10/13「長い年月を越えて語ること」

 朝起きると、雨が止んでいた。テレビで流れる台風の被害が想像を超えている。
 今回泊まっているのは天童市。ホテルで「ほほえみの宿 滝の湯」露天風呂に入れるチケットを売っていたので、朝から温泉に行く。ほぼ貸し切りという贅沢。「ほほえみの宿 滝の湯」は将棋・竜王戦の対局場のひとつとしてもお馴染みである。羽生九段もその他多くの先生も入った温泉なんだなあと感慨深く思う。
 JRは昨日から運行見合わせているため、路線バスで山形へ。また昨日、上映にはじめから間に合っていない反省から、今日は余裕をもって『自画像:47KMのスフィンクス』、『自画像:47KMの窓』、『木々について語ること〜トーキング・アバウト・ツリーズ』の3本を。ジャン・モンチー監督の2作はどちらも、ひとりの人物の話を聞き、その間に絵を描く女の子や街の光景などが挿入される。今回の2作は特にセットになっていると言ってしまいたいくらい、その構造自体が似ている。毎年必ず冬の時期に訪れるというこの村を撮ったこのシリーズもすでに10年に及ぶという。個人的に感銘を受けるのは、とても長い長いショット。ほとんど出来事が起こっていないといってもいい場面がずっとずっと続いていくこと。畦道を歩くおばあちゃんの後ろ姿、数分に一度くらいの割合で言葉を交わす会話、ほぼ身じろぎもしない椅子に座るおじいちゃん。そのひとつひとつのショットに、ここに映っているすべてをそのままずっと忘れずにいたいという気持ちになる。
 『木々について語ること』。おじいちゃんたち4人はスーダン映画界のレジェンドたちなんだと思う。ロシア国立大学で映画を学んでいたりするし、相当な知識人であることを感じさせる言動。ただ、映画ごっこをしていたり冗談ばかり言っていて全然そのようには見えない。スーダンは映画の上映が禁止されているらしく(制作もだろうか?)、彼らは屋外劇場でタランティーノの『ジャンゴ』を上映しようと企画するのだが、当局からの許可がなかなかおりない。スーダン映画協会の秘書と思われる方が政府との交渉がまたうまく行きませんでしたと報告すると爆笑する。難しい事態に直面しても難しい顔も考え方をしない。こうした心境にはどうすれば到れるのだろう。
 映画祭に来ていておもしろいのは、東京近辺に住む人たちと向こうでは全然会わず300km以上離れたこうした場所で久しぶりに出会うということ。いろんな人と久しぶりと挨拶を交わす。その中でも、詩人の佐藤雄一さんとは自分が前回来た2005年の山形以来の再会。当時、僕も佐藤さんも学生で複数の人物でシュアしたウィークリーマンションに泊まっていて、毎夜のように話をしたのだった。14年の時間がなかったかのように話せて良かった。「また、明日」と言葉を交わして帰路についた。(渡辺進也)

