何かが並んで存在していること

金川晋吾

 独特な存在の仕方をしている映画だ。
 鉛筆を手にノートに向かい合っている人が、何か思案しているところから映画ははじまる。その人はしばらくじっと宙を見つめたあと、ためらいながら数文字ずつノートに言葉を書きつけていく。それはハングル文字で私には読めないが、日本語の字幕が画面上にあらわれる。
 「シーン1、夏 海辺」「行き止まりに車が止まっている」「後部座席で女が目を覚ます」
 ショットが切り替わると、深い青が画面全体を覆っている。書かれた通りの場面が映し出される。動いている雲を映し出しているフロントガラスごしに、後部座席で体を横たえている女性が見える。さらにその奥では、海が太陽の光を反射してきらめいている。さっきの人は脚本を書いていて、それが映像化されたものを今自分は見ているということがわかる。

© 2025『旅と日々』製作委員会

 映画はそのまま夏の海辺での出来事を映し出していく。
 ここではないどこか別の街からやって来た若い女性と男性が知り合い、海辺や山を散歩しながらたがいの話を少しずつしていく。女性は日々のしがらみから離れたくて、ここに来ている。男性は親類がここに住んでいるので、子どものころから何度か来たことがあり、今回も母親と来ている。それなりの時間を二人で過ごすが、二人のあいだの距離は保持されている。日が沈み、あたりが暗くなるのに合わせて、それぞれの帰路に就くことにする。別れ際、また明日も海に来るかどうかをたがいに確認し合う。
 翌日。日中であるにも関わらず、大雨が降っていてあたりは暗い。海辺のとても小さな東屋に男性が座っている。海を見ていると、女性もやってくる。二人でしばらく海を見ていたが、女性は服を脱いで水着になる。寒いよと言って男性は止めようとするが、女性は明日帰ることにしたので、泳いでおきたいと言う。二人は大荒れの海のなか、高波にもまれながら一緒に泳ぐ。見つめ合う瞬間が一瞬生じたようにも感じられるが、二人の距離はここでも保たれたままだ。いわゆるドラマは生じない。大きな魚を見つけたと女性が言う。男性はそれを探そうとするが見つからない。海はひどく荒れている。女性は先に海から出る。男性はまだ海で魚を探している。
 ショットが切り替わると、さっきまでの映像が教室のような場所のスクリーンに映し出されていて、それを見ているたくさんの若い人たちの後ろ姿もある。ある印象的なセリフを伴った印象的なショットで海辺の映画は終わる。ただ、エンドマークが出るわけではないので、本当に自分がこの映画の終わりを見届けたのか、確信は持てない。
 明るくなった教室の舞台上に、映画の冒頭でノートに言葉を書きつけていた人とこの映画の監督とおそらく大学の講師と思われる人物があらわれ、学生たちとの質疑応答がはじまる。ノートに言葉を書いていた人は、思っていた通り、さっきの海辺の映画の脚本家だった。
 正確な長さはわからないが、かなりの時間にわたって私がここまで見ていたのは、『旅と日々』という映画のなかで生きている人たちによって作られた映画だったことがわかる。さっきまで映画だと思って見ていたものは、映画のなかの映画だったのだ。そう思うと、さっきまで見ていたものが少し遠ざかっていくような、あるおぼつかなさを覚える。
 すっかり海辺の映画の世界のなかに入り込んでいた観客である私は、いきなり映画の外の世界に放り出されたような感覚になるが、映画は終わっていなくて、むしろここからやっと「本編」(という言い方は本当はまったく適切ではないのだけれども)がはじまる。『旅と日々』という映画の主人公である脚本家の物語がはじまるのだ。
 脚本家は自分の仕事に行き詰まりを感じているらしい。学生からの「この映画を見て最初に感じたことは何ですか」という質問に対して、「大雨のシーンは撮影が大変だっただろうなということと」と言ったあと、しばらく考え、「あとは、私には才能がないなと思いました」と答える。この一言によって、私は動揺する。私がさっきまで没入して見ていたあの美しい映画を、脚本家であるこの人は、自分の才能のなさを感じさせるものとして落ち込みながら見ていたということなのか。さっきまで見ていた海辺の映画が、またさらに私から遠ざかる。動揺は、スクリーンの外側にいる私だけでなく、スクリーンのなかにいる人たちのあいだにも走る。学生からは笑い声が起こり、隣にいた監督や大学講師は、そんなことを観客の目の前で思わず口にせずにはいられなくなっている脚本家を励まそうとあたふたする。
 授業が終わったあと、脚本家は佐野史郎演じる大学教授と立ち話をするが、そこでも話題は自分の仕事の行き詰まりのことに。そこで大学教授に「いいんですよ、仕事なんて。気晴らしに旅行でも行くといいですよ」と言われたことが関係しているのかどうかはわからないが、脚本家は冬の雪国へと旅に出る。旅先では、宿の予約をしていなかったがために、もはや宿とも呼べないようなおんぼろな宿に泊まることになる。その宿を一人でやっている初老の宿主との噛み合っているのかいないのかよくわからないようなやりとりをしながら、脚本家はここでも脚本を書こうとするがやっぱりうまくいかない。そして、二泊目の夜に、どういうわけだか二人は極寒の外に出かけていって池の鯉を捕まえに行くことになる。そこで事件と呼ぶほどのことではないちょっとした出来事は起こるが、それによって脚本家や宿の主人に何か変化が生じるわけではない。ここでもいわゆるドラマは生じない。翌日、宿の主人は高熱を出してしまって病院に行くことになり、一人になった脚本家は宿を出ることにする。そこで、映画は終わる。

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