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Vivre sa vie.png これまで何度も来日し、「エリック・ロメール特集」、「フランス女優特集」、「シャンソンと映画特集」など、素晴らしいプログラミングと講演を行い、その優れた批評によって、つねに映画の現在、映画史への新たな視点、考察を示してくれるジャン=マルク・ラランヌ。「カイエ・デュ・シネマ」編集長を経て、2003年から現在にいたるまでラランヌ氏が編集長を務める人気カルチャー雑誌「レザンロキュプティーブル」、通称「レザンロック」が5月17日より開催するカンヌ国際映画祭を記念して、映画特集号を組み、同映画祭に出品予定の作品の紹介や、それら作品の監督や俳優のインタビューを掲載している。そこには3月21日に惜しまれて亡くなった青山真治監督へのラランヌ氏の感動的な追悼文も掲載されている(この追悼文はまた追って訳出してお伝えしたい)。
この特集号の記事の中でもとくに紹介したいのが「なぜ映画館?」と題し、世界の11人の偉大な監督たちにインタビューしているページである。

「映画館での上映は、映画体験を構成する要素としていかに絶対的なものであるのか?」
ペドロ・アルモドバル、アルチュール・アラリ、ベルトラン・ボネロ、クレール・ドゥニ、グザヴィエ・ドラン、ミア・ハンセン=ラブ、ガス・ヴァン・サント、ヨアキム・トリアー、アピチャッポン・ウィーラセタクン、レベッカ・ズロトヴスキ、そして濱口竜介らがこの問いに答えている。ラランヌ氏から依頼を受けて、濱口監督に原稿をお願いしたところ、大変お忙しい中すぐに送ってくれる。うんうんと頷き、映画館でのいくつもの体験を想起し、高揚しながらフランス語に訳し、その原稿をラランヌ氏に送ったところ、「素晴らしい文章だ!」と喜びの言葉が戻ってきた。濱口監督より特別に許可を得て、その原文を以下に掲載させていただく。他の監督たちの言葉はまた別の機会にお伝えしたい。

Pierro le fou.png私にとって、映画とは映画館で見るものに他ならず、「なぜ」と考えるのは難しいことです。それはなぜ映画が映画であるのか、と問われているようなものです。勿論、配信やソフトで映画を見ることはあります。ただ、一度でも同じ作品を映画館と家のモニター(+スピーカー)で見比べた体験さえあれば、それらがどれだけ本質的に異なるものであるかについては語るまでもないことと思います。よく、映画には人生を変える力があると言われます。それは間違いではありませんが、実は人生を変える力をより強く持っているのは「映画館」という場の方です。私にとって、自分の人生の方向を根底から変えてしまったと思えるような映画体験はすべて、映画館で起きたものでした。映画館という、集団で映画を見る場のほうが、驚くほど個人の身体に深く決定的に働きかけます。映画館の暗闇が私達の輪郭を溶かしてしまうからでしょうか。繭の中のサナギのように溶かされて、まったく異なる自分に作り変えられてしまいます。映画館に入る前と後では、まったく違う人間であり得ます。映画は身体に入り込んで、自分の人生を支える芯棒のような役割を果たすようになります。そんなにも強烈な変化をもたらす2時間は「劇場」という場以外では生まれ得ないでしょう。
愚かかもしれませんが、私は映画館の未来に対して、徹底的に楽観的です。「映画館で映画を見る」。人類がこれほど強烈な快楽を手放す未来を、私は想像することができません。

濱口竜介

ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集

坂本安美

2021年11月20日(土)から12月10日(金)まで横浜シネマジャック&ベティにて、そして12月18日(土)から12月24日(土)まで名古屋シネマテークにて開催される「第3回映画批評月間 フランス映画の現在」。本特集の目玉でもあるジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集をご紹介したい。今年7月27日、享年77歳で惜しまれて亡くなったステヴナンは、トリュフォー、ゴダール、リヴェット、ロジエのアシスタントを務め、「フランス映画で最も巧みに動くことができる俳優」(セルジュ・ダネー)として作家主義的映画から大作商業映画、テレビドラマまで、数々の作品に出演して人気を誇るほか、監督としては、生涯に撮った作品はたった3本ながら、フランス映画史の風景を一変させる、前例のない作風で、ゴダールをはじめ、多くの映画人、観客を魅力した。2018年に監督3作品のレストア版が公開されると、若い世代も含め、カルト的な人気をよび、同年、そのキャリア全体にジャン・ヴィゴ名誉賞が贈られた。今回は、ステヴナンの出演作の中でも代表作とされる一本『走り来る男(原題:Peaux de vaches)』(パトリシア・マズィ)も上映する。

以下、ステヴナンの紹介、そして『カイエ・デュ・シネマ』現編集長のマルコス・ウザルによる記事や、アルノー・デプレシャン、クレール・ドゥニ、ギヨーム・ブラックら映画監督たちによるステヴナンについての言葉、思い出を訳出した。
ぜひ、この機会にスクリーンにてジャン=フランソワ・ステヴナンの監督作&出演作を発見、再発見してほしい。


ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集@シネマ・ジャック&ベティ
<出演作品>
「走り来る男」監督:パトリシア・マズィ(1988年/87分)
12/6(月)15:00


ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集@名古屋シネマテーク
<監督作品>
「防寒帽」 (1978年/110分)
12/18(土)13:10
12/22(水)13:10
「男子ダブルス」 (1986年/90分)
12/18(土)15:35

DoubleMessieurs3_ツゥ Le Pacte.jpegジャン=フランソワ・ステヴナン プロフィール

1944年4月23日、フランス東部ジュラ県のロン=ル=ソーニエでエンジニアの父と教師の母の間で一人息子として生まれる。幼い頃から映画に熱中するも、父の強い勧めもあり名門校パリ高等商業学校(HEC)に入学。同校在学中に知り合った友人と共にキューバに赴き、そこで6ヶ月間、映画の撮影に参加。帰国後、1968年、アラン・カヴァリエ監督の『別離』の現場につく。本作に主演していたカトリーヌ・ドヌーヴの紹介でフランソワ・トリュフォーと出会い、『暗くなるまでこの恋』(69)から計8本、トリュフォーの作品にスタッフ、そして俳優として関わることに。同時にジャック・リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ロジエらヌーヴェルヴァーグの監督たちからも信頼を受ける。リヴェットの12時間超の大作『アウト・ワン』(70)でジュリエット・ベルトとカフェの乱闘シーンを演じたのが俳優デビュー。同監督の『北の橋』(82)でのパスカル・オジェとの空手の格闘シーン、そしてトリュフォーの『アメリカの夜』(73)で助監督である自身自身を演じ、『トリュフォーの思春期』(76)では重要な教師の役を与えられ、これが俳優としてのキャリアの本格的スタートとなる。1981年にはジョン・ヒューストン監督の『勝利への脱出』でシルヴェスター・スタローンらと共演。80年代には『都会のひと部屋』(ジャック・ドゥミ、82)『パッション』(ジャン=リュック・ゴダール、82)、『ホールにフランス人はいるか?』(ジャン=ピエール・モッキー、82)、『真夜中のミラージュ』(ベルトラン・ブリエ、84)、『ヴァージン・スピリト』(カトリーヌ・ブレイヤ、88)など、時代を牽引する作家たちの作品に次々に出演。その少年のようなシャイで夢見がちな表情と力強い眼差し、突如としてみせる荒々しい闘争心、画面に登場しただけで忘れられない魅力的なその存在感でフランス映画になくてはならない俳優となる。しかしその才能が火花のように発揮されるのは監督作品たちである。さまざまな脱線に満ちた『防寒帽』(78)、『男子ダブルス』(86)、そして人生賛歌である『ミシュカ』(2002)、長編3作品と寡作ながら、ステヴナンはフランス映画の常識を覆し、そこに新たな息吹を与える。山、田舎道、出会い、思いがけなく生まれる友情が描かれた、彼以外何にも似ることのない作品、そこにはユニークな撮影の冒険、人間的で創造的な経験が刻まれている。尚、『防寒帽』を観て、ステヴナンのファンとなったパトリシア・マズイは、1988年、その長編初監督作で彼を主演に迎え、傑作『走り来る男』を発表している。


ジャン=フランソワ・ステヴナン特集: 逃走の悦楽
マルコス・ウザル(『リベラシオン』、2018年4月18日)

