肩乗せフィックスの小さな震え
そして正面からみつめること

S.M.:『やさしい人』でも『女っ気なし』でも、手持ちのカットが基調になっていますよね。グラグラ揺れているわけではなく、ほとんどフィックスだけど厳密には固定されていないというあのカット、これはギヨームさんの映画のひとつの特徴かなと思います。どうして手持ちなんですか?

G.B.:『やさしい人』では、手持ちは前半よりも後半の方が多いかな。移動だったり、いわば「アクションシーン」みたいなものが、後半の方が多いからね。実は撮影の当初、ちょっとぼくは頭を悩ませていたんだ。あまりにすべてがカッチリしすぎていて……。撮影前にピアラの『開いた口 La Gueule ouverte』(73)を見直したんだけど──見直すのはすでに4〜5回目だった──、あらためてその演出というか、登場人物を追うカメラの滑らかな運動によるワンシーン・ワンショット、とりわけ室内のワンシーン・ワンショットに感銘を受けた。それらは大きなタイヤが付いたドリーで撮られていたはずで、だから『やさしい人』でも、とくに室内のシーンでドリーを使って撮影してみたんだ。でもすぐに、なんだか風通しの悪さを感じて息苦しくなってしまった。ドリーでの撮影はかなり面倒で、持ち運びも大変だし、軽さが失われていく気がしたんだ。だから三脚に変えて、フィックスで撮り始めた。前半では、屋外のシーンを除いたら手持ちはあまりないはずだ。後半に増えてくるけど、手持ちとはいえけっして「ダルデンヌ兄弟的」な、つまりいかにも「手持ちです」的なものじゃない。かなり固定された手持ちで、「手持ちフィックス」「肩乗せフィックス」とでも呼べるものだ。基本的にはそんなに動かないけど、どこか生きているような、そんなカメラ。

S.M.:ぼくは基本的にフィックスが好きなんですが、悪い意味での重さ、軽くなさ、というのもよくわかります。映画の現場にはある種の軽さや自由が必要だし、撮影中はそういった自由はいつだって邪魔されるわけで、それこそ、俳優を不安定におく、という試みすら不安定になってしまいますよね……。撮影現場では、どこで「肩のせフィックス」、どこでフィックス、というのをどう判断していますか? 印象的なフィックスのカットもはっきりとありますが、どのように決めているんですか。

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G.B.:ぼくはやっぱりフィックスにとても愛着があるんだ。ただしいかにも「フィックスです」とか、いかにも効果や美しさを狙ってのフィックスじゃなくて、シンプルでさりげないフィックスだ。それで「肩乗せフィックス」のことだけど、『女っ気なし』の編集のとき、ぼくはかなり苛立ったことを覚えている。まあ結局は笑い話なんだけど……。もともと絶対にフィックスで撮られるべきシーンがいくつかあったんだ。ところが撮影監督のトム・アラリはフレキシブルに状況に対応するために、三脚を完全に固定するのを嫌がった。そのせいでカメラがときどき微妙に震えていたんだよ。たとえば可笑しなシーンがあると、彼も笑ってしまって、そのたびにカメラが微妙に震えてしまう。あるいはちょっと官能的なシーンがあると、彼の心もちょっと乱されて(笑)、やっぱりカメラが微妙に震えてしまう。本来ならぼくはフィックスを望んでいたから、もう怒鳴りつけてやったよ! でもね、最終的にはその小さな震えがすごくいいんだと気づいたんだ。

 それから、たしかにぼくはカメラを三脚に据えたフィックスのショットが好きだとはいえ、ただ現場では最後の最後でカメラ位置を変えたり、高さを変えたりすることがよくある。手持ちの方がそれらの変更に素早く反応できる。あとぼくは現場でよく、シーンをどうつくるか考えるのにかなり時間をかけてしまうから、どうしても撮影が遅れがちになるんだ。その遅れを取り戻すためにも、三脚を使わずに臨機応変に対応できるようにしておく方がいいと思っている。

S.M.:いまハッと気付いたんですが、「肩のせフィックス」にすると、カメラの高さがそこまで変わらない、ということになりますよね。……いや、今までずっと、手持ちにするとバラバラになるんじゃないかと危惧していたんだけど、むしろ「肩のせフィックス」の場合、肩の高さというか、カメラの目の高さはずっと変わらない。その意味では、一貫性があると言える。

G.B.:ああ、それはそうかもしれない。となると撮影監督の身長と俳優の身長次第でカットが変わってくる、ということかな(笑)。

S.M.:そうとも言える(笑)。でも高さが変わらないってことは──そうかなるほど──カメラ位置の変化と、被写体との距離の変化がよりはっきりと問われるってことですよね。マクシムが犬に手をかけるシーンの長いカット、あれがわかりやすいかもしれない。最初はカメラの高さにギョッとしたんです。もしも他の映画なら、しゃがんでいるマクシムと同じ高さにカメラが入るような気がしたし、僕は犬好きだから、マクシムはいったいなにをするんだ!? と、嫌なドキドキもあった。でもそのカットを長くみているうちに、ある種の倫理感が厳しく問われているような気がしました。たとえ地面すれすれで事件が起きようとも、観客はこれまでと同じ場所、同じ高さから、ある距離をもって、それを見つめ続けなければいけない、というようなことをぼくは感じた。ほんとうにスリリングなカットですよ。ギヨームさんの映画ではモラルや政治性みたいなものが、ざっくり言うと「態度」や「流儀」みたいなものが、物語や芝居だけでなく、カメラ位置と距離の問題と常に繋がっているようにみえる。映画とはそもそもそういうものだとぼくが考えているのもあって、そう感じたのですが。

G.B.:もしぼくの映画になにかしら「スタイル」があるとしたら、まあ強引かもしれないけど……。つねに人物をほぼ正面から、そしてほぼ目の高さで撮るんだという強迫観念、と言えるかもしれない。ローアングルのあおりやら、変わったポジションのカット、それから横顔やうなじのカットなどは、ほとんどない。まあ『やさしい人』には、うなじのカットがほんの少しだけあるけど、これは例外中の例外だ。それでおもしろい話があって、自分の彼女と一緒にヴァカンスを過ごしていたとき、ぼくが彼女の写真をたくさん撮ったんだけど、ほぼすべてが正面からの写真だったんだ。横からとか背中からなんて一枚もなかった。しかもつねに彼女の顔の高さ。大笑いされたよ。実は彼女も映画監督で、映像に対する考え方や、カメラの高さに対する考え方などは、ぼくと違うんだ……。とにかく、ぼくはいつも正面からの写真ばかり撮っていたんだ!

S.M.:そんないいエピソードを聞いちゃうと、なにも言えないなあ(笑)。

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