映画の「日々」と喪失

『旅と日々』の、フレームを埋め尽くす大小のビルの他は空も地面も見えないにもかかわらず、明瞭に「冬景色」に見えるオープニングのロケショットに続き、次のショットは室内に移り、鉛筆を手にした李(シム・ウンギョン)が、ノートと鉛筆削りの置かれた文机に向かっている。バックに見える竹の絵の描かれた襖と、古びた手回し式鉛筆削りの置かれた机の眺めは、一見古めかしいが、傍らの棚にはフラットベッドスキャナらしき機材も置かれ、原作者つげ義春がマンガ家として活動していた昭和50年代以前ではなく、2025年の現在に近い時代を生きる人物であることが窺われる。

© 2025『旅と日々』製作委員会

 李がハングルでシナリオを書き進めてゆくノートの紙面がクロースアップされると、鉛筆の芯と紙が触れあう音に、波音とセミの声が重なり、今しがたノートに書きはじめられたシナリオの登場人物として、「海辺の叙景」の女(河合優実)と男(高田万作)が、それぞれに夏の神津島の海岸に現れる。ふたりの登場する世界もまた、つげ義春の原作が発表された1967年からは遠く隔たり、シナリオ作者の李が生きる現在に近いらしく、女を乗せてくる車には、60年代にはあったはずもないウォッシャー機能付きワイパーがあり、海辺の男には、海外からの観光客が屈託なくイタリア語で話しかけてくる。
 しかし、『旅と日々』の「海辺の叙景」を原作とするパートは、原作に描かれた今となっては遠い「過去」の世界を、たんに「現代」に移し替えるだけではない。つげ義春がくり返し描いてきた、現在の向こうに層をなす過去の日々に出会う旅路を、マンガとはまた異なる方式ながらも、この映画も辿ってゆこうとするようだ。
 原作では、男はこの海辺の近くに住んでいた幼い頃の思い出を語るが、女と「過去」の接点について読者が知る機会はない。それに対して、映画では、地元の郷土博物館に立ち寄るオリジナル場面で、女もまた、旅先の土地の過去の日々へと分け入っていく。博物館内には古来よりの島の信仰文化についての解説音声が流れ、女が島の生活記録写真の展示を見て回ると、やがて写真と映画のスクリーンのフレームが一体化し、古い白黒写真の中でカメラのレンズを見返す人びとのまなざしが、フレームのこちら側の女——観客へと投げかけられる。あるいは、褪色したカラーの眺望写真を眺める女は、写真とスクリーンの一体化したフレームの内側に立ち、過去の風景の中に入り込んだ形となる。写真に記録された過去の風景の光と、今ここで女を照らす館内照明(もしくは映画撮影用のライト)の光と、時制と質のまったく異なる光を受けた風景と人物を同一画面におさめるこのショットは、過去と現在の出会いが作り出す層の実在を、観客の視線に対して明示する。
 原作「海辺の叙景」では、発端から女と男は同じ海辺に居合わせるが、映画では、発端でふたりのいる場所はそれぞれに異なり、男はビーチで佇み、女は集落を散策して郷土博物館に立ち寄る。郷土博物館の場面に先行する、ビーチに独りでいた男が、カメラを構えた観光客にイタリア語で撮影許可を求められて戸惑う場面では、撮影者と被写体のそれぞれの視点から見た寄りのショットを切り返していく慣例を破り、両者の後方の高所からビーチを俯瞰する大ロングショットが差しはさまれる。この時点では俯瞰する視点の由来は不明だが、後に続く郷土博物館の場面で、海で死んだ漁師の身内は、海を臨む丘の上に石仏を据え、朝夕に水を供え季節の花を手向けて死者を弔うのが習わしだった、と語る解説音声が聞こえてくることで、高所から海を俯瞰する視線が、過去に海で死んだ者たちを悼んだ視線と結びつく。過去から投げかけられる視線が、女と男をそれぞれに捉え、後ほどふたりが直接出会うより前から、両者の間を繋ごうとしているかのようだ。
 原作と同じく、やがてふたりはひと気のない磯浜で出会って言葉を交わし、翌日もまた海に行くことを確認しあって別れ、大雨となった次の日に、約束通り海辺で再会し、男が持参した蜜豆を分け合った後に、雨の降りしきる海へと泳ぎ出す。そして、大学の教室らしき暗い室内のスクリーン上の映像として、海で泳ぎつづける男が映し出され、李も観客に混じってスクリーンを見上げている。冒頭で李がノートに鉛筆で書きはじめたシナリオが、映画として完成し、上映されるだけの時間がすでに経過したことを観客は知る。