DoubleMessieurs8_ツゥ Le Pacte.jpeg ジャン=フランソワ・ステヴナンの監督した3本の作品がデジタル修復され、リバイバルされるという知らせは今年最も嬉しいニュースである。俳優としてのステヴナンは誰もが知っており、その出演作のリストは、ジャック・リヴェット、ピエール・ズッカなど妥協することのない映画作家の作品から、『ムーラン署長』などお茶の間で大人気の連続テレビシリーズまでと幅広いが、彼が偉大な映画監督でもあることはあまり知られていない。しかし『防寒帽』(1978年)と『男子ダブルス』(1986年)は過去40年間でもっとも美しいフランス映画の2本であり、実際に観た者だけがそれを知っている。しかしこれほどまでに特異な魅力を持つステヴナンの映画は何と並べることができるだろうか?フランスでは彼がアシスタントについていたジャック・ロジエ、アメリカでは彼が師匠とみなすジョン・カサヴェテスだろう。この二人の師匠にならい、ステヴナンの映画作りはこの上なく冒険的である。社会や映画の規則を放棄し、一見カオス的に見えながら、所作、編集は非常に的確なのだ。生まれ故郷のジョラで山やアルコールを愛し、犬と一緒に歌う人々たちの驚くべき集まり、ステヴナンしか見せることができないフランス、世界が広がっていく。まさにアルコールと空手がステヴナン映画の原動力といえるだろう。
 ステヴナン監督3作品はほぼ同じ物語を語っている。道中で出会った男たちが共に逃避行へと出発し、心ゆくまで漂流する。彼らの間に生まれるもの、それは時に愛に似たものであり(『防寒帽』)、旅の途中で夢のような女性に見つけたり(『男子ダブルス』)、かりそめの家族を作ったりすることもある(『ミシュカ』)。彼らが何をしたいのか、どこに行こうとしているのか分からない。彼らはまるで子供のまま大きくなったようで、ぶっきらぼうで、多少マッチョで、とくに感じがいいわけではない(それが目指されているわけではない)、しかし執拗なまでに逃走していく彼らの姿には誰もが深く心揺さぶられるだろう。
 そして彼らがすれ違う人々、あるいはしばらくの間、道連れにする人々がいる。『防寒帽』では、ステヴナンが故郷のジュラで見出した人々が脇役やエキストラを演じており、驚くべき集団を構成している。山やアルコールの瓶に囲まれた、彼らの不安を誘いさえする喜び以外何も存在しないかのように、犬と共に歌うクレイジーな人々。ブランデーを飲み漁る者たち、ソース料理の詩人、崇高なる愚か者たち。こんなフランスを見せることができたのはステヴナンのみだろう。そして彼の仲間である俳優たち――ジャック・ヴィルレ(『防寒帽』で稀にみる存在感を見せている)、イヴ・アフォンソ、キャロル・ブーケ、ジャン=ポール・ルシオン、あるいは比類なきジャン=ポール・ボネール――、映画の中で登場人物たちが人生に身をゆだねるように、彼らはステヴナンに身をゆだね、酩酊の夜のような、心地よくも狂おしい熱狂の中へと乗り出していく。
 3本の作品は、3人の兄弟のように互いに似ているとともに異なってもいて、それぞれに特有のエネルギーと風景を持っている。ジュラ山脈の中で撮られた『防寒帽』は故郷の地と思春期の夢からひきちぎられたかのように、もっとも狂おしく、激しく、叙情的な作品だ。グルノーブルの街と周囲の山中で撮られた『男子ダブルス』はよりざらざらと乾いたように見えるが、そのリズムや編集は見事なまでに音楽的であり、すべてが悲劇的に一秒ほど早く幕を閉じてしまいながらも、雪の中でのラストは映画史上で最も素晴らしい抱擁を見せてくれる。『ミシュカ』は3本の中でも驚きに乏しい作品であるかもしれないが、見直してみて、公開当時に失望したことを悔やむほど素晴らしい作品だ。あまり目を向けられず、愛されることもなくきた人々が動物的本能で互いに分かり合う。『ミシュカ』は夏の映画、ヴァカンスの映画であり、よりのびのびとして、優しさに満ち、まるで7月の心地よい風に押し流されていくかのように、カメラはゆったりと動いていく。人間たちが演じられる、見捨てられた犬たちの物語だ。


映画監督たちによるジャン=フランソワ・ステヴナンへの言葉
838_mischka3_-r_le_pacte.jpegたった2本の作品によって、ジャン=フランソワ・ステヴナンはフランス映画の情勢を一変させた。
 ヌーヴェルヴァーグがフランスで起こり、後にそれがアメリカで不思議な展開を見せた。ハリウッドに対して、現実をフィクションに置き換えることを余儀なくされる低予算のフィルムが生まれ始めたのだ。大西洋の向こう側で、思考の映画が、俳優の映画へと変貌した。アメリカのジャンル映画によって形を変えたこのヌーヴェルヴァーグの遺産を、たったひとり、ステヴナンがフランスに回帰させた。そしてまたステヴナンは、不器用にもこう名付けるしか私にはできないのだが、「しぐさの映画」というべきものを創り出したのだ。
 ゴダールは「盲目の映画を作ることができるだろう」と述べていたが、そこにはつねに彼自身の手が介在していた。ステヴナンの1本の作品のワンシーンを見るだけで、この逆説を理解することができだろう。
ステヴナンが俳優であることは偶然ではない、それも途方もない俳優であることは。ステヴナンはただ単に、私たちのクリント・イーストウッドなのだ。彼らふたりの映画には同じ古典主義、同じモデルニテが存在し、同じ謙虚さ、そして映画がこうあるべきであるという広大で、果てしない理念を共有している。
ステヴナンは、彼の身体のすべてによって映画を作っているのだから。
アルノー・デプレシャン(2002年『ミシュカ』公開時のプレスより引用)

PasseMontagne2_-Le-Pacte.jpeg いまだにジャン=フランソワの死が信じられずにいる。2019年に亡くなった映画監督のパトリック・グランペレとも大の仲良しで、今でも毎日のようにふたりの偉大なバイク乗りは私の人生を駆け抜けている。『防寒帽』のことをいつも考えている。この映画では光が決して消えることがなく、戦後のフランス映画史において前例のない作品であり続けている。出会いと横断の映画であり、ストーリーテラーの映画でもあり、ステヴナンは話上手で彼の話は何時間でも聞いていられる。ジャン=フランソワとはジャック・リヴェットのアシスタント時代に知り合いになり、1979年にロッテルダム国際映画祭で本作が上映されるので彼に同行した。ゴダールが講演をしに来ていて、『防寒帽』について、国、地方、ジュラの風景が描かれた映画として、心を打たれたことを長い間語り続け、ジャン=フランソワは感動して涙を流していた。ヴェンダースの『さすらい』(1976年)との親和性、完璧なドイツ語を話すステヴナンがライン川の向こう側で映画を作ることを夢見ていたことも重要だが、アメリカン・ニューシネマの非常に特殊な存在であるモンテ・ヘルマンとの親和性もあるだろう。ふたりはカンヌで出会い、意気投合していた。ステヴナンにはオーソドックスなものは何もない。例えば、私が『リヴェット、夜警』を撮影したとき、出演依頼すると彼はバイクで現れ、リヴェットのことを(通常言われるような)インテリのアーティストとしてではなく、美食家であり、ダンサーのような身体を持つセクシーな男として語ってくれた。1984年にナタリー・バイに依頼されて、(彼女の当時の夫で、フランスのスーパースターの)ジョニー・アリディのコンサートのステージ・マネージャーを務めた時、ジャン=フランソワはほとんど毎晩のように来ていて、夢中になっていた。彼は本物のジョニーのグルーピーだった。彼はフランス映画界では非常に異端な俳優であり、そのころを自覚していた。彼は、マーロン・ブランドやロバート・デュヴァルを思い出させる、つまり、揺るぎない独立性を醸し出しながら、同時に抗い難い魅惑を放つ、完全なる男だった。
クレール・ドゥニによる追悼(『リベラシオン』、2021年7月28日)

passemontagne03.jpeg ジャン=フランソワ・ステヴナンという人物に対して、僕は愛情と、多大なる尊敬を抱いています。彼の監督作品を25歳の時に発見し、大きな影響を受けました。たとえば彼の映画の持つ驚くほどの自由、寛容さ、場所、空間の中に映画を刻み込む様に。幸運にもムードンにある彼の家を訪れ、会う機会を二度ほど持つことができました。彼に演じてほしいと思って書いた役があったのですが、残念ながらその映画は資金が集まらず撮ることができませんでした。ジャン=フランソワは驚くべき人で、みんなでテーブルを囲んでいる時、自分の妻にある話を語り始めたかと思ったら、僕たちの前で次々にその話の登場人物たちを演じ始め、カメラの動きも身体で示し、ひとりの俳優を超えて、彼一人で映画そのものとなってしまう、つまり大道具係、助監督、俳優、脚本家、演出家、現場にいるすべての人になってしまうのです。彼の家、彼の宇宙、彼の大家族の中に迎えられて過ごしたその数時間を僕は生涯忘れることがないでしょう。ジャン=フランソワ・ステヴナンは、目の前にいる人々にとてつもないエネルギーと、希望を与えてくれる人で、彼にとって人生と映画は分かち難く混ざり合っています。ジャン=フランソワは僕の映画、『女っ気なし』と『やさしい人』をとても気に入ってくれていて、そのことをとても誇らしく思っています。
ギヨーム・ブラック

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    坂本安美

    6/16(水)

    「一本の映画を作ることは人間同志による冒険である」

     オリヴィエ・ペールがブリュノ・デュモン監督、そして彼の映画製作を長年支えてきたプロデューサーのジャン・ブレアとランチ・ミーティングを行うというので、監督にも久々にお会いしたく、参加させてもらう。デュモン監督はこれまでに2回ほど特集を開催し、日本にお迎えしていて、最後は2015年、その当時の最新作『プティ・カンカン』(*1)を含めたほぼ全長編作、そして彼がもっとも敬愛する映画作家のひとりジャン・エプシュテインの特集を「カイエ・デュ・シネマ週間」の枠で開催させてもらった。大阪、京都、東京と、各会場でティーチインを行い、撮影、俳優とのやり取りについての具体的なエピソードのほか、各作品のテーマついて深遠かつ明晰な言葉で丁寧に語ってくれた。アーティストというのは、えてして他のアーティストの作品について語る時の方が、自分の創作の核心に触れるもので、デュモン監督も、エプシュテインについて語っていた時の方がまっすぐにその映画への情熱を吐露されていたように感じた。一見、物静かで、厳格そうに見えながら、その場、そこにいる人たちの中に自分のペースで入っていき、自然と馴染んでいくその姿を見ながら、監督の作品に登場する物静かな人々や風景が、突如ざわざわとノイズを発し始め、殺風景に見えていた場所がとてつもない表情、出来事性を纏い始める世界への眼差しの在処をひそかに探していた。観光にはほとんど興味がなかったが、京都で唯一訪れたいと言われたのが満願寺の溝口健二の碑だった。ひっそりと建っているその石碑の前にしばらくの間佇み、言葉を発することなく、その場を立ち去っていく監督の一瞬の目配せを受け、はっとして、そそくさと後を追った。
     バスティーユ広場に面したカフェのテラスはランチ時で多くの人たちで賑わっており、日常が徐々に戻りつつあるのを感じる。デュモン監督は6年前の巡業を覚えていてくれて、いい旅だったよ、とひと言、笑顔を浮かべて述べてくれた。レア・セドゥ主演の最新作『フランス』がカンヌ映画祭コンペでお披露目ということで、ポスターのデザインなど広報について確認しながら、主演であるレアとの仕事がいかに充実したものだったか、作品への満足感、幸福に満ちた言葉を耳にし、同作品への期待が高まる。

