10/12 武器を持たぬ人々の闘い

結城秀勇

『チリの闘いーー武器なき民の闘争』パトリシオ・グスマン。史上最高のドキュメンタリーとも形容されるこの作品だが、それも決して言い過ぎではない。ものすごい。
1970年チリ、世界で初めて自由選挙による合法的な社会主義政権、サルバドール・アジェンデ政権が誕生する。前日の60〜70年代の短編集でも、その他のラテンアメリカ特集の作品でも、富裕層と貧民層の対比はとかく描かれるが、この作品ではその描写が一味違う。街頭のインタビューや信号待ちの車の運転手へのインタビューなどによって、ある者は人民連合への指示を表明し、ある者は共産主義への呪詛を吐く。それが、空間的な位置の高低や、地理的な中心と周縁だとか、肌の色や衣服の違いなどによって示されるのではなく、同じひとつの街、同じひとつの通りが、二分化し二重化していくように描かれているのは、この作品の視点を決定づける重要な要素だと思う。1973年3月のチリ議会選挙。先走った選挙報道が右派の勝利を報道し、街頭はそれを祝福するブルジョワたちであふれる。その数時間後、同じ街角が、大統領選を上回る43%にまで得票率を伸ばした人民連合の支持者たちであふれる。
この対立の、一見して見分けのつかない様が一部と二部の大きな基調をなしている。議会選挙で得票率を伸ばしたアジェンデ政権だが、議会では"多数派を占める野党"である右派によって、閣僚が次々に罷免されていく。政権の政策とは真逆の法案が次々通されていく。街角では政権の支持者も反対者も、口々にまったく同じ言葉を発する。「自由と民主主義を」と。
その裏で、まるでジェイムズ・エルロイやドン・ウィンズロウの小説で読んだことがあるようなやり方で、CIAが暗躍する。チリ財政の要である銅山で労働者たちがストを起こす。銅山労働者たちは労働者の中でも特権的な階級であり、CIAとチリ産業界を牛耳る者たちの扇動が彼らをストへと駆り立てる。「労働者の権利を」と叫ぶ彼らが、労働者の政権であるはずの政府と対立する。CIAの攻撃は、労働者の手段であるはずのストやデモのかたちをとる。エルロイのLA四部作の主人公たちが、ひとりのファム・ファタルを巡ってまるで互いが互いの鏡像であるかのように似通った行動を取ってしまうように、チリというひとりの運命の女を巡って、人々はみな、自分と似通ったなにかと対立する。
そしてその似通った者たちの闘いが、武器を持った者たちという彼らとはまったく似ても似つかない者の登場によって終わりを迎えることを、この映画を見る者たちはみな知っている。二部の最後でその終焉の様が丹念に描かれるのを見つめていれば、涙をこらえることなどできない。だが同時に少し疑問にも思うのだ。この終焉の後に、第三部はなにを語るのか?と。
第三部は二部でもすでに描かれた、チリ財政を決定的に崩壊させた、トラック運転手組合の全国的なストまで時間を遡って始まる。一部の最後に最初のクーデターの失敗が描かれた時点で、人々は自分たちにも武器と軍隊が必要なのだと知っている。もはや内戦が避けがたい状況として未来に立ちはだかるように見えるとき、人々は街角で、組織の会合で、職場の前や家の前で、自分たちにも軍隊が必要だと訴える。だが最後まで、彼らは自分たちの軍隊を持つことはない。それはある種の失敗なのだとしても、そのことがこの闘いを「武器を持たぬ者たち」の闘いへと、決定的に変える。彼らの敗北が、他のいかなる勝利でも得られなかったことを教えてくれる。そのことが深く胸を打つ。
たとえば右派に扇動された公共交通機関のストで交通が麻痺した都市の中を、労働者たちが借りだしたトラックを即席のバスに変えて人々を運搬するとき。トラック会社の全面ストで工場への資材供給が断たれる中で、労働者たちの「工夫」によって資材不足を補い、やがて独自の流通で生産力を平常通りまで高めていくとき。食料の買い占めで闇マーケットに品物が流れ、高価な食べ物を買えず飢える人々の列が、政府からの直接買い付けによって食料を原価で販売する直売所へとつながっていくとき。輸送が止まり、あらゆる産業の上層部がストを支持して工場を去っていく中、工場に残った労働者たちが「自分たちにできる闘いは、普通に働くことだ」と言うとき。そして街角に集まった人々の叫ぶ声が、「アジェンデよ、我々を守ってくれ」ではなくて、「アジェンデよ、我々があなたを守る」であることの意味を噛みしめるとき。
そんな数々のときに、本当に文字通り、この映画の存在が世界を変える。

『チリの闘い』のQ&Aも盛り上がり、『見つめる』イエ・ユンの開始時間にちょっと遅れる。いろんな人が誉めてるのを耳にしていたがたしかにいい作品だ。親との精神的・物理的な距離を感じながら生きるふたりの少年と少女を映画は追う。
少女は普段ヨーロッパで暮らす母親に会っても、面と向かって「お母さん」とは呼べない。母親が土産に買ってきたストッキングを履いてみろと言うのを頑なに拒否し、「いやだいやだ」と子供じみた叫びを上げる。少年は、妻に捨てられアル中でまともに働こうとしない父親とともに暮らしている。彼はあるとき学校の教師からこんなことを尋ねられる、「君はいつも笑わないが、家で嫌なことでもあるのか」と。彼の答えは、「別に。笑うときは笑うし、笑わないときは笑わない」。拒否を恐れぬ彼ら小さなバートルビーたちの振る舞いを見つめることに深く引き込まれていく。
非常にすばらしいこの作品だが、ほぼ3時間の上映時間の最後の一時間くらいは、多少疑問に思う部分もある。もしこの映画をふたりの少年少女についての作品とするなら、もっと短くまとめるべきではなかったのかと。そんなことを思うのは、終盤に映し出される少年の姿があまりにすさまじく、彼の姿をもっと見ていたいと感じるからだ。朝になっても布団から出てこない父親に向かって、食べるものがない、お腹がすいた、と泣き声を上げ続ける、少年の幼い弟。「生まれ変わったらアヒルになりたい。その方がいまよりもまし」と呟く少年の黒い瞳。彼ら三兄弟の姿を追い続ける3時間か4時間の映画が存在したら、いまあるかたちのものよりももっといろんなものが見えてくる気がするのだ。