自由の空間を手にする

G.B.:ちなみに犬のシーンに関しては、三脚にカメラを据えてフィックスにすることもできた。ただ動物は予測不能な要素だから、最大限の柔軟性でもって、目の前で起こることに対応する必要があった。だから肩乗せにしたというのが、 まずいちばん大きかったね。

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA

 あと「スタイル」について言えるとしたら……、ディープ・フォーカスかな。ぼくの映画で後景がボケているカットはほぼない。ロメールもピアラもブレッソンも同じような焦点距離で撮影していたけど……別にこれはマネじゃなくて本能的なものなんだ。もし他の焦点距離にしてしまうと、どうもしっくりこない。これはぼくが土地、場所を撮りたいということに関係していると思う。人物と同じぐらい場所が重要なんだ。そしてもうひとつ重要なのは、人物たちがその場所のひとつの要素になるということ。長い焦点距離で、場所から人物を切り離してしまう作品があるけど、ああいうのをみるといつも居心地悪くなる。

S.M.:まさしくいま言われたように、場所と人間の関係こそを重視し、そして恋愛やら親子関係やら、身近で手触りのある俗っぽい話を語るのだという態度に、ぼくは個人的にとても共感しています。しかも、今作は予算が大きくなったとさきほど言っていたけれど、にもかかわらず、その態度はなにも変わらない。きっとギヨームさんは、もしもたとえ今後予算が30億やら50億があったとしても、これまでと同じようなスケールの物語を、同じような姿勢によって、撮っていくんだろうと思っています。そのたびに、新しい挑戦をしながら。

G.B.:そう、もちろんさ。

S.M.:たとえば、かならずしも若手監督だけでなく、製作規模が変わると語る物語がころころ変わる、ということがよくあると思うんです。お金をなににどう使うかよくわからないのもあるし、自分が語るべき以上のことを語ろうとして、混乱に陥ってしまう。映画をつくる理由というのはいつも危機に晒されているし、しかもなぜか、そんな理由などおかまいなく映画が作られたり、作られなかったりしますよね。そういう混乱を避けるためにも──というと本来と順序が逆になってしまう歯痒さがありますが──、「なぜ映画をつくるのか」という問いに何度も立ち返る必要性をいつも感じています。そんなときに、ぼくは友人たちとともに、あなたの態度に強く共感したのです。

G.B.:これは本当に、とても大切なことだ。今回大きな製作体制で本物のプロデューサーと仕事をするにあたって、ぼくはひとつ要求を出した。馬鹿げた要求に思えるかもしれないけど……、「ぼくはあなたと映画をつくりたい。ただし予算は最高でここまでにしてくれ」とね。普通なら監督は「最低でこの予算がほしい」と言うものだけど、ぼくの場合、逆を言ったんだ。だいたい100万ユーロぐらいを、ぼくは絶対に越えたくないと。フランスでは低予算と言われるけれど、ぼくにとってこの額はすでにかなりの額だった。お金を得るがゆえに失われることに対して、ぼくはすごく意識的だ。ある種の自発性、物事への反応や、現実との相互作用というものが、やはり失われるんだ。大きなプロダクションと仕事をすれば、自分がやってきた作業を別の人間がやることになり、いつの間にかすべてが手から離れてしまう危険がある。ロケハンや脇役探しも、自分でやらなくなったら……。そういったひとつひとつの段階でこそ、自分のなにかが反映されていくはずなのに、そうなったら自分の視線も感受性も作品からどんどん消えていってしまう。

 それから、これはフランスにかぎらず世界中いたるところでそうだと思うけど、お金のかかる映画であればあるほど、人々はそこにお金をさらにつぎ込んでゆく。なぜなら配給展開が大きくて、より金儲けのチャンスも増えるわけだからね。本当に不公平だ。お金がかかっていてもたいしたことのない作品、ダメな作品ばかりが大きく配給展開されて、お金が少なくて良い作品が小さくしか展開されない。そこにお金をつぎ込もうとする人間はほとんどいないからね。彼らにとって問題はいつもこうだ。「これはたくさん配給されるのか?」。監督にとって難しい問題だ。だってもちろん自分の作品をなるたけ多くの人々にみてもらいたい。でもそのためには……。もはや単純にシステムが変わらないかぎり解決策はないと思う。

 これは製作体制の金銭的な問題だけに関わらない、とても重要なことだ。もし数十億の予算を手にしたら、ぼくはものすごく不幸になるはずだよ。職人的な、手仕事的な部分をつねに持っておくことが、ぼくには必要なんだ。仲間との関係から生まれる部分、ちょっとした日曜大工的な部分。もしすべてがあまりにプロ風になってしまったら、なぜ自分が映画をつくっているのか、わからなくなってしまうだろう。自分が映画をつくる理由、それはまさに、ある特定のやり方で、近しい人々と一緒に映画をつくるためだ。この社会とは別のところで自由の空間を手にすること。撮影行為とはそういうものだ。他のすべてと同じ論理に応えるだけの映画づくりをするなら、自分がなぜ映画をつくるのか、もはやわからなくなってしまうだろう。

構成・写真:松井宏

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