日々の層へと分け入る旅
鷲谷 花
つげ義春の描いた「旅」と「日々」
つげ義春のマンガは、1991年の『無能の人』(竹中直人監督)以来たびたび映画化されているが、近作『雨の中の慾情』(片山慎三監督)まで、原作に準拠したタイトルをつけるのが通例のようだ。それに対して、つげ義春「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を原作とする三宅唱監督の新作には、原作2作ほかのつげ義春作品にはないタイトル『旅と日々』がついている。
『旅と日々』というタイトルのつげ義春作品はないとはいえ、「旅」すなわち地理的な移動と、「日々」すなわちさまざまに推移し連環する時間の層の体験は、つげ義春作品の根幹的な要素には違いない。主人公たちはしばしば旅に出て、旅先の土地の風景と建物、そこで暮らす人びとの経てきた「日々」へと分け入り、そうすることで、あたりまえに現在が過去になり未来が現在になるばかりの、もしくは停滞した現在が連なるばかりの自らの「日々」から、つかの間自分自身を引き離す。
たとえば、「ほんやら洞のべんさん」と近い時期に発表された「長八の宿」。西伊豆松崎の「長八の宿」の名で通っている旅館にやってきた主人公は、松崎港の大網元だった先々代の屋敷を、地元出身の名工入江長八の鏝絵が飾った過去の栄華の日々の物語を聞かされつつ、その長八の鏝絵のある座敷に通されてから、はるか遠い過去から比較的近い過去へと層をなす「日々」に出会ってゆく。元は千葉の漁師だったが、松崎に漂着して先々代に拾われて以来、当家で働いてきたというジッさんと、親しく話すようになった主人公は、ジッさんの身の上話を聞くついでに、宿の娘のマリちゃんが作ったものの、諸事情により蔵に封印されたという宿の案内パンフレットの存在を知る。ジッさんがこっそり持ち出してきたパンフレットを、主人公が字の読めないジッさんに読み聞かせてやり、東京の大学に行ったというマリちゃんの文章の堂に入った調子に、ふたりして感心する。
主人公とジッさんの会話には、「過去」の思い出話ばかりではなく、「未来」への期待もさしはさまれる。宿から富士山は見えるかと尋ねた主人公に、ジッさんは、今は雲をかぶっているが、真正面あたりに見えると教え、「デーンさ」と、全身を使って富士山の眺望を表現してみせる。翌日に松崎を発つ主人公は、ジッさんとの別れ際に、「ふじさんだよ~~~う」と叫んで海側を指さし、ページが変わって、最終1ページ全部を使った大ゴマに、ついに雲の陰から威容を現した富士山が描かれ、「やアいつの間に顔を出したかの」と見上げるジッさんの後姿が小さく重なる。主人公とジッさんの出会いの時点では実現していなかった、富士山がそこに「デーン」と見えるという「未来」が、いつの間にか「現在」となっていたことに気づく瞬間をもって、「長八の宿」は鮮やかな終わりに至る。
「長八の宿」の主人公が一泊二日の松崎滞在で体験する「現在」には、蔵の中の鍵がかかった箱にしまい込まれたパンフレットのように、あるいは厚い雲に隠された富士山のように、「過去」と「未来」の層が隠され、それらがジッさんの意図せぬ導きもあって、次々に現れてくる。「長八の宿」の、つげ義春の代表作としては例外的ともいえる晴れやかな印象は、旅先で過ごす日々が、複数の「過去」の層との出会いを経ながらも、「未来」が「現在」に転じる最終コマへと、前向きに進んでゆく感覚にも由来しているだろう。
© 2025『旅と日々』製作委員会
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