カンヌ国際映画祭2019からパリへ(2) 『ルーベ、ひとすじの光』(英題:Oh mercy!)アルノー・デプレシャン

坂本安美

今年のカンヌ国際映画祭でなんとしても見たかった一本、デプレシャン最新作『ルーベ、ひとすじの光』、しかしその公式上映は帰国直後、その夜であることを知らされ、地団駄を踏んでいたが、なんとか最終日ぎりぎりにマーケット試写に潜り込み、見ることができた。そして数ヶ月後の夏に訪れたパリ、ちょうど到着日がこの作品の公開日という幸運に恵まれ、劇場であらためてじっくり作品に出会うことができた。カンヌでの上映は長い、長いスタンディング・オベーションに包まれ、非常に温かく迎えられたようだが、当時の記事、批評を読むに、これまでのデプレシャン作品とは一転、刑事ものというジャンルに挑戦していること、そしてこの作品の持つ「非時代的」とも言える側面に戸惑いの声も聞こえた。それから数ヶ月経ち、再びこの作品と、デプレシャンという映画作家と向かい合った各新聞、雑誌、ラジオを見聞きすると、この作品へのより深い洞察がされ、様々な興味深い視線も提示されていた。日本でのお披露目も近いことを希望しつつ、このデプレシャン初のフィルム・ノワール(そう「刑事もの」としてよりもフィルム・ノワールとして)の魅力、そして彼のフィルモグラフィにおいて、あるいは映画史における、この作品の重要性について触れたいと思う。


夜を生きる人々
 漆黒の闇の中、人気のない道路に転がる車から炎が上がり、その炎なのか、黄色い光に包まれた煙が夜の街を漂ってゆくと、家々の壁や道路がうっすらと見えてくる。その中をパトカーが走り抜け、無線でやり取りをする警官たちの声が途切れ途切れに聞こえてくる。飾られているわずかなイルミネーション、警官たちが「メリー・クリスマス」と無線で交わし合う言葉から、その夜がクリスマスであることが推測できながらも、これまでのデプレシャン作品で描かれてきた家族や友人たちが集う賑やかな雰囲気はなく、静寂さと不穏さが背中合わせのような闇がどこまでも広がっている。ここは題名にも掲げられたルーベというベルギーとの国境沿いにあるフランス北部の街、そしてデプレシャン自身が生まれ育った場所である。自伝的要素が込められ、主人公が監督の分身として登場してきたデプレシャン作品で、その主人公が帰省する街としてルーベは何度となく登場してきた。しかしその街はしばし、主人公の家を通して垣間見える、どこかよそよそしい場所としてあった。家族、恋人、友人たちが家という限られた空間で交わし合うひとつひとつの動作、動き、彼らの言葉が濃密なドラマを紡ぎ出してきたデプレシャン映画であるが、最新作『ルーベ、ひとすじの光』は、そうした親密なる空間の中に入っていくことはない。警官、不良青年、年端も行かない少女、浮浪者、たれ込み屋、彼らは街の闇の中にとどまり、うごめいている。
 ルーベはかつて繊維業で栄えながら、近年はフランスの中でも貧困率が高く、経済的に最も厳しい地域とされている。またアラブ系移民が多いことでも有名だ。デプレシャン映画の主人公たちはこの街から出て行っては、ふらりと戻って来て、そしてまた旅立っていく。「何度も自分の作品の中で撮ってきたこの街を見て思うのは、子供の頃の自分が非常に守られた環境にいたということだ。11歳のとき、僕は自分の部屋に閉じこもり、読書をしたり、音楽を聞いたりしてばかりいた。17歳になって、この街から出て、そこから僕の人生はようやく始まった。この街を撮り続けるのは、ある意味、罪の意識からと言えるかもしれない。自分は生まれ育った街を知らないでいる。ルーベは移民の街でありマグレブ系のアラブ人たちが多く住んでいるというのに、僕は一言もアラブ語が話せない。まったくひどいことだ! 弟はアラブ語を話すのに、僕は話せない...。自分の人生をちゃんと歩んでこなかったような気がする。だから僕の映画の登場人物たちは僕が幼年期に避けてしまったことに向かい合っているのかもしれない。」(アルノー・デプレシャン)

