リスクを抱え込む

三宅唱(以下S.M.):まず、ひとりの観客として『やさしい人』をみながら、ものすごくハラハラしました。マクシム(ヴァンサン・マケーニュ)はいったいなにをしでかすつもりなんだ?と。とてもスリリングな映画でした。それと同時に、映画の作り手のひとりとして、とてもハラハラしたんです。なんてリスキーな映画なんだ!と。……いや、いま少しカッコつけて「作り手として」と言いましたが、『女っ気なし』のファンだからこそ、勝手にそんなことを感じたのです。

ギヨーム・ブラック(以下G.B.):ああ、ぼく自身、他の監督の作品をみながらハラハラというか、不安を感じることがよくあるよ。この作品はある瞬間に崩れ、失敗してしまうんじゃないか?と。このことはとくに自分が好きな監督、さらに言うと比較的若い監督たちの作品に対してよく起こる。もちろんモーリス・ピアラのような偉大な監督の作品ではそんなことを感じないけど(笑)、そこで描かれている世界やその描き方を自分が愛している監督作品ほど、最後の最後までやたらと不安を感じる。もし最後の瞬間に崩れさってしまえば、とても悲しくなるよね。

S.M.:『やさしい人』はとくに物語が不安を煽るから……。はじめはロマンティックなムードなのに、いつのまにかとても残酷なものになるので、かなり翻弄されましたよ(笑)。でも僕の勝手な不安は、心地よく裏切られました。そこで、今日はいろいろと質問をしたいのです。
最初の質問ですが、ギヨームさんは『やさしい人』でどんな挑戦をしようとしたのでしょうか? というのも、映画作りとはそもそもリスクに挑戦することだとぼくは思っているんですが、『女っ気なし』を経て、今作ではさらにもっと大きなリスクに挑戦していると思ったんです。

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G.B.:その通り、大きなリスクを持つ作品だ。そして君の言う通り、映画を作ること自体、そもそもリスクのあることだよね。ただ今回はどちらかというと無意識にやったところが大きい。複数の調子を混ぜ、あるところで断絶を入れて1本の作品を途中で壊す……、これらがどれほど難しく、そして「普通じゃない」ことか、きちんと予想していなかったんだ。でもこの作品の出発点は実際そこにあった。ふたつの調子はそのままふたつの時間を反映している。激しい恋愛というものには、だいたい喜びの時間があり、そして狂気の時間、傷つけ合う時間、怒りや暴力の時間がある。そういったふたつの時間を、形式やリズムそのものが反映するような、そんな作品にしたかったんだ。
 そしてもちろん、最後には困難を切り抜け、ふたたび両足で立つような、そんな作品にしようと考えた。後半の暗くて劇的な側面、ほとんどフィルムノワール的な側面が、最終的には括弧に括られ、登場人物たちが潜り込んだひとつの悪夢だったようにならないといけない、そう感じたんだ。そこから目覚めないといけないのだ、と。だからぼくにとってあのラストは重要だった。あの光に満ちたラストによって、ふたたび軽さが生まれ、冒頭とのつながりがふたたび生まれる。そしてそのために父と子の物語が必要だった。

S.M.:物語が変化し、それを反映するように、映画のスタイルやトーンもがらりと変化する。まさにそれがリスキーな挑戦だと思いました。いま言われたように、途中で映画が壊れてしまうのではないかと感じてしまうほどの、映画そのものの変化がある。これはやっぱり、ピストルが出てくるせいだな、と(笑)。「ヴァカンス映画」のリスキーさとはまた違う次元で、ピストルには大きなリスクがつきまといますよね。ピストルが危険というのもあるけれど、映画のなかではピストルはありふれていて、だれもが約束事を知っているから、むしろピストルのせいで映画が退屈になってしまう可能性がある。後半はいわゆる「ジャンル映画」の展開、フィルムノワール、犯罪映画、サスペンス映画の要素が充実しています。でもギヨームさんは、そうしたジャンルのコードなどに完全に寄りかかるのではなく、自分自身のリアルな感覚のようなものをけっして手放すことがない。その挑戦が刺激的でした。

G.B:いま話してくれたことはすごくおもしろい。ぼくがリスクを冒し、自分自身の世界、つまりより現実的でセンチメンタルで、ソフトな世界と、それとは異なる世界──結局はそれもまたぼくの世界だと言えるかもしれないけど──、つまり犯罪映画的なジャンル映画の世界を混ぜ合わせていること……。ただし、だからといって犯罪映画のコードすべてを使っているわけじゃない。もし本物の犯罪映画をつくろうとすれば、すべてはもっと構築的でないといけない。最初からすぐに作品内へ入れるような、一貫した形式が必要だ。逆に、ぼくに興味があったのは、1本の作品が突如としてひっくり返ること。これは弱さでもあり、リスクでもあるけど、でもまさに作品そのもののおもしろさでもある。

S.M.:よくわかります。ぼくが面白いと感じているのはさらに、ジャンル映画を無視しているわけでもまったくない、という点です。言い換えると、構築的であることとそうでないことのバランスに興味を持ったのですが、まず『やさしい人』の脚本作業はどのようなものだったんですか?

G.B.:脚本執筆は6ヶ月ぐらい。共同脚本のエレーヌ・リュオと一緒に、それから数週間だけカトリーヌ・パイエにも入ってもらった。でもぼくにとってはすごく短かった。今回はちょっと特殊というか、たぶん次の作品はもっともっと脚本執筆に時間をかけると思うよ……。もともとこの物語にはひとつのベースがあった。それは突然生まれたものじゃなく、とても個人的な事柄から生まれている。それが徐々に構造化され、かなりフィクション化されていったんだけど、とにかくいくつかの明確な思い出というか記憶が出発点だった。完成した作品にそのまま残っているものもある。このベースがあることで、かなり執筆の助けになった。と同時にもちろん、ぼくの脚本は自分の知っている俳優、自分の知っている土地からも生まれている。
 今回は自分にとってこれまでになく大きな製作体制で、だからこそ急いで書き上げたんだ。『女っ気なし』の自由さから、「本物の」プロデューサーがいて、より大きくて重たい『やさしい人』の製作体制への移行は、かなり自分にとって怖かった。だからぼくは、余計な疑問などを差し挟まれずに素早く作り上げてしまおうと考えた。まあそれでも難しさはあったよね。自分の手の届く範囲を超えしまうんじゃないかと感じたり、撮影日程に拘束されていると感じたり……。でもけっして悪いことじゃない。そのおかげで突っ走れたわけだからね。

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