 朝、宿の一階に降りると女将さんが定位置のフロントから顔を出していた。「昨夜は台風でびしょ濡れになったの?」と声をかけてくれる。山形に台風はあまり来ないそう。それどころか、山形市内は雪もそこまで積もらないらしく、冬でも着物姿と草履で駅まで行けるらしい。裏にある井戸の周りはなぜか雪が溶けることも聞く。宿泊業はトラブルがつきもので女将さんは気が揉む時、『ロバータ』の「煙が目にしみる」をかけるらしい。まさしくその曲が奥でかかっていた。自分たちが大人数で毎日入れ替わり立ち代り宿泊しているので疲れが溜まっているのだろう。険しい眼つきで部屋割りと格闘しながら「本当は朝ごはん食べさせてあげたいのに、ごめんね」と優しい言葉をかけてくれる。
 外に出ると、気持ちいい秋晴れ。でもなぜだろう、少し気持ちがざわつく。
 季節が一気に秋になったようで肌寒い。慣れていない場所で、季節が変わったので昨日まで見ていた風景と温度のギャップに体がついていかないのかもしれない。
 今日は『自画像:47KMのスフィンクス』『自画像:47KMの窓』『ユキコ Yukiko』『Talking about Trees』を観る。
 『自画像:47KMのスフィンクス』。中国の農村。若者が去り、老人だらけになった限界集落のような村の軒先で老婆が朽ちかけた椅子に座っている。老婆が語る一人息子の死。共産党時代の中国の怖さを感じるとともに、それはどこかでこれから引き起こる未来の出来事で、この村は世界の成れの果てにも見える。老婆の息子への愛と悲しみの言葉とともに、時間が止まったかのような村の風景が映し出される。何もない村でひとり木によじ登る青年、らくがき帳にカラーペンで赤ずきんと小さな黒い魔女の絵を描く女の子。少女は何もない村で、小さな魔女と昨夜見た夢の話をする。
章梦奇監督はこの村で映画を撮るのが7作目らしく、映画が完成する度に村で上映会をしているそう。お人好しの息子の死は村人全員が知っていたのだが、それを話題に出すことを皆が避けていたらしい。上映会をきっかけに老婆が今でも息子を想い続けていることを村人が知り、皆が労うことで老婆の精神的な支えにもなっているとのこと。互いの内に抱えた歴史は映画でも撮らない限り、人に話すことなどないのかもしれない。人は忘れる生き物だというが、人知れず抱えて生きるのも、また人間なのかもしれない。
 もう少し、この村ですごしたいと思い、続編の『自画像:47KMの窓』を観る。農村土地改革、四清運動と中国の社会変革に翻弄された老人の話を軸に、前作にも出て来た少女が村の老人の自画像を描いていく。前作と同じ仕草で照れ臭そうに絵をこちらに見せる少女。絵を描いてもらっている老人たちの孫を見るような目がたまらない。この映画は基本音楽がないのだが、劇中のあるシーンで不意に歌が聞こえてくる。メロディを聞いた瞬間、すぐにわかった。自作『愛讃讃』のカラオケシーンで使ったテレサ・テンの「甜蜜蜜」だったのだ。これには鳥肌がたった。香味庵で章梦奇監督と話すと「××のところね!」とすぐにわかっていた。改めてテレサ・テンの偉大さに驚く。
 『自画像:47KMの窓』のラストシーンで夜空に打ち上がる花火を見て、後ろの席のご夫妻?の女性が「旧正月かしら」と話すと「どうだろう。しかし花火の数がすごいな」と男性が返す。普段なら映画中に話すなんて、と思うところだが、今日は不思議とそんな気持ちにならない。まるでみんなで村の花火大会を見に来たようだ。きっとこのふたりにも他人には多くを語らない過去があるのだろうな、と考えていると映画が終わり、明転した。劇場を出ると、隣にいた人が「すごい月ですね」とつぶやいた。見上げると澄んだ空に大きな月。明日が満月らしい。この日記がアップされる頃には夜空に満月があがっているだろうか。(池添俊)

 『これは君の闘争だ』エリザ・カパイを、どうしても大画面で大勢の観客とともに体験したくて、ラスト30分だけ駆け込む。ちょうど警官の職質にあってる友達の前で、学校占拠当時に歌ってた歌を歌う場面。クライマックスのアジテーションでは涙。
 上映後に向かいのファミマの灰皿で喫煙していると、隣で英語で会話していた数人のうちのひとりが、「この映画を香港に持っていくのが、僕の使命だ」と語っていた。そんなことを言う人がひとりでもいるなら、選考でこの作品を強く推したことでちょっとは自分も仕事したかな、と思えた。(結城秀勇)

 待望の『自画像:47KMのスフィンクス』へ。章梦奇(ジャン・モンチー)のつくる画には、異なる時間が同居する。猫や渡り鳥、人間、それぞれにとっての時間の流れがあり、子どもと老人でも、歳月の捉え方が異なる。また、流れる時間だけではなく、止まったり、逆流したりする時間、横軸だけでは表現しがたい運動をする時間も同居する。絵画的な時間の捉え方と言えるかもしれない。まさしく、映画の中の少女は、『自画像:47KMの窓』と同じく絵を描くわけだが、彼女の絵だけではなく、この映画は他にも多くのフレーム内フレームを用いる。それぞれの北極星を中心に回る、いくつも星座群がこの映画には存在しているようだ。
 山形最後の夜は、それこそ、各々異なる映画=時間を過ごしてきた人々が集まる映画祭憩いの場、香味庵で過ごすことにする。(梅本健司)