3239717.jpg-r_1920_1080-f_jpg-q_x-xxyxx.jpg

燃え上がる生の素材
 デプレシャンが『ルーベ、ひとすじの光』を構想するきっかけのひとつとなったのは今から10年前にテレビ放映されたモスコ・ブコ監督による『ルーベ、中央警察署、日常業務』というドキュメンタリーだ。このドキュメンタリーは、ルーベの警察署を密着して撮影し、「潜入ドキュメンタリー」のはしりとして、当時、多くの人に衝撃を与えたと言われている。そしてデプレシャンは、これまで元にしてきた自伝的要素から離れ、このドキュメンタリーから出発し、ルーベという「いまだ知らずにいる」街へと戻ってきた。「これまでの僕の作品はロマネスクだった。あまりにも!そして過度なほどのロマネスクを、その『あまりにも』を僕は欲した。でも今日、僕は現実に密着した映画を撮りたいと思った。手が加えられていない、生の素材から始めたいと。そして俳優たちの芸術=技術によってそれが燃え上がらんことを求めたんだ」。モスコ・ブコのドキュメンタリーに記録された家出娘やその家族とのやり取り、レイプの被害にあった少女との現場検証、そしてある殺人事件の容疑者であるふたりの若い女たち......。デプレシャンは、ドキュメンタリーの中で彼女たち、彼らが発する言葉を、まるで「シェイクスピアの戯曲の中の台詞のように尊重し」、脚本の中に取り入れたという。そしてデプレシャンはその脚本を二種類の俳優たちに演じさせている。まずはデプレシャンが呼ぶところの「自然な俳優たち」、つまりプロの俳優ではない、ルーベに実際に暮らしている人々や警官たちである。彼らには自分たち自身を演じること、つまり警官は警官として実際に仕事をしているときのように演じてもらい、街の若者たち、チンピラたちにはいつものように街を歩き、いつものように仲間や警官たちと振舞うことを求め、彼らがより自然に演じられるように、ときに脚本を調整しながら演出を行ったという。こうして実際の警官たち、住民たちの行為、移動、言葉の流れを通じて、彼らが生活し、仕事をしている空間、たとえば警察署というひとつの機関、制度が、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーさながら、どのように動き、機能しているのか見えてくるだろう。デプレシャン自身も敬愛するこの偉大なアメリカの映画作家がある機関の仕組み、そこで働く人々、訪れる人々たちを丹念に描く、その手法を継承し、ルーベの警察署を通して、この街で生きる人々、とくに女たちの姿が見えてくる。
 モスコ・ブコのドキュメンタリーで最もデプレシャンの心をとらえ、長い間離れなかったのが、老女殺人容疑で逮捕されるふたりの若い女たちだった。「普段は傷つけられる側にしか共感できず、傷つける側を好きになどなれないのだが、人生で唯一、初めて、犯罪者であるこのふたりの女たちを自分の妹たちのように感じたんだ」。そしてこのふたりを演じるのがサラ・フォレスティエとレア・セドゥ、デプレシャンが呼ぶところの「芸術=技術を得た」俳優たちである。現代のフランス映画界を代表する若手女優たち、演技力が認められていると同時に華やかなイメージを持つふたり、とりわけレア・セドゥはファッション雑誌の表紙、ハイブランドのモデルも務める世界的人気女優である。そのふたりと、社会の底辺に生き、犯罪に手を染めてしまう女たちとではあまりにギャップがあるではないか。もしかしたら映画を見る前にそうした危惧をいだく者もいるかもしれない。しかしデプレシャンがこのふたりに求めたのは、実際の人物たちをもっともらしく模倣してみせることではけっしてない。自分たちが犯した非人間的な行為、その現実を正視することより、まるで子供が作り上げたかのような物語、幻覚から抜け出せずにいるふたりの女たち。 デプレシャンが求めるのは、ドキュメンタリーの中で実際に彼女たちが口にした剥き出しの、ときに野卑とも言える言葉たちを、俳優たちが一語一句尊重し、自らのものにし、自分たちの声とともに、それらの言葉がスクリーンのこちら側にいる私たちへと届き、私たちのものになることだ。そしてその「作業」を共に行っていくのがふたりの刑事たち、それを演じるふたりの俳優たちである。

