nobody present’s Suddenly VOL.01 上映作品

出発 イエジー・スコリモフスキ 東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品

『出発』Le départ 東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品
1967年/93分/35ミリ/ヨーロピアン・ヴィスタ/モノクロ/ベルギー
監督:イエジー・スコリモフスキ
音楽:クシシュトフ・コメダ
出演:ジャン=ピエール・レオー、カトリーヌ=イザベル・デュポール、ジャクリーヌ・ピル
協力:東京国立近代美術館フィルムセンター

 レースに出場するためポルシェのために奔走するジャン=ピエール・レオーの姿が滑稽でもあり、驚異的でもあるこの『出発』は1967年の映画。レオーにとって、それは自らの成長と共に主人公も成長する作品群であるアントワーヌ・ドワネルもので『二十歳の恋』(62)と『夜霧の恋人たち』(68)の間にあたる。たとえば、その2本の間にナイーヴな少年時代からより複雑な青年時代へと如実な変貌を遂げるのだとしても――正面突破の恋が悉く失敗し好きな女の子の家族とテレビを見る寂しい後姿で終わる『二十歳の恋』から、探偵として尾行し、背面のカヴァーをあけるテレビの修理屋の仕事が暗示する背後からのアプローチをする人物へと変化し、ただナイーヴでいるだけではなくなっている『夜霧の恋人たち』へのプロセスは彼の身体的な成長以上にその行動のあり方にこそ変化がある――、その中間に位置する『出発』もまたその間に作られたことがまさに正等であるような様相を見せている。

 『出発』が他のレオの作品から特異なものとなるのは、この作品が他のどの作品にも増してレオの身体的な動きに溢れていることだ。それはこの作品の監督のイエジー・スコリモフスキがポーランドから離れ、俳優たちによって話される言葉を理解しないままに外国で作った作品であることも関係しているのかもしれない。身振り手振りは激しさを増し、その口調は意味を伝えるよりもむしろ早口でまくし立てられたものとなり、何度も取っ組み合いの喧嘩が行われる。他のどの出演作にも増して、レオはフレームの中を動き回り、どの映画にも増してすばやく立ち回り、自己主張し喧嘩早い。ここまでアグレッシヴに動ける俳優だったのかと驚かされる。そして、それに加担するかのように全編を通じて流れる、コメダのジャズが行動するレオの背中を、アクセルを踏む右足を後押ししている。
普段小さなオートバイに乗り、また配達に使う美容院のバンこそが自分の乗物である主人公のマルクにとって、ポルシェはまるでオブセッションのように常に捜し求めるものとなる。1本の映画の中でいったい何台のポルシェを手に入れ、そのことでいったいどれだけの時間をポルシェを走らせることに費やされるのか。店主のものを無断で持ち出し、友人を騙して借り出し、深夜の展示場に忍び込み、路上から盗み出す。そして、手に入れては街中にポルシェを疾走させる。流線的なボディ、軽やかに走るそのスピード。ただポルシェだけが彼の行動倫理を決める。ポルシェに乗ることのために他の多くのことは犠牲にされる。

 だが、レオが演じるならず者が迎える或る夜に、ポルシェに乗ることとは異なる意義を見出すあの夜にそこでいったい何が起きるのか。そこには1本の映画の中だけでなく、ジャン=ピエール・レオーという俳優のあり方においても決定的な何かが刻まれている。ひとつの青春が終わりまた新たな人生が始まる。『出発』ではひたすら攻撃的にレオが1本の映画のなかで変貌している。
(渡辺進也)

麻薬3号

『麻薬3号』
1958年/92分/35ミリ/日活スコープ/モノクロ/日本
監督:古川卓巳
原作:五味康祐(文芸春秋社出版)
脚本:松浦健郎
撮影:山崎善弘
出演:長門裕之、南田洋子、白木マリ、河野秋武
大坂志郎、西村晃

