観客の知性を信頼する

S.M.: 『やさしい人』を二度みて、一度目は流れに任せてみていたので気がつかなかったのですが、二度目には、まるで古典映画のような厳密な構造がベースにあるのではないか、と驚きました。たとえば、いくつかのロケーションや要素が雰囲気や意味を変えて反復される点です。前半でマクシムの父がミュッセの詩を暗誦し、中盤では少女がヴェルレーヌの詩を暗誦する。あるいは、マクシムとメロディが地下の暗闇を通り抜け、はじめて二人がキスをするシーンがありますが、中盤では、マクシムが男と一緒に別の地下の暗闇を通り抜け、そこで今度はキスではなく、ピストルをみせられる……。さらには、ピストルの顛末のはじまりと終わりに、揺れる水面の実景カットが二度入る。こうしたシンプルで確固とした構造は、脚本ではどのくらい意識的に構築されていたんですか?

G.B.:同じ作品をつづけて2回みることは、ぼくもやるよ(笑)。一度目は脚本の構造とか、こことここが対応しているとか、そういったことをそれほど考えずに、自然に任せてみる。そして二度目にみて、最初に思っていた以上に構成がしっかりしていることに気づく……。いま挙げてくれたふたつの地下のシーン。これはとても重要で、ひとつめのシーンは男と女の愛の契約だ。そしてふたつめのシーンはふたりの男の怪しげな契約、いわば黒い契約のようなものだ。これらはもちろん脚本の問題でもあるけど、ただ実際は編集段階での再構成によって、より引き締められ、より明白なものになっている。編集で要素を削ったり、対応関係を与えたりして、一貫性が生まれたんだ。

S.M.:編集でクリアになっていくというのはよくわかります。そうか、実はぼくも編集が大好きで……、いや、作業の手間はとにかく大嫌いなんだけれど。

G.B.:そうそう、一緒だよ。ただ君の場合はひとりで編集しているよね? ぼくには編集アシスタントがいたからね(笑)。ぼくは編集の、いわゆる二段階目が好きなんだ。つまり膨大でまとまっていない撮影素材を整理して、必要なカットを選んでいく一段階目は、本当に時間がかかって骨の折れる作業で、かなり不安になる。できれば編集室にも行きたくないぐらいだ。ただ幸運にもそれをやってくれる別の人間がいるわけさ。本当にラッキーだよ。もしひとりだったら、どうなったことか……。でも二段階目の編集作業は大好きだ。そのときはかなりのエネルギーと明晰さを手にすることができる。それにいちばん辛いのは、撮影の失敗に向き合わないといけないことだよね。撮影では成功よりも失敗の方が多い。

S.M.:その通りですね。いま話してくれたように、たしかにギヨームさんの映画では、編集で全体のトーンを掴まえることがかなり重要なことは、映画をみていてもよくわかる気がします。では、『やさしい人』のあのラスト。脚本段階なのか、それとも編集で生まれたものなんでしょうか? 父親が警察署にマクシムを迎えに来て、ふたりが出て行く。すると次のカットはもうキッチン。ふたりがケーキを食べて一緒に歌う。映画ではそう飛躍しますが、ただ現実においては、警察署とキッチンの間には、たとえば車内での父子の会話の時間なんかがあるはずですよね。その時間が省略されているのに、もしくは、されているがゆえに、いやなんにせよ、あのキッチンでの彼らの顔や振る舞いにはものすごい説得力がありました。いったいどのようにあのキッチンの時間を生みだしたんですか?

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA

G.B.:たしかに編集でつくった省略はたくさんあるけど、警察署とキッチンとのあいだのシーンはそもそも脚本に書いていなかった。脚本段階での省略なんだ。さっき、ある作品をみながらハラハラするって話をしたけど、ぼくは説明的すぎる作品に対して、とてもイライラしてしまう。逆に観客の知性を信頼し、シーンを委ねているような作品をみると、本当に幸せを感じる。観客はさまざまな省略を自分自身で埋めることで、「もしかしたら自分だけがいま起きていることを理解しているかもしれない」という一種の喜びを得られるはずなんだ。傲慢な言い方かもしれないけど、映画館であらゆる説明や要素が与えられて、観客全員が同じことを考えるなんて、ぼくには耐えられない。観客それぞれが自分の経験や感受性によって最終的に作品を完成させる。それこそぼくに興味のあることだ。  警察署とキッチンとのあいだのことだけど、もしそのシーンがあったらたぶん観客としての自分も退屈しただろうし、いや、まあ自分には書けなかったと言った方がいいのかな……。でもとにかく、映画というのはつねに少しだけ観客の先をいっているべきだと思う。「あれ、いま何が起こっているんだろう……、あ、OK、そういうことか!」というような、ちょっとした先取りがぼくは好きなんだ。この省略に関していうと、実は何人かからモラル的な問題があるんじゃないかと言われた。それまで起きたことがなにもなかったかのように、まったくたいしたことじゃなかったかのように、突然、穏やかな様子で父親と息子がキッチンにいるわけだからね。でも、もしその「あいだ」のシーンをつくっていたとしても、父親が息子を叱ったり、モラルを説いたりするようなシーンには絶対ならなかったはずだ。たとえなにかしらシーンがあったとしても、やっぱり彼らはキッチンでそれについて語らなかっただろう。秘密を守るかのような父親の慎み深さ、そして繊細さがそこにあれば、もはやなにも語る必要はないんだ。

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