時代遅れなヒーロー
 他の街からルーベに派遣されてきた新米刑事のルイ・コトレル(アントワーヌ・レナルト)、そして彼が配属される警察署のカリスマ的存在である署長ダウール(ロシュディ・ゼム)。そのダウールも、子供の頃にアルジェリアからルーベに移住してきた。なぜ今までこの街から離れなかったのか、とルイに尋ねられ、ダウールは次のように答える、「その質問は違うな、なぜこの街に居続けているのか、と聞くべきだよ。ここは私の子供時代そのものなんだ。私には家族はいない、いやここに住むすべての人たちが家族だ」。彼はひたすらこの街の人々に寄り添い、彼らそれぞれの立場から世界を見て、聞こうとする。ダウールはその時、必ずひとりひとりの子供時代へと遡り、そこで唯一無二の他者として対話しようとする。ひと昔前の映画、とくにアメリカ映画に登場した、ある意味、時代遅れにさえ見えるかもしれない、ダウールのそうした簡潔なる公正さ。なぜデプレシャンはあえて時代を超えたヒーローをこの映画に召喚したのか。デプレシャンが敬愛する映画批評家セルジュ・ダネーは偉大なアメリカ映画の特質とは映画作家たちが、たえず暗黙のうちであれ、「他者についての理論」を育むことを必要としてきたことだと晩年のジョン・フォードについてのテクストにて述べる。「あらゆるものが漂流していく世界にあって、唯一のみすぼらしくも、確かなことは『私』が『私』であるということであり、子供とは、迷い子であれ、養子であれ、捨て子であれば、そもそも他者である。ジョン・フォードはすべての映画で絶えずそのことを語ってきた。(...)フォードは、子供のなかに、なんの保証もなくまったくの偶然に我が子とせねばならない存在という謎を見てとった」。(セルジュ・ダネー)
 世界中でこれまでの既成の秩序、権力構造が崩壊していき、抑えきれない不満、あるいは変革に向けて声を上げようとする者たちを力ずくで押さえ込もうとする警察を含めた行政機関の姿が日々報道されている現在、そうした権力の側に立つ者たちをあえて擁護することが本作の目的ではけっしてない。また彼らそれぞれの立場の複雑さ、両義性を示し、そこから現在社会を描こうとすることを目指してもいない(同じく今年のカンヌのコンペティションに出品されたラジ・リ監督の『レ・ ミゼラブル』は安易な図式に陥らないように試行錯誤しながらまさにそうした試みを行っている)。デプレシャンが目指したのは、社会の側ではなく、あくまでも世界の側に立ち、映画を作ることである。「あらゆるものが漂流していく世界」を見て、受け入れるために。

3391282.jpg-r_1920_1080-f_jpg-q_x-xxyxx.jpg

ひとすじの光
 後半、事件現場で一堂に会する。中庭を抜け、一階から二階の寝室へ上がり、ふたりの女たちはついに殺人現場である部屋の中へと戻っていく。殺された老女の寝室、ベッドの前で、それまで陰に隠れていたマリーが証言を始める。警官たちの追求によって、クロードもそこにおずおずと加わり、口を開き始める。薄暗い、悍ましい事件が起きたその寝室は「舞台」となり、ふたりの容疑者と警官たちとの緊張に満ちたやり取りが行われる。そして「舞台」袖で、一部始終をじっと見守るのがダウールだ。まさに演出家さながら、ダウールは彼女たちに「なぜ」とは問わず、「どうやって」と尋ね、彼女たちが「真実」を語る声、しぐさを見出していくように導いていく。罪を裁くこと、あるいは償わせることなどここで求められていない。ダウールが、そしてこの映画にとって唯一可能な救済があるとすれば、それは俳優たちの芸術、キャメラの位置、つまり映画の力によって、自己の曖昧模糊とした、陰鬱なる部分にほんのひとすじの光を照らすこと、それだけである。それはまた、恋人同士でありながら愛し合うことができずにいたふたりの女たちがようやく視線を合わせ、見つめ合える瞬間となるだろう。
 アルノー・デプレシャン初のフィルム・ノワール、『ルーベ、ひとすじの光』は現実に密着しながらそこからよりよく飛翔する。そして真実主義的模倣からは遠く離れ、ロマネスク的濃密さ、フィクションの力によって、偉大な映画が持ち得てきたヒューマニズムに到達する。しかしそれは人間性も失われた場所、絶望の果てでようやく取り戻されるヒューマニズムであるだろう。

後記
アルノー・デプレシャンの言葉は、『ルーベ、ひとすじの光』プレス資料、および、仏日刊紙「リベラシオン」のジュリアン・ジェステールによるアルノー・デプレシャンへのインタビューより抜粋。
セルジュ・ダネーの言葉は、「登場の演劇 ジョン・フォード『荒野の女たち』」(『カイエ・デュ・シネマ ジョン・フォード特別号』掲載)より。映画雑誌『シネ砦』に掲載された角井誠の邦訳を参考にさせて頂いた。