 上映中の映画は、海を泳ぎつづける男に、先に岸に上がった女が「いい感じよ」と声をかけ(ここのところの河合優美のせりふの言い方には、万事が「しっとり」に染まりそうな状況に逆らう乾いた勢いがある)、原作「海辺の叙景」の最終コマの構図をほぼ忠実に再現したショットへと続くが、それがラストシーンではなく、原作の最終コマにあたるショットの後に、視線を左右にめぐらせる女のクロースアップがさらに続く。しかし、そのクロースアップが、映画のラストシーンなのかも定かではない。エンドタイトルにあたる画面は見せないまま、次のショットでは、映写会場はすでに明るくなり、映写を終えたスクリーンは収納されて教室の黒板が現れ、上映後の質疑応答が始まる。そして、李の韓国語のモノローグが、「数年前に監督の依頼でつげ義春「海辺の叙景」を原作にシナリオを書いた」ことを画面外から告げる。
 先述したように、つげ義春「海辺の叙景」は、ふたりの登場人物の共有する現在が、未来へと繋がる可能性を断つように終わる。『旅と日々』の「海辺の叙景」を原作とするパートも喪失の感覚をもって終わるが、原作の最終コマにあたるロングショットに、河合優美の演じる人物の単独のクロースアップが続くことで、「喪失」の質が原作とは異なってくる。カメラの視線は海を泳ぐ男から背けられて、浜から海を見る女の顔へと向かい、女の視線の左右にたゆたう動きは、男を確実に視界に捉えきれてはいないことを示唆する。カメラと女の視界から男が外れたかと思った次の瞬間、いつの間にか映写は終わり、観客にとって、高田万作の演じる人物は、蒼ざめた雲と雨と波の間に見失われたままとなる。
 今しがた書きはじめられたばかりのシナリオが映画になり、数年前に完成したというその映画を今しがた映し出していたスクリーンが、一方の主役の姿は見失われ、ラストシーンが映ったのか定かではないまま収納済みとなる。そのようにして「現在」の出来事だったはずのものが、「過去」になるまでの間に、失われた何ものかがある。『旅と日々』の「海辺の叙景」パートの終盤に兆すそうした喪失の感覚は、作られた物語の世界と、作り手と観客の生きる現実との間の隔たりを越えて浸透していくようだ。
 冒頭でノートにシナリオを書きはじめた時点では、鉛筆による書字の合間に、イメージを具体化するようなハンドジェスチャーを交えて、生き生きと手を動かし、楽しげな表情をかいま見せていた李だが、上映中にスクリーンを見上げる表情は硬く、上映後の質疑応答で学生に初見時の感想を尋ねられ、「私にはあまり才能がないなと思いました」と答える。以前からの知り合いらしい魚沼教授(佐野史郎)との授業後の会話で、李が最近健康を損ねていたことについても言及され、冒頭でシナリオを書きはじめてから数年を経て、仕事への自信や、出来上がりへの期待感や満足感、あるいは安定した体調などの諸々が、李から失われたことが示唆される。冒頭と同じ竹の絵の襖のある部屋で机に向かう李の仕事道具は、ノートと鉛筆から、ラップトップPCに変わっているが、ラップトップのカバーを開けて作業を始めかけた李は、苦しげな表情でまたカバーを閉じてしまう。
 教室上映時に李の体調を気遣い、気晴らしの旅行を勧めた魚沼教授も、それから間もなく逝去し、李と監督らは故人宅を弔問に訪れ、教授と瓜二つの双子の弟(佐野二役)のもてなしを受ける。失われた家族の痕跡がまだ残る応接間の棚には、故人が近年収集に凝っていたというクラシックカメラのコレクションもあり、その中の一台を李は形見分けに受けとる。喪失の重なる日々のうちに、故人の残した古いカメラを新しく手に入れた李は旅立ち、列車は長いトンネルを通り抜けて雪国に着く。そこから、つげ義春「ほんやら洞のべんさん」を原作とするパートが、原作の新潟県魚沼地域から、山形県庄内地域へと舞台を移して始まる。

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