 神戸の裏世界。インチキ新聞を作って金儲けするヤクザ倉田慎二(長門裕之)が、ある謎めいた女性、安倍啓子(南田洋子)に頼まれ人捜しを始めることで、麻薬3号=ヘロインの密売を巡る争いに巻き込まれてゆく。しがないチンピラの長門が無国籍な様相の神戸で、やがて真のならず者へと変貌する。古川卓巳監督作としては『太陽の季節』(56)に続く長門裕之の主演作。映画俳優としての彼を見出したと言ってもいい古川に対して、長門は後年次のように語っている。「古川監督は、目線のことをすごく注意してくれました。実際、僕の中にはそういうものはないんだけど、僕の一重の切れ長の目がね、冷たい感じがするらしくて気に入ってくれたようです」。古川卓巳自ら企画を出し、後に「ああいう映画をもっと撮りたかった」と呟いた作品でもある。
(松井宏)

 そこそこのフィルム・ノワールなのかと思って高を括っていたら、これが(ダグラス・サークの『南の誘惑』ばりの)じつに堂々たるメロドラマで、長門裕之と近藤宏が義理と人情の苛烈な板挟みに遭いながら砂浜で殴り合うのといい、 その決着を車の中でじっと待つ白木マリといい、もう琴線がびりびり。
 締めくくりの“2発”の銃声で、ついに涙腺が……。
 そして南田洋子。さいごは長門裕之といっしょになって「早まるな、早まるな」と本気で祈っていた。(安田和高)

軒下のならず者みたいに

『軒下のならず者みたいに』
2003年/41分/DV/スタンダード/カラー/日本
監督・脚本:青山真治
撮影:たむらまさき 録音:菊池信之
音楽:長嶌寛幸
出演:斉藤陽一郎、中村優子、大久保鷹、伊藤秀一
協力:ユーロスペース

 東京の周縁部、環八と多摩川が併走する住宅街の昼と夜。ひとり酒の一升瓶を傾けていた男は空が白むのを待っていたかのように、アパートの小さな部屋を抜け出す。自転車を駆って向かう先は多摩川の河川敷である。そこで何をするというのでもなく、ただ鴨が魚をついばむのを男は眺めている。そこでどれだけの時間が経過したのか、その川縁はどこまで広がっているのか。紛れもなく東京の境界である一本の川を目の前にしながら、あらゆるものが輪郭をなくし、それを眺めている男もまたつかみどころのないままだ。
アパートに帰れば女がいる。恋人か、元恋人か、やはりこれもまたはっきりとしない。彼女が仕事を出て行くのを境に白々と広がる昼の時間が始まるが、男はいつの間にか眠ってしまっている。気づけば小さな部屋のまわりには夕闇が広がっていて、その中に男は閉じ込められている。その闇の中で取り残されたように明かりのついた小さな部屋では、見るもの聞くものの距離感が、日の光の下とはがらりと変わってしまう。闇によって隙間を埋められた空間が、他の人間との距離を近づけもし、また得体の知れぬものを呼び寄せもする。どこからともなく叫び声が聞こえる。
 また昼が来て、また夜が来る。ちょうど昼から夜にかけて戸口に姿を見せた来訪者の顔は、まだ日の光が残っているはずだったのに見えなくなってしまっている。夕闇が押し寄せるのに連れてその男の話もまた見えなくなっていく。何も定まらず不安になるほどの広がりはいつの間にか消えて、どこへも抜け出せない黒い障壁が作り出される。その孤独な部屋で鳴り響く音響は、幻視される光景は、その質感も色調も日の光の下でのそれとはまったくの別物へと変調していく。
『Helpless』(96)『ユリイカ』(00)『サッド ヴァケイション』(07)とつながる一連のサーガにおいて、唯一全てを傍観者としてして見つめてきた秋彦=斉藤陽一郎の身体と知覚がここでフィーチャーされる。それはサーガの周縁でのみ見出された秋彦=斉藤陽一郎の身体と知覚であり、それは観客の知覚を間違いなく変容させる。
(結城秀勇)

スニーク・プレヴュー
2008年/35分/スタンダード/カラー/フランス
日本人監督作品