初は映画の中で歌われる一曲にすぎなかったのが、この歌が作品を構成するようになったのです。物語を語る上で、この歌が語りの筋道、あるいは感情の流れをつくってくれたのです。

──鈴木の台詞にも「歌いましょう」という台詞があり、本作において「歌う」ことは、たんに「歌う」というだけの意味を越えて、どのようにこの世界を歌うか、この世界で進む道を見つけていくかという大きな意味を持っているように聞こえてきます。

AH ええ、そして「どの歌を歌うべきですかね」と鈴木は小野田に問います。「歌う」こと、「闘う」こと、「アクションする」ことのメタフォー、つまり「生きる」ことなのです。それぞれが異なる歌を歌うことができ、小野田はあの歌を歌ったけれど、もしかしたら別の歌を歌うこともできたのではないか、という問いがなされてもいます。

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