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    ブリュノ・デュモン

     その『フランス』も共同製作しているオリヴィエ・ペール率いるアルテ・フランス・シネマは、年に20数本の長編フィクション作品、ドキュメンタリー作品1本、アニメーション作品1本、合計22本の製作を支援している。まずはディレクターであるオリヴィエと彼のスタッフによって応募された脚本が読まれ、そこで最初のセレクションが行われ、その後、アルテのスタッフと、外部から選ばれた人々と半々で構成される10名ほどの選考委員会によって話し合われ、支援する作品が決定する。ちなみに現在の外部からの選考委員は、元カンヌ国際映画祭前会長のジル・ジャコブから、若手映画監督のジュスティーヌ・トリエ(『ソルフェリーノの戦い』、『ヴィクトリア』)やニコラ・パリゼール(『アリスと市長』)、その他、配給会社、セールス会社の人々で構成されている。各々の脚本、キャスティングから見えてくるその企画の意図、その(技術的、商業的な)実現性、あるいは現代映画における革新性、新人でなければこれまでのその監督のフィルモグラフィー内での位置づけ、その他いろいろな観点から自由に意見を交し合い、時間をかけ、丁寧に検討していく。この日のランチでもデュモン監督の次回作についても触れられていた(どうやらSF映画であり、『プティカンカン』以来、作風、ジャンルを果敢に挑戦してきたこの監督の新境地がまた見られそうだ)。監督、プロデューサー、映画史家、映画祭プログラマー、批評家、配給関係者、それぞれ立場の異なる映画関係者たちが、批評的視座を持ち、今作られるべき、生まれるべき映画作品はどんな作品なのか議論し合う(万が一、自分の所属している団体、グループに寄りすぎた発言、意見が目立つ場合は退いてもらうとのこと)。そこからフランスだけではなく、世界中の映画作家たちに創造の可能性が開かれ、支援が決定された後も、製作中の監督やプロデュサーたちとのやり取り、劇場公開時、その後のテレビでの放送、ソフト発売まで、作品を支えていく。こうしてひとりの作家の創造の可能性を開き、時にアドバイスをしながら、作品が観客に届くまで寄り添い、参加していく仕事に喜びと誇りを感じているというオリヴィエ・ペールは、かつてロカルノ国際映画祭のディレクターを務めていた際に、同映画祭で特集を組み、大好きな監督のひとりであるというヴィンセント・ミネリの『バンド・ワゴン』(1953)を挙げながら、映画作りについてあるインタビューで次のように述べていた。

    この映画で好きなのは、インディペンデントで、それぞれ異なる資質、キャラクターを持った人々が集まって、資金を集めて、ショーを行おうとしている姿が描かれているところで、映画を作ることも同じで、成功するかどうか分からないながらも、人々が一緒になって働き、資金を集めていく。 今日、良い映画を作るためには、そのことを忘れてはいけない。つまりもっとも重要なのは、自分が好きで、一緒に仕事をしたいと思う人たちと共に集まること、それは家族のようなものであり、多くのお金を得られなくても、芸術的な自由を持ち続けることだ。 映画作りは人間同志による冒険であり、それは非常に人間的な体験だ。とても長く、厳しいプロセスを要するからこそ、好きな人たちと一緒に作ることが大切だ。 勇気を持って映画を作っている若い人たちを心から尊敬している。20年前、40年前よりもずっと難しくなった映画作りを、今日でも行おうとしている人々を私は本当に尊敬していて、サポートし、成功する機会を与えたいと思っている。(オリヴィエ・ペール)

    (*1)『プティ・カンカン』は現在、映画配信サービスJAIHOにて配信中


    「途方もない何かを信じること」

     バスティーユからパリ18区のクリシー広場、その近くの路地にあるアートセンター 、ル・バル(LE BAL)で開催中の「ワン・ビン展」へ向かう。賑やかな広場を抜け、坂になっているアンパス(袋小路、行き止まりになっている通り)を上がるとすぐに緑に囲まれ、ゆったりと落ち着いた佇まいのル・バルのカフェのテラスが見えてきて、一気に、異次元へと誘われていく。ル・バルは写真、ビデオ、映画、ニューメディアに焦点を当てたアートセンターで、展覧会、講演会や討論会が開催されるほか、本の出版・販売も行っていて、パリに来ると一度は訪れたい場所のひとつだ。場所の歴史も興味深く、もともとは第一次大戦後、世界大恐慌が勃発するまでの1920年代、いわゆる「Les Années Folles 狂乱の時代」に賑わったキャバレー、ダンスホールであり、第二次世界大戦後、1992年まではフランス最大の場外馬券発売公社だったとか。その後しばらく放置されていたところ、2006年にレイモン・ドゥパルドンほかマグナム愛好家協会により、ル・バルを立ち上げる企画が生まれる。ダンスホール時代の天井や柱をいかして改築されたのち、2010年9月にオープン。ディレクターにはマグラムフォトのヨーロッパディレクターを務めていたディアンヌ・デュフールが就任し、「ワン・ビン展」はドミニク・パイーニと彼女がキューレーションを担当している。展示スペースは約350㎡あり、1階、地下と2つのフロアに分かれている。ブックショップを通り、1階の展示スペースへと入っていくと、待ち合わせをしていたパイーニ氏の姿が見え、すでに展覧会についてゲストたちに解説を始めていた。これまでもシネマテーク・フランセーズでドミニクが手がけた展覧会、アンリ・ラングロワ展、ミケランジェロ・アントニオーニ展など、彼の解説、ガイド付きで鑑賞する幸運に何度か恵まれてきたのだが、一つひとつの展示を説明するというよりも、まずは全体の構成、セノグラフィー(空間演出)をダイナミックに説明してくれ、その中を進んでいくための道標を示してくれる。ワン・ビンを『鉄西区』(2003)のフランス公開以来、擁護し、対話を続けてきたドミニクは、このアーティストの展覧会を現在開催する意義について次のように語ってくれた。

    既成概念や先入観がまったくないという感覚を与えてくれるドキュメンタリー作家は、私にとってワン・ビン以外にはいない。ワン・ビンは『リュミエール主義者』であり、『ロッセリーニ主義者』である。つまり彼は現実に何かを押しつけることなく、そこから感情が生まれるかもしれない、あるいはそこから何かを知り得るかもしれないという可能性だけを信じている。彼の映画は、私たちの代わりに考えようとなどしない。しかも、ドキュメンタリー作家でありながら、美しさを恐れず、それに対して罪悪感も持っていない。ブレヒトが言ったように、美学的に正しいからこそ、政治的にも正しいことができるのだ。その意味で、彼の映画は、中国はもちろんのこと、それを越えて、世界について私たちに語りかけてくる。シャンタル・アケルマンや、ガス・ヴァン・サントを彷彿とさせるような芸術的なジェスチャーでね。

     ドミニクによると、同展はこの映画作家にとっていずれも本質的な3つのモチーフ、3つの時で構成されている。「破壊」(『鉄西区』)、「収容、幽閉」(『収容病棟』、『苦い銭』、『父と息子たち』)、そして「尾行、追跡」(『名前のない男』)、これらのモチーフをもとに、ワン・ビン自身と共に選ばれた作品の抜粋がループ上映されたインスタレーションへ、それでは進んでいこう。

     まずは1階の会場、「破壊」の時へ。日本占領軍が建設した鉄西区にある中国最大の鉄鋼コンビナートの解体を、2年間にわたりDVカメラで撮影した9時間の作品、世界が衝撃と共にこの映画作家を発見することになった叙事詩的なドキュメンタリー『鉄西区』。ひとつのスクリーンにはコンビナートが雪に埋まっていくその風景を押し分けるように進んでいく列車がトラベリングで捉えられ、もうひとつのスクリーンには工場の大浴場に蠢く労働者たちの肉体が煙の中から浮かび上がってくる。仮借なく覆われ、凍結されていく歴史と、すべてを剥ぎ取られ、肉体のみで寄り添い、抵抗し続ける労働者たち、白と赤、2つのスクリーンが並置されている。

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    「破壊」(『鉄西区』)

     そこから少し離れた下の方にもうひとつ、小さめのスクリーンが設置されており、雪の中をひとりの少年が歩いて行く姿が映し出されている。その少年がカメラの方を振り向き、しばらくこちらを見つめ、そして踵を返して、雪の中へと去っていく。「一瞬、私たちの方を振り向きながらも、何もない場所、未来へと進んでいくしかない少年、彼の孤独を見せたかった。それは、この展覧会で出会うことになる幾人もの人々の絶対的な孤独を予告している」。ドミニクは強い口調でそう語った。

     地下に降り、まず『収容病棟』(2013年)の抜粋が映し出される幾つもの小さなスクリーンが壁に散りばめられた空間に入っていくと、病院に収容された人々がまさに正気を失うほど歩き回っていて、その廊下の閉塞感に私たちも包み込まれていく。しかし、インスタレーションのスクリーンに映し出されるそれぞれの生の時間を体験していくことで、ワン・ビンが本作でこの精神病院の抽象的かつ抑圧的な構造を示すと同時に、そこに幽閉されている人々が示す逃走線をあらゆる方向に辿っていくのを感じることができる。

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    「収容、幽閉」(『収容病棟』)

     こうしてカメラを向ける人たちそれぞれが示す逃走線を辿りながら、ワン・ビンは形式を固定することなく、出会う人々に導かれながら,彼らの生のリズムと一体になって撮り続けていく。たとえば繊維工場で働く出稼ぎ若い労働者たちを描いた『苦い銭』(2016年)は、登場する人々が次々移動していき、映画はつねに枝分かれしながら、絶対的に自由な構成を持つに至る。

    "流れゆくこと"は、今日の普通の中国人の重要なテーマだ。私は、彼らの物語を語るために、カメラのショットや捉える人物をずらしながら、ある被写体から別の被写体へ、焦点を揺らすようにひとつに絞らずに撮影した。(ワン・ビン)

     地下の会場の中央には、同展覧会でもっとも大きなスクリーンに、ギャラリーからの依頼で製作され、滅多に上映されることがない1時間37分の『父と息子たち』(2014年)が、同展唯一、全編通してループ上映されている。ワン・ビンは2010年に雲南省の山間部で『三姉妹〜雲南の子』(2012年)の撮影をしていた際に10代の兄弟に出会う。彼らは、仕事を求めて都会に出て行った石材加工の職人である父親の帰りを待ちながらふたりで生活をしていた。それから数年後、ワン・ビンは、四川省で父親と暮らしていた彼らと再会し、約1カ月間、彼らの日常生活を撮影する。父親の出勤、息子たちの起床、昼食、テレビを点けたり消したりする様子、不衛生な一室で過ごしている彼らの日常のささやかな出来事が固定カメラで記録される。非常に親密で、個人的な小さな空間はしかし、普遍性さえ越えて、私たちのもとへと広がってくる。「生の体験 experience of life」だとワン・ビンは述べる。                                     

    彼らの生活状況こそカメラに映したかった。現代中国の問題、つまり経済成長に隠れて何百万人もの人々に影響を与えている物質的、精神的貧困を抱えるこのシステムの偽善を明らかにしなければならないと思った。(...)この映画が示しているのは、生の経験だ。彼らの人生は大切だ。彼らの苦しみを黙認すべきではない。彼らの脆弱さを見てほしい。そしてもちろん、彼らの人間としての誇りや強さも。

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    『父と息子たち』、背後には『名前のない男』のインスタレーション

     この旅は、ワン・ビンの歩んできたその軌跡の中でももっとも先鋭的な作品、『名前のない男』(2008年)で締めくくられる。日々、ショットにショットを重ねて、取り憑かれたような執念でワン・ビンが追い続けた言葉を発することもなく、人間の形をしている以外は謎につつまれた、「最後の人」が、洞窟と風に吹かれた平原の間のどこでもない場所をせわしなく動き回っている。

    『名前のない男』は、たった一人で、完全に自給自足で暮らしている。現代の物質主義的な中国において、彼の言葉なき静かな存在は、雄弁なる抵抗の行為であり、純粋な状態における存在であるだろう。(ワン・ビン)

     物質的にも歴史的にも急速に変容しつつある巨大な国のあらゆる場所に、まるで測量士のように足を運び、そこで出会った人々、そこに辿り着いた彼らの存在を、彼らの身体が生きるその時間を確認する。この展覧会のタイトルとなっている「歩く眼」は、ワン・ビンのそうした映画作家としての特異なアプローチ、その存在=不在を示しているだろう。そしてその映画作家への深い敬愛と理解を持つふたりのキュレーターによって巧みに構成された同展への旅とは、ワン・ビンの映画作りと同様に、意味やメッセージを見出していくよりも、その中に身を置くこと、その時間、それを身体で感じることがまず求められる。そしてそのことによって、私たちから絶えず奪われている歴史に対する突然の、そして瞬間的な認識を得ることができるだろう。

    ワン・ビンの作品たちはかつてない、前代未聞の何かを宿していて、それらが記録する(ドキュメント)ものを絶えず越えていく。その途方もない何かを信じるために、まずはワン・ビンの作品たちを見なければならない。一歩下がったり、高いところから見たりするのではなく、その場に留まり、それぞれの状況や、それぞれの身体の持つ政治的な深遠さからゆっくりと表面へ現れてくるものに寄り添いながら。(リュック・シャセル「リベラシオン」)

    「ワン・ビン----歩く眼」展
    ※同展には1000枚のフォトグラムとドミニク・パイーニ、アラン・ベルガラらの論考が収められたカタログが制作されている

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    ル・バルのカフェで『ワン・ビン 歩く眼』展カタログに献辞を書いてくれているドミニク・パイーニ

     ル・バルを出て、ドミニクと共に地下鉄に向かう。6月ながら、パリは真夏の暑さだ。シネマテーク・フランセーズで同展に併せてワン・ビン特集が開催されており、ドミニクは上映前に毎回作品紹介をして、その後、別のホールで開催されている清水宏の作品を毎日、喜びとともに発見しているとのこと。私は、一度宿に戻り、夕方、ナダヴ・ラピドの最新作『HA'BERECH/Ahed's Knee(アヘドの膝)』の試写へと向かう予定だ。

    「何の説明もなく、直接、ある雲が私たちを引きつけ、別の雲が私たちを引きつける」
    ガストン・バシュラール

     2021年6月、パリへ。パリ?今?そう今。さまざまな不安、躊躇もありながら、仕事の都合もあり7月のカンヌ国際映画祭開催時には渡仏できそうになく、この時期に会いたい友人、家族たちのいるパリへ向かうことに。そう、会いたい、見たい、そこにいたい、切実な思いに導かれて...。パリの様子、そしていち早く観ることができたカンヌ出品作品、シネマテーク・フランセーズでの清水宏特集、友人たちとの再会、あるいはパリの街が想起させてくれた人々の言葉、映画、本、あるいは7月6日(火)に開幕したカンヌ国際映画祭についてのフランスのメディアの批評、インタビューを、いくつかに分けてお伝えする。

    6/11(金)
     夕方16時頃パリに到着、お世話になる友人宅に向かうためタクシーに乗る。パリは夏に向けてどんどん暗くなる時間が遅くなっていき、6月でも9時近くまで明るく、この時間もまだ昼間のような明るさだ。空を見上げると、ぽかんぽかんと雲が浮いている。フランスの空の青さは、日本よりも濃く、雲が低く、近くに見え、もちろん季節によって異なりながらも、綿飴のようなちぎれ雲が、不規則に、ワイルドに浮かんで見える。到着して空を見上げ、ああ、フランスに着いたんだな、と確認するようになったのは、私が師と仰ぎ、今回会いたい友人のひとりでもあるドミニク・パイーニの影響もあるだろう。彼は自分のアパルトマンのテラスから毎日空を、雲を眺め、写真に撮るのがほとんど日課となっているとのこと。『雲の誘惑』と題した、映画の中の雲について著した本まで出している。そうそう、2019年来日時にはまさにその「映画の中の雲」について、ドライヤーの『奇跡』、ストローブ・ユイレの『雲から抵抗へ』、その他、『砂漠のシモン』(ブニュエル)、『獣人』(ルノワール)、『ブリスフリー・ユアーズ』(ウィーラセタクン)、『アパッチ砦』(フォード)などを引用しながら素晴らしい講演をしてもらったっけ。そしてこの本に影響を受けたことがひとつのきっかけとなって生まれたのがオリヴィエ・アサイヤスの『アクトレス〜女たちの舞台〜』であるのだが、それについてはまた別の機会に。

    「私が雲に惹かれるのは、その形成過程や物理的な現実、変化する姿、消えていく謎やその気まぐれな形状に魅惑される理由と同様に説明することができないのだが、子供の頃から雲が私の好奇心を刺激してきたのは事実である。雲たちは私の(まれな)怠惰や気晴らしを視覚的に占領し、「おおいなる晴れの日」に対する私の特別なる嗜好を乱し、ルネッサンス絵画の中心的な主題や、古典映画の中心的な、つまり主要登場人物の勇敢なる行為に対する私の注意をしばしば奪ってきた。」(ドミニク・パイーニ、『雲の誘惑』より)

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    『獣人』ジャン・ルノワール©DR

     フランスは、今年3月12日より日本からビザなしで入国可能となり、PCR検査陰性証明書の提出は義務づけられているが、出発数日前の6月9日から、これまで入国時に必要だった7日間の自主隔離義務が解除となる(ほっ...)。今年の1月にやはりパリを訪れた際は、まだ感染者数もかなり多く、夜間も8時以降は外出禁止、カフェもレストランも映画館、美術館も閉まっており、日が射すことがあまりない真冬だったこともあるが、人通りが少なく、街はまるで冬眠しているかのようだった。友人宅を訪れても、マスクをつけたままか、ディスタンスを取っての歓談、宿に20時前に到着するようにお別れしなければならず、いつものようにワイワイお喋りを楽しみながら、長い時間をかけてディナーを共にすることなどは難しく、再会を喜びながらもどこか切なく感じていたことを思い出す。しかし現在は、成人の50%以上が1回目のワクチンを打ち、感染者数もピーク時と比べて10分の1、それ以下へと日々減ってきており、5月19日には、ようやく6ヶ月半ぶりに映画館再開(当初は35%から)、レストラン、カフェなども店外のテラス席から再開となり、現在は店内も収容人数が3分の1、50%と徐々に制限が穏和されてきている。
     リュクサンブール公園近くにある、客間を提供してくれる女優である友人宅に到着。近くのカフェのテラスにはアペリティフを片手に歓談を楽しんでいる人たちが集っている。私も荷物を置いて、すぐに交わる。先日、ラジオで、映画監督のギヨーム・ブラックがカフェのテラスが久々に再開して思ったのは、見知らぬ人々の中に混じり、周囲の人々に何気なく視線を向け、彼らの人生を想像したり、会話の断片を何気なく耳にすることがいかに自分の映画作りに大切な時間であるか語っていたことを思い出す。ちょうど一ヶ月前、彼の長編最新作『A l'abordage(乗り込め)』が、ベルリン映画祭でのお披露目を経てアルテにて放映、『カイエ・デュ・シネマ』のシネクラブでも特別上映され、話題になっていた。昨年、第一回目緊急事態宣言発令で蟄居中、ちょうど初夏だったか、監督の厚意でこの作品を息子とともに見ることができ、閉じられていた空間、心が一気に開かれ、オープンエアの中へと漂い、不意にもたらされる出会い、偶然が生み出す悦び、思いっきり吸い込める大気、自然の中での抱擁、そして空っぽになったヴァカンスの酩酊感、そうした忘れていた感覚を思い出させてもらい、どんなにふたりで感謝したことか。ギヨームとは2019年の夏にまさに「ヴァカンス特集」を一緒に企画させてもらったのだが、その特集に寄せてもらった彼の言葉を以下に引用したい。

    「夏は、異なる方法で映画を撮るように導いてくれる。(...)思いがけない出来事に対してもより柔軟でいられる。例えば変化していく光や、突然響き渡る嵐にも。天気や光、人の群れ、夏は、現実がもたらすものにより臨機応変に対応することを可能にしてくれる。ささやかながら、深く心に残る、その後の人生に余波を残すような出来事を語る映画が好きだ。夏はそうした微妙な感情を描写するに打ってつけであり、今この時の歓喜、生き生きとした様子、あるいは、すでにそこにないもの、すでに失われたものへのメランコリー、憂愁の中へと観客を深く導いてくれる。」

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    『A l'abordage(乗り込め)』ギヨーム・ブラック©DR

     最新作となる『A l'abordage(乗り込め)』は、これまでの作品以上に、ジャン・ルノワールの映画に近づいているように感じた。作品の中に登場する複数の人々それぞれが予知できない人生に果てしなく開かれていることの悦び、そして時にその残酷さの間でおおらかに生きているのだ。そのギヨームは現在、短編作品を製作中とのことで、今回は残念ながらおそらく会うことができないだろう。『A l'abordage(乗り込め)』の日本配給はすでに決まっていると耳にする。この偉大なブラック作品の公開、そして監督の再来日を待ち望みながら、また何か面白い企画を共に行えることを願って準備したい。
     冷たい白ワインを喉に流し込み、ゆっくりとゆっくりと色、形を変えていく空や雲を眺めながら、半年前には見ることができなかった人々の表情を眺め、これから出会うこと、人たちへ思いを馳せながら、長旅に疲れた身体の緊張がだんだんほぐれてくるのを感じていた。

    6/12(土)
     午後、アルテ・フランス・シネマのディレクター、オリヴィエ・ペールと会う。オリヴィエ・ペールは彼がロカルノ映画祭のディレクターを務めていた頃からの友人だが、昨年開催した「第2回映画批評月間」でセレクションをお願いし、アルテが支援する作品たちを一挙に紹介し、いかに映画の現在において重要な役割を果たしている人であることをあらためて確認した。今年のカンヌ映画祭でも、全部門を含めた31本、コンペ部門だけでも12本の作品を支援しているとのこと。そのオリヴィエに付き添い、ベルトラン・タヴェルニエの葬儀ミサに参列する。今年3月25日に亡くなられるも、コロナ禍のため、2ヶ月半にしてようやくミサが行われることに。教会にはご家族、関係者、友人とかなりの人数が集まっていた。師弟関係でもあり、タヴェルニエが理事長を務めてきたリュミエール協会のディレクターでもあるカンヌ映画祭総代表ティエリー・フレモーも当然ながら参列していた。タヴェルニエ監督作品については、正直、その半分ぐらいしか見ておらず、「カイエ・デュ・シネマ」派に近いことから、彼らのタヴェルニエ映画へのあまり肯定的ではない意見に影響を受け、発見することを怠ってきてしまったことを告白しよう。しかしタヴェルニエの映画の知識、とくにアメリカ映画についての知識は、本国の専門家を上回ると言っていいほど豊かなものであり、アメリカの著名な批評家であるケント・ジョーンズも「ベルトランのおかげで、デルマー・デイヴィスやヘンリー・ハサウェイ、その他多くの映画作家たちの作品と本格的に出会うことができたと感謝している」と、訃報を受けて述べていた。私自身は、1996年だったか、東京日仏学院にお迎えした際の、映画について語るその迸るような情熱、優しい人柄が記憶に強く、そして2018年に劇場公開されたドキュメンタリー『フランス映画による旅』からは多くのことを学ばせてもらい、本作はこれからも大切に見続けたい作品となるだろう。ギトリ、グレミヨン、ベッケル、ドコワン、ブレッソン、メルヴィル、そしてクロード・ソーテについて独自の観点、言葉で彼らの作品の魅力、その人間性を丁寧に紹介している。新しい才能、監督を発掘し続けるオリヴィエ・ペールは、映画批評家として、映画史の埋もれた作品、あるいは過去の作品を何度も見直し、再評価することをつねに実践している人でもあり、だからこそタヴェルニエへの尊敬は深く、今日のミサに来ることも彼にとって大切なことであり、声をかけてもらって、お別れができたことを感謝する。
     シネマテーク・フランセーズでは劇場再開後すぐに、今年3月に「世界のあらゆる記憶」映画祭の枠内で開催予定であった「タヴェルニエによるアメリカ映画」を5月19日から6月7日まで開催していた。同特集はタヴェルニエに白紙委任状を託し厳選された12本のアメリカ映画を特集し、本当であれば、本人が会場で一作ずつ紹介する予定だったそうだ。「網羅することはできませんし、したくもありませんが、自分がよく知っている作品や、とくに好きな作品を選んでいます。数本のフィルムで作品を照らすこと、一人称で語ることを試みたいと思います」。これはタヴェルニエが『フランス映画による旅』の冒頭で述べていた言葉だが、その「一人称で語ること」の重要性、まずは自分の好みを拠り所にすることから大きな歴史が見えてくるということを示してくれた人だと思う。『Afraid to talk』(エドワード・L・カーン、1932年)、『Wait till the Sun Shines, Nellie』(ヘンリー・キング、1952年)、『フレンチスタイルで』(ロバート・パリッシュ、1962年)、『ジョンソン大統領/ヴェトナム戦争の真実』(ジョン・フランケンハイマー、2002年)、『今宵、フィッツジェラルド劇場で』(ロバート・アルトマン、2007年)など、かなりレアな作品、セレクションで、タヴェルニエだからこそ見せてくれるアメリカ映画史、いつか日本でもこの12 本の中の数本でも特集し、追悼できることを願いながら、まずは予告編を、「味わって、楽しんで下さい!」(特集紹介文の最後のタヴェルニエ本人の言葉より)。

     夕方は、そのシネマテーク・フランセーズに移動し、開催中の清水宏特集、『霧の音』(1956年)を観る。シネマテークの2つの上映ホールの内、アンリ・ラングロワ・ホール、まだ座席数制限が多少あるようだが、かなり埋まっており、知られざる日本の巨匠の作品の発見を待ち望んでいる雰囲気を感じる。「知られざる」? 1988年に同シネマテークで、2001年にはパリの日本文化会館で特集が開催され、2018年に開催された「フランスにおける日本年、ジャポニスム」でも『有りがたうさん』(1937年)と『蜂の巣の子供たち』(1948年)が上映されているのだが、清水宏はまだ映画大国フランスにおいてもいまだ日本映画の重要な作家として十分には認識されておらず、その意味でも、今回の特集の意味は大きいだろう。さて『霧の音』は、上原謙、木暮実千代が相思相愛ながら運命に翻弄され、擦れ違っていく男女を演じるメロドラマであり、上原謙演じる植物博士が娘とその婚約者と日本アルプスを望む信州高原を訪れるところから映画は始まる。「秘めた思い出は、昭和22年の仲秋の名月まで遡る」とテロップが出る。信州高原、そこにぽつんと建っている山小屋、白樺林、そしてその場所に仲秋の名月になると、月を見に戻ってくる男と女。そのふたりの他に、宿を切り盛りする夫婦役の坂本武と浦辺粂子や芸者役の浪花千栄子(それぞれが素晴らしい!)、その他数人のみの限られた登場人物、限られた空間(北条秀司による戯曲を、依田義賢が脚色)ながら、いやそれだからこそ、清水宏の演出が光っている。清水にとって家の中というのは区分けされ、決められた役割を演じる場でありながら、その規則、大人たち、社会の決めことをどう壊して、遊びに、愛に変えていけるか、人物たちは突然、斜めに、横に移動し始める。あるいは、外へ、開けた地平へと駆け出し、自分たちの意思、物語とは関係なく存在している自然の中に身を投げ出し、孤独になりながらもより大きな世界へと近づいていく。

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    『霧の音』清水宏©DR

    6/13(日)
     ふたたびシネマテーク・フランセーズの清水宏特集にて『次郎物語』(1955年)。内へ、外へと往来し、ひたすら歩き続けながら、何人もの母なる存在との出会い、別れ、そしてまた出会う。感情は形を変えずに漂い、切なさ、後悔が残るとも、やがて風に流されていく。ふと、ギヨーム・ブラックの作品との共通点、先述した彼と共に企画した「ヴァカンス特集」で私から『簪』(1941年)を選ばせてもらい上映したことを思い出す。ギヨームにもぜひ、清水宏の作品をいつか発見してほしい。

    6/14(月)
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    『Annette』レオス・カラックス©CG Cinéma International

     オリヴィエ・ペールの厚意で、パリ滞在中、アルテの共同製作作品を映画祭前の試写で何本か見せてもらえることに。その一本目はまさに本映画祭のオープニングを飾ることになるレオス・カラックス9年ぶりの新作『Annette』であると知らされ、早朝の試写に喜び勇んで向かう。「グラン・アクション」という古典作品から新作まで上映していてパリに来ると必ずといっていいほど足を運ぶ名画座での試写。深々とした座席にゆったりと腰を下ろす。前作『ホーリー・モーターズ』(2012年)は、映画館という夢の機械の中にパジャマ姿のカラックスが入っていくところから始まった。まさにモーターが動き出すために、あの小柄な身体で、裸足で。そこで作動し始める夢、『ホーリー・モーターズ』は、映画の驚くほどの創造性、遊び心に満ち、過去の作品、作家たちを参照しながらも、映画の現在、未来、そのあらゆる可能性を試みるべく、さまざまなジャンルを横断していく。カラックス、あるいはその分身、ドゥニ・ラヴァン演じるオスカー氏は、仕草の美しさを求めて、アクションの原動力を求めて、そして彼の人生に登場した女性や亡霊たちを求めて、エディット・スコブが運転するリムジンに乗り込み、一つの人生からもう一つの人生へと旅を続ける。「もう一度生きる!」、映画はジェラール・マンセットによる崇高な曲で締めくくられていた。
     その叫び、「もう一度生きる!」に答えるように、『Annette』は、娘と手を携え、ミキシングデスクの前に腰を下ろしたカラックス自身による次の台詞でスタートする。「So shall we start? じゃあ、始めましょうか?」。そして本作のベースとなるアイディアと音楽を提供している音楽界の不死鳥、世界的にカルト的人気を集めるアート・ポップ・デュオ、スパークスがその合図を受け、音楽スタジオの中で歌い出す。そこからピアノが響き、合唱団が歌い始め、そして夜のロサンゼルスの街へと誰もかもが繰り出し、主演のふたりも普段着姿でそこに加わり、手を取り合い、喜びと祝祭感溢れるパレードが繰り広げられる。「じゃあ、始めましょうか?」、こうしてそれぞれの登場人物たちは普段着から衣裳へと、ヒーロー、ヒロイン、それぞれの運命へと身を置く儀式を行う。彼女、マリオン・コティヤールは、リムジンの後部座席で舞台恐怖症を反芻するスターオペラ歌手アン・デフラヌーに、彼、アダム・ドライバーは、愛を見つけた自滅的なスタンドアップ・コメディアンのヘンリー・マクヘンリーに、それぞれ変身するのだ。コティアールの歌声はなんと裸形であり、美しく、悲しく響き、その仕草はまるでリリアン・ギッシュを思い起こさせ、初期の映画の女優たちの美しさを湛えている。そしてメルド氏と同じ緑色のローブを羽織ったドライバーの野生的で官能的な身体と動きの危うさ、そのエネルギーは、観客たちと共犯関係を結びながら炸裂していく。そして悲劇は遅からず訪れ始める。『Annette』は、祝祭的と思われたプロローグから徐々に、夢の裏側にある廃墟、人間たちの暗い衝動、表象の毒性、夜の闇へと下降していく。まるでムルナウの映画の中の男たちのように、ドライバー演じるヘンリーは愛する女の姿を見失い始めたのか、ふたりの間にアネットが産まれてから、何かが彼の中で壊れてしまい、恐ろしい怪物へと変貌していく。
     しかし『Annette』はこうして要約されることを拒み、その形、方向、物語を作品の中で自ら生み出し続け、ジャンルさえも変化させていく。そしてドライバー自身も最後の最後まで、その渦の中を彷徨い、姿を変え続ける。しかしもっとも重要なのは、タイトルが示しているように、本作が「アネット」へと辿り着くための映画であること、「アネット」(へ)の道程であろう。先述したように、今回はひとりではなく、娘と共に、彼女と手を携え、全編ミュージカル・コメディである本作をスタートさせたカラックス。この60歳の「恐るべき子供」は、『ホーリー・モーターズ』の独創性をさらに越え、(彼自身が述べるように)まだ若い、そして不純な芸術である映画の可能性とその限界、フィクション、スペクタクルを生み出すための冒険とその代償、人間の、世界の美しさと醜さ、愛と死、それらすべてを包含するこの140分の夜の果てまでの旅で、私たちに喜び、当惑、恐れ、感動、そしてやはり大いなる喜びを与えてくれる。「So shall we start?」

    クロード、ミシェル、そしてロミー

    坂本安美
    5593442-michel-piccoli-romy-schneider-et-claude-950x0-2.jpg「ミシェル・ピコリ追悼特集」を開催するにあたり、上映したいと思いながら、様々な理由で叶わず涙を呑んだ作品が数多くあった。それでも今回、どうしてもこれは上映すべきと、困難を乗り越えて準備したのがクロード・ソーテ監督、ミシェル・ピコリ主演作品『マックスとリリー』である(本作は日本未公開作品であり、『はめる 狙われた獲物』というタイトルでビデオ発売のみされている)。
    再びピコリ特集を、と心に誓いながらも、ひとまず今回の追悼特集を閉幕するにあたり、ピコリが映画俳優として絶対的な評価、認知を得ることになり、その後の彼の生き方、演技にも多大な影響を与えたクロード・ソーテとの大切なコラボレーションについて、そして彼らにとって欠かすことができない存在であったロミー・シュナイダーについて語っておきたい。

    「クロード・ソーテという映画監督は、人生を深く、本当に深く知っていた」ミシェル・ピコリ



    逆説とともにある映画監督、クロード・ソーテ

     クロード・ソーテ(1924-2000)は、35年の監督生涯において13本の作品を遺している。日本、そしておそらく世界的にも、70年代にロミー・シュナイダーを迎えて撮った『すぎ去りし日の...』(1971年)『夕なぎ』(1972年)などによって人気を博し、フランスの中産階級の家族やカップルの日常のドラマを描いた監督として、非常にフランス的な作家として認識されてきたのではないか。しかしソーテ自身の映画的源流はかならずしもフランス映画にはなく、エルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークス、ビリー・ワイルダーといったアメリカの巨匠たちの映画をこよなく愛し、初期にはまさにそうした監督たちの影響を感じられるジャンル映画を撮っていた。こうしたクロード・ソーテの来歴は、フランス本国でさえあまり知られておらず、2000年にソーテが他界し、ようやく最近になってその全貌が紹介されるようになってきたようだ(シネマテーク・フランセーズでは2014年に大規模回顧上映特集、ラウンドテーブル、講演会が開催された)。ミシェル・ピコリとのコラボレーションについて触れる前に、もっともフランス的とされ、もっとも知られた監督であるようで、いまだ未知なる、発見すべき映画監督でもあるクロード・ソーテという映画監督の軌跡をしばし辿ってみたい。

     幼い頃から映画好きな祖母の影響で、映画の世界に憧れを抱いていたソーテは、音楽への情熱も持ち、まずは新聞に音楽批評を寄稿することで生計を立て始めるが、映画への思いが捨てきれず、フランス国立高等映画学校(IDEC)で映画を学び、ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』の現場などで助監督に就く。そして1960年、ジョゼ・ジョヴァンニ原作小説の映画化『墓場なき野郎ども』で本格的に長編監督デビューする。この企画をソーテに提案したのがリノ・ヴァンチュラだった。そしてこの当時フランスでもっともアメリカ的俳優であったヴァンチュラのパートナー役として、アラン・ドロンからジェラール・ブランまで様々な名前が挙げられていたが、ソーテ自身が最終的に選んだのが新人俳優のジャン=ポール・ベルモンドだった。ちょうど本作に出演する直前、ベルモンドはジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』に出演し、注目され始めていたが、ソーテは体型もその演技スタイルもまったく異なるこのふたりの俳優の差異を巧みに利用し、それぞれの良さを存分に引き出した演出をしている。こうして同じ俳優を用い、ちょうど同時期に映画を撮り始めながらも、ソーテは、ゴダールら「ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちの中に位置付けられることはなかった。たしかにソーテの作品は、彼ら「ヌーヴェルヴァーグ」が批判していた戦後のフランス映画の伝統に連なるしっかりと構成された脚本に立脚した製作方法を取っていたが、その一方で撮影する場所や人々をほとんどドキュメンタリー的な手法でとらえ、そうした古典的とよべる脚本主義的な方法とヌーヴェルヴァーグ的、つまり現代的な映画作りがソーテの作品には共存していた。ヌーヴェルヴァーグの映画作家の中でも、唯一交流のあったフランソワ・トリュフォーは、『友情』(1974年)について、まさにフランス映画の伝統とヌーヴェルヴァーグを繋ぐ稀有な映画作家のひとりであるジャック・ベッケルと比較しながら敬意を表している。「この映画は短く要約するならば『人生』、そう、その言葉で要約できるだろう。人生全般、私たちがそうであることについての映画であると。」
    『墓場なき野郎ども』はそのジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』(1954年)が代表する戦後のフランスのフィルムノワールの神話に根を下ろした作品であり、フランスにおいてこのジャンルを極めたとされるジャン=ピエール・メルヴィルも絶賛、メルヴィルがヴァンチュラを迎えて撮った『ギャング』(1966年)を予感させる作品であるとさえ評された。

    『すぎ去りし日の...』、ピコリとソーテの絶対的な出会い

     しかし『墓場なき野郎ども』は興行的にはヒットせず、ようやく4年後に、再びリノ・ヴァンチュラとタッグを組みアメリカのB級映画的犯罪映画『L'Arme à gauche』(1965年)を撮る。しかし再び興行的に失敗し、批評的にも高い評価を得ることはできず、絶望したソーテは、しばらく監督業から退き、脚本家としていろいろな作品に関わるにとどまっていた。ようやく70年代に入り、若く、才能溢れる脚本家ジャン=ルー・ダバディの後押しもあり、そして音楽にフィリップ・サルド、撮影監督にジャン・ボフェティという力強い協力者も得たソーテは、それまでのジャンル映画とは作風を一新し、当時の若手俳優たちを起用し、日常の人々のドラマを題材にし、多くの観客の共感を得て、興行的に成功し始める。批評的には、左翼的な運動が盛んであり、政治的なイデオロギーを掲げた作品も多かった中で、社会に対する明白な批判がないソーテの作品を反動的、保守的と批判する声もあった(「カイエ・デュ・シネマ」誌は長い間、ソーテの作品を評価せずにいたが、後にティエリー・ジュスらによる再評価が始まる)。しかしソーテはそこに描かれている世界を社会学的に切り取ってみせたり、ひとつのテーマに押し込めたりせず、一人ひとりの俳優たちについての深い理解、愛情によって、彼らの顔、姿、所作をドキュメンタリーのように記録し、彼らが演じる登場人物たちそれぞれを非常に独特な存在として浮かび上がらせており、まさにそこにこそソーテの映画の豊かさを見出すことができる。『すぎ去りし日の...』(1971年)、『マックスとリリー』(1971年)、『夕なぎ』(1972年)と70年代のソーテの代表的な作品に欠かすことができない、彼の映画のミューズともいえるロミー・シュナイダー。その美しさ、優雅さとともに、ソーテにおけるシュナイダーは脆弱さと強さを複雑に併せ持ち、けっしてひとつの意味、解釈に還元することができない、ある神秘とし、ひとりの絶対的他者として存在している。その絶対的な謎、他者の前で、愛にもだえ、苦悩し、とまどい、時に激昂さえするソーテにとってこの時期重要であったもうひとりの俳優がミシェル・ピコリである。
     そう、ソーテは、ロミー・シュナイダーというミューズとともに、映画における自分自身の分身をミシェル・ピコリに見出すのだ。そしてすでにゴダールの『軽蔑』(1963年)でゴダールの分身を演じ、映画界で注目され始めたピコリにとっても、ソーテとタッグを組んだ作品、とりわけロミー・シュナイダーが共演し、ソーテの代表作としていまだに挙げられる『すぎ去りし日の...』によって、70年代、絶対的な知名度、俳優としての高い評価を獲得することになる。『すぎ去りし日の...』は、当時の世相を舞台としたロマンチックなメロドラマと評されるきらいもあったが、ソーテの持っている人生への冷徹といえる視線、暗いペシミズムがメロドラマに陥ることを許さずにいる。ソーテは処女作『墓場なき野郎ども』同様、ここでもひとりの男が自己破壊的欲動とともにそれまで属していた場所から逃走していく様を描いている。ピコリ演じる40 代の建築家は若く美しい恋人との現実と、前妻や息子との過去の間で、あるいは物質的には豊かながら空虚にも感じる生活の中で引き裂かれていく。ピコリは、ソーテ映画のテーマとなっていく人生の闇に駆り立てられていく男を完璧に演じている、いやソーテ自身ともいえるそれらの男たちをピコリはこの時期、彼の映画の中で生きていたといえるだろう。

    3_Max.jpeg『マックスとリリー』、底知れぬ人生の深淵へ

    『すぎ去りし日の...』の大成功によって、そしてこの作品での融合し合うような濃密な映画作りの後、クロード・ソーテ、ロミー・シュナイダー、ミシェル・ピコリは、さらなる三人の企画に軽々と乗り出すことができず、前作を越えるものを作れるのか恐れていたという。まるで絶対的な愛の瞬間を生きた恋人たちが、再びその逢瀬を繰り返すことなどできないと幸福の中で絶望するように。しかし三人はその不安を乗り越えて、新たな傑作、より豊かで複雑さを孕む作品を作り上げる。それが『マックスとリリー』である。

     予審判事だったマックス(ミシェル・ピコリ)は、証拠不十分で容疑者を釈放せざるを得なかったという悔恨から辞職、刑事に転職し、現行犯での逮捕に執着を抱いている。兵役時代の旧友で、ナンテールでチンピラ仲間たちと車や廃品などをくすねて、生計を立てているアベル(ベルナール・フレッソン)にばったり出くわしたマックスは、アベルの恋人である美しい娼婦リリー(ロミー・シュナイダー)に近づき、アベルたちが銀行強盗を謀るよう巧妙な罠をしかけていく。

    「『マックスとリリー』はソーテの最高傑作ではないだろうか、とにかく私はそう思っている。主人公のマックスはある意味ふたつの職を持っていて、それに相応しい『身なり』をしなければならない。刑事でありながら、彼は自分のことを判事だと思い続けているのだから。三つ揃いの背広をまるで聖職者の衣服のように纏っている。ラストシーンでその身なりを脱ぎ捨てた時、彼はぎりぎりのところに身を置く。愛する女を抱きしめるか、それとも自ら命を絶つか。どうしてあんな演技ができたのか分からない。ソーテとロミー・シュナイダーのおかけだろう。あれほどまでに短い時間でどうしたら完全なる抑制から放埒なる行動へと移行できるのか?それこそ私が求め、好んでいることだ」。(ミシェル・ピコリ)

     ピコリが述べているようにマックスは「三つ揃いの背広」をつねに纏っており、異常なまでの執念に取り憑かれ、旧友とその仲間たちをはめていく。その様は「聖職者」というよりも、その冷たく青白い顔、その黒い衣裳からも、吸血鬼、あるいはブニュエルやメルヴィルの映画の中の登場人物を想起させるだろう。しかしピコリがいつものようにエレガントかつ端的に本作の核を言い当てているように、マックスは「完全なる抑制から放埒なる行動へと移行」していく。何もかも知り、言葉にも、叫びにもならないものを発しながら倒れ込むロミー・シュナイダーを前に、彼女のその姿を愕然として見つめることしかできないピコリ。自分でも制御できないもの、他者への止めることのできない欲動によって、それまで抑制、保っていたものが一気に音を立てて壊れていく様が、ピコリの微妙に変化していく表情、身体から伝ってくる。カフェの片隅でシュナイダーの絶望の吐息のみが響き、何もできずに彼女の前で立ちすくむピコリを映し出すこのシーンの凄まじさ......、それまで流れてきた生、時間が一気にひっくり返りる暴力的な、真実の瞬間がそこに描かれている。

    『友情』、人々の集いと彷徨う様を

     ピコリはその後、ロミー・シュナイダーとイヴ・モンタン共演の『夕なぎ』でナレーションを担当、まさに作家であるソーテの声となる。そして1974年、ピコリはソーテの6本目の長編『友情』に主演のひとりとして再び登場する。原題は『Vincent, François, Paul et les autre (ヴァンサンとフランソワとポール、その他の人たち) 』 であり、まさに三人の男たちの友情とその周囲の人々との交流が描かれ、ピコリはその中で、40代の妻子持ち、裕福な開業医フランソワを演じている。イヴ・モンタンがヴァンサンを、セルジュ・レジアニがポールを、そして彼らより下の世代、若さを象徴する存在として登場するジェラール・ドパルデュー演じるボクサー役のジャン、それぞれがその個性、魅力を十全に出して演じている中で、ピコリはともすると彼らよりも影がうすく見えもする。他の男たちがどうにも隠しきれず、自分たちの抱える苦悩で右往左往し、救いを求めたり、暴れてみたりするのに対して、ピコリ演じる40代の開業医のフランソワはとくに嘆き立てたり、騒ぐことなく、自らの感情を内に秘め続ける。そしてソーテは画面の奥、端でそうした控えめな演技にとどまっているピコリの表情をとらえ、そこにひっそりと浮かんでくる彼の苦悩、闇が垣間見える。そのことによってフランソワ=ピコリという登場人物は誰よりもこの作品に深い陰影を与えることになる。『友情』のある食事のシーンで、それまで感情を露わにしなかったフランソワが、突如として感情を爆発されるシーンが一度だけある。ソーテの映画の中では家族や友人同士で集まり、食事をしたり、語り合ったりするシーンが多く見られ、共同体を描く映画監督として語られることも多いのだが、同時にその場所との距離を感じざるを得ず、その場所からさまよい出ていく人たち、居心地の悪さ、生きづらさ、あるいは生きることの不可能性に苛まれた人たちの姿が見えてくることがある。ピコリ演じるフランソワは、まさに人々の集い、彷徨い、その間を往来しながら、いつかは絶対的な彷徨へと旅立つ人間の深いペシミズム、ソーテの映画の持つ秘密をこの作品で誰よりも担っているように見える。

    ソーテ、シュナイダー、ピコリによる最後の映画『マド』

     ソーテとピコリが最後にタッグを組んだ作品が『マド』(1976年)である。前作の『友情』同様、社会的にある程度の成功を収めている男が、突如として危機に直面する姿を描いている。しかし『友情』がそこに人間的救いを見出していたのに反して、ここでは金銭による腐敗、汚職、自殺、裏切り、そして殺人......、世界はさらに荒廃し、救いが見えなくなってきている。初期のソーテの犯罪映画を想起させるプロット、シーンもあるが、タイトルが示すように、本作はピコリ演じるシモンが恋に落ちる娼婦マド(オッタヴィア・ピッコロ)をめぐる映画でもある。若く美しい娼婦マドは金で買われていながら、シモンの欲望、軽蔑、そして嫉妬さえかわし続ける。そして娼婦として多くの男たちの間を往来するマドによって、シモンは窮状から抜け出す手立てさえ得ることになる。近づこうとしても近づけない絶対的他者である女性、ソーテの抱き続けた女性の神秘への憧れ、とまどい、欲望についての映画でもある。そしてまた本作は、ソーテ、ピコリ、そしてシュナイダーの最後の映画でもある。ピコリ演じるシモンの恋人エレン(そう、『すぎ去りし日の...』で彼女が演じた女性と同じ名前だ)を演じるシュナイダー。ふたりの関係について多くは語られないながら、愛し合っているはずなのに結ばれることのないふたりであること、それは哀しみが宿るシュナイダーのその表情、視線、所作、そのすべてが痛いほど示している。そのシュナイダーがピコリを自分の寝室に迎え、共に過ごす数分間には、決定的な言葉は何も変わされないながら、『マックスとリリー』のあのラストのカフェのシーンに匹敵するほど濃密なもの、人生の多くの時間、感情が流れ、見えてくる。

    *クロード・ソーテのその後のフィルモグラフィー、遺作となる『とまどい』(1995年)については、同作のブルーレイのリーフレットで紹介させて頂いているので、よろしければご覧になって頂きたい。
    http://cinemakadokawa.jp/dvd/youga/40/457.html

    Belle Noiseuse004.jpg5月12日、フランスの友人からミシェル・ピコリの訃報のメールを受け取った時、とっさに、自分でもすぐに理由が分からずも、涙がこみ上げ、とてつもない喪失感に包まれた。ピコリが、他界、信じられない......。それほどまでにピコリという存在が大切だったこと、その存在をごく当たり前のように感じていたことを、彼がこの世にもういないと知ったその日からひしひしと感じ始めた。ミシェル・ピコリという存在がいかに現代映画にとって重要であり、彼がいたからこそ映画作家たちが作れた映画、生まれた作品があることを確認、再確認するために、追悼特集を組まなければならないとすぐさま企画を提案した。
    追悼特集開催を目前にして、ジャン=マルク・ラランヌ、元「カイエ・デュ・シネマ」編集長であり、現在、フランスの人気カルチャー雑誌「レザンロキュプティーブル Les Inrockuptibles」代表、そして優れた映画批評家である彼による感動的な追悼文をここに訳出したい。これまで多くの監督、俳優たちの卓越した論考を発表してきたラランヌによるミシェル・ピコリ論、そしてラブレターをぜひお読み頂きたい。そして彼の作品をともに発見、再発見して頂ければ嬉しい。


    追悼 ミシェル・ピコリ
    ピコリという才能
    ジャン=マルク・ラランヌ
     彼は、一作、一作の撮影に俳優としてのすべての才能を注ぎ込んで、もっとも偉大な映画作家たちのフィルモグラフィーを横断してきた。今年5月12日に享年94歳でこの世を去ったミシェル・ピコリは70年以上もの間、他に類を見ない軌跡を歩んできた。

     (ジル・ジャコブとの書簡集の形で編纂された)ミシェル・ピコリの自伝(*)は以下の言葉で閉じている。「できれば私は死にたくない」。この自伝を締めくくる最後の頁で、90代となったピコリは、自分の能力が徐々に失われ、崩壊していくことを、「インクのない万年筆」になったようだと、胸が張り裂けるような言葉で語っている。そしてこみ上げた怒りによって「いったい私のインクはどこにあるのだ?」と言葉にならない叫びを上げ、そして敗北感とともに認める、「インクはもう尽きかけてきたのが見える」と。

     たとえば、保険会社の不信感によってマノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家族の灯り』(2012年、マイケル・ロンスデール主演)への出演は阻まれてしまったにせよ、ミシェル・ピコリは決して立ち止まろうとはせず、映画を撮るため、舞台に立つために懸命に闘い続けた。飽くなき探求心が彼を生き生きとさせ、そのキャリアの最晩年まで、偉大な映画(『ホーリー・モーターズ』2012年、レオス・カラックス)、偉大な役(『ローマ法王の休日』2011年、ナンニ・モレッティ)でミシェル・ピコリは実際に輝きにあふれ続けていた。

    幼年期の記憶の不在、あるいはおおいなる退屈さ

     もしかしたら立ち止まることをしないというピコリのその熱狂的なる生き方は、遅れてきた者という感情から生まれたのかもしれない。彼のキャリアは80年という並外れた長さに亘っているが、それが実際に軌道に乗っていくにはかなりゆっくり時間を要することになる。しかもそれはキャリアにおいてだけではなかった。
     前述した自伝の中で、ピコリはこちらを戸惑わせるほどの無関心さで、自分の幼少期を語っている。おおいに退屈したという以外に幼少期の記憶がまったくないというのだ。ピコリの父親はヴァイオリニスト、母親はピアニストだった。二人は、夏のヴァカンスの間、カジノホールで演奏をして生計を立てていた。ピコリは、カジノの客たちが両親の演奏にほとんど興味を示していなかったのを記憶していた。いずれにせよ彼らも自分たちの職業に真にやる気を抱いていたわけではなく、夫婦仲についてもそれは同じだった。そして自分たちの息子に対しても......。ミシェルは、母親が大切にしていた第一子の死から数年後に生まれた息子だった。
     真に愛された(しかし他界した)子供には到底及ばない身代わりとしてこの世界に生まれ出た若きピコリは、自分をさほど価値のない存在と認識していた。両親が真に愛した存在は自分の誕生前にいた。自分が認識され、愛されるためには別の場所を探さなければならない、と。
     実際の行動には及ばずもレジスタンスのヒロイズムを夢見ながらくぐり抜けた戦争が終わろうとする頃、青年ピコリは自らの未来は演劇にあると見なし始めた。ピコリは演劇学校に登録し、映画のエキストラに志願する。やはりここでもピコリは俳優として認識され、名を上げるまでに、ある程度の時間、段階を経ることになる。まずエキストラから脇役を演じるようになり、ゴダールによって『軽蔑』で初の主演を任せられるには、40代になるのを待たなくてはなかった。そしてこの作品はピコリのキャリアのまさにターニングポイント、転機となったのだ。第二子であり、二番目の役(脇役)。ミシェル・ピコリは中心に身を置かずも、自分がいる場所からどのように輝きを放っていくかを心得ていった。

    つねに重要なる脇役を演じて

     年齢を重ねてからスターダムにのし上がってきた他の俳優とは違い、ピコリは脇役を演じるのをやめない、という選択をしてきた、その作品の出演者の中で彼が一番有名な存在だとしても。ルイス・ブニュエル(『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』『自由の幻想』)、マルコ・フェレーリ(『ひきしお』、『白人女に手を出すな』)などでは、ほとんどワンシーンのみで出演している。彼が出演した200本の映画のうち、その半分はそうした短い出演に留まっている。ピコリはどんな役、立場であれ、重要なのは、そこにいることであると信じていたのではないだろうか。そして一度、その監督との間に信頼関係が築かれれば、その創作が進むのに寄り添うために、いつでもその監督のもとに戻る準備があるのだと示しているかのようだ。たとえそれがささいな脇役であろうと(たとえば、『汚れた血』から25年後、レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』で、短いながらも素晴らしい出演を果たしたように)。こうしてピコリがアーティストたちにみせたこの上ない柔軟さ、寛容さは、存在を誇示しようとする野心とはまったく異なり、創造、クリエーションへの彼の情熱を表しているだろう。俳優の中には、自分の演じた役に自己同一化する人がいる(時には、ほとんど偏狭的に)。また自分が出演した作品に自己同一する俳優たちもいるだろう(作品全体の中での自分の成功や、キャストの組み合わせの中でのバランスへの配慮からだろうか)。あるいは、その役や作品を超えて、様々な状況に応じて、映画監督やその作品、作家としてのアプローチに共感する人もいるだろう。しかしピコリの演技を見ていると、彼にとって大切なのは、ブニュエルやオリヴェイラ、ドゥミの作品全体のために仕事をし、様々な異なる段階においても、彼らの作品世界の中に住み続け、彼らの旅の道連れでいることなのだと感じられる。

    語り手、声、分身

     こうして彼らの創作活動、作品群と一体となり、長い間、共に歩んでいきたいとピコリが望んだからこそ、(ピコリをキャストしたほとんどすべての偉大な監督が彼を複数回、出演させている)、多くの映画監督が彼を自分の分身としたのではないだろうか。ピコリ自身も俳優として監督を模倣しようと力を注いできた。たとえばゴダールの作品では、その身ぶりはゴダール的となり、ソーテの作品ではソーテのようにタバコを吸い、叫び、オリヴェイラの作品ではオリヴェイラのように狡猾で、いたずら好きになるという風に......。
    ピコリが自ら選んだ役割には、俳優としてのおおいなる謙虚さ(つねに自分という一個人よりも大きいとみなされるものに役立とうとする)と、(一本のフィルムより壮大なもの、つまり映画(シネマ)のために努めたいという)おおいなる野心が感じられる。
     自分の地位をまったく気にすることなく、一本のフィルムのすべての役割(それが主役であろうと、脇役であろうと)に就くことを可能にする彼の俳優としての柔軟さがもっともはっきりと示されているのは、幾度となく、声のみの出演を引き受けていることだろう。たとえばアニエス・ヴァルダ(『キューバのみなさん、こんにちは』、1963年)、クロード・ソーテ(『夕なぎ』、1972年)、ルネ・アリオ(『Le Matelot 512』、1984年)、エリア・スレイマン(『D.I.』、2002年)、ベルトラン・マンディコ(『ホルモンの聖母様』、2015年)、その他多くの作品で、ピコリはナレーターを引き受け、声のみの出演をしている。このことは、彼の声のその温かく、深く、特別な響き、そして興味をかき立てられたプロジェクトであれば、どんな条件、形態であろうと、それに加わろうとする情熱を示している。そしてまた彼に与えられた多少なりとも特別な立場、つまり映画作家の分身であることによって、映画作家たちから、その声によって映画の語り手の役を託されることになったのではないか。

    空洞を持つ男、あるいは道化師

     俳優としてのピコリは、ふたつの異なる演技スタイルを持っていた(どちらか一方だけ、ということではなく、ふたつの間の幅広い、多様なニュアンスで演じていた)。一つ目は、彼の初期の偉大な役、そのキャリアを象徴することになる役に見られるかなり内に抑えた演技である。どこかいつも他のなにかを考えているような様子、抑制された表現が見られる。たとえば『軽蔑』、『すぎ去りし日の......』(1970年、クロード・ソーテ)『ロシュフォールの恋人たち』(1967年、ジャック・ドゥミ)、『別離』(1968年、アラン・カヴァリエ)でのピコリの演技などがそれに当てはまるだろう。彼の中のなにかが、捉えることができないままそこからかわされ、言葉に表されることを拒否しているかのようだ。抑制することがまず優先されている。そこでのピコリは、役者である以前に、まるで自分の人生、あるいは他者の人生の観客であるかのようなのだ。しかしながら、『小間使の日記』(1963年)の中でブニュエルはすでにピコリのより開放的な感性を見事に引き出していて、本作でピコリは過剰なほどのリビドーに突き動かされるように滑稽で、粗野で、あけっぴろげな男を演じている。こうしたピコリの持つ活力、精気は映画の中に少しずつ流れ出ていく。空洞を持つ男は、しだいに道化役者(ジャック・ルーフィオ、フランシス・ジロー、イヴ・ボワッセ、ラウル・ルイス)、あるいは無声映画のドイツ人俳優のような表現主義者(『都会のひと部屋』1982年、ジャック・ドゥミ)へとなっていく。歳を重ねるとともに、ピコリは、より大きな権力を持つ役を任されるようになっていく。たとえばルイ16世(『ヴァレンヌの夜』1982年、エットーレ・スコラ)や法王(『ローマ法王の休日』2011年、ナンニ・モレッティ)、さらには映画の化身(シモン・シネマ『百一夜』1995年、アニエス・ヴァルダ)を演じるようになる。

    数十本の素晴らしい名作たち

     しかし、ミシェル・ピコリは、権力を体現する際、その都度多くの嘲りをそこに吹き込み、パロディ的な次元を倍増させ、笑劇(ファルス)の力を開花させてみせる。それもしばしば外向的で、ほとんど攻撃的なまでのやり方で。そう、『ローマ法王の休日』にて、時につま先立ちで、ほとんど無言でこっそり逃げ出してみせたように。
     私たちはミシェル・ピコリへ非常に強