私はこの映画を見終わったあと、自分のなかに「夏の海の映画」と「冬の雪の映画」の二つが並んで存在しているのを感じた。そして、二つの映画が並んで存在していることそのことに、つまり、二つの映画が絡み合ったり溶け合ったりすることなく、ある距離を持ったまま並んで存在しているというその存在の仕方に、何か新鮮な感動を覚えた。
 映画は時間のなかにしか存在しない。だから、写真のように空間のなかに並んで存在することはできない。であるにも関わらず、この『旅と日々』という映画は、二つの映画が、二つの時間が、二つの生が、並んで存在しているという不思議な実感を与える。
 「夏の海の映画」と「冬の雪の映画」は、何か具体的な変化を与え合うわけではない。片方の映画で起こった出来事によって、もう片方の映画にも何か出来事が起こったりするわけではない。それらは独立していて、自律している。ただ、なぜだかはよくわからないが(そういうふうに映画が作られているからという以上の説明はできないが)、そうやって独立して自律している二つの映画が、この『旅と日々』という一つの映画のなかに存在している。その結果、この映画を見る私には、この二つの映画は独立して自律していながら、たがいに影響し合うものとして経験される。
 二つの存在がたがいに影響し合いながらも、独立して自律してもいるというありようは、映画のなかの登場人物たちにおいても実現されている。
 夏の海辺で出会う若い女性と男性の関係も、冬の宿での脚本家と宿主の関係も、最初から最後まで距離が保持され続ける。たがいにとって、相手は自分とは異なる他者であり続ける。ただ、だからと言って二人はまったく無関係に存在しているわけではない。二人は同じ時間と同じ空間を共有してそこに存在しているわけで、そうである時点でまったく無関係だとは言えない。

© 2025『旅と日々』製作委員会

 仕事に行き詰まっていた脚本家が、旅先で自分とはまったく異なる生を生きている宿主と出会うわけだが、そのことによって自分が一新されるわけではない。脚本が書けるようになったりするわけではない。そういうことも起こりうるかもしれないが、そういうことが起こること(だけ)が他者に出会うということではない。
 何か異なるものが存在していることをあらわす方法として、両者のちがいを際立たせ、そのちがいによって生じる摩擦や変化を語るというやり方もあるだろう。というか、そっちのほうがより一般的で、映画に限らず、この世界に存在している作品と呼ばれるものの多くは、そのやり方を採用していると言っていいと思う。
 ただ、何か異なるものが存在しているからといって、必ずしもそこに何か摩擦や変化が起きるというわけではない。異なるものが、ただ異なるものとして、そのまま存在しているということだってありうる。
 『旅と日々』においては、自分とは異なる他者に出会ったときに生じる変化だけでなく、むしろそこであらわになる変化の起こり難さや、他者という存在の遠さに対しても繊細な視線が向けられている。異なるものがただ異なるものとして存在しているという、その存在の仕方が尊重されている。だからこそ余計に、この作品が映し出す、他者とのあいだに生じるやりとりのかけがえのなさ、その存在によってもたらされる変化に胸打たれる。
 真っ暗な夜のなか、脚本家と宿の主人が浅い川を歩いている場面でのこと。表情を読み取れなくはないぐらいの微妙な遠さを感じさせる距離で、脚本家が一人で歩いている後ろ姿が画面におさめられている。ほぼシルエットになっているので、表情は見えない。そこに、宿主からの「大丈夫かー」という呼びかけの声が重なる。脚本家は「大丈夫でーす」と答える。脚本家も「大丈夫ですかー」と呼びかける。同じような遠さで宿主が映し出される。宿主も「大丈夫だー」と返す。こちらもシルエットになっていて表情は見えない。ただ存在を確認し合うこの場面が、強く私の心に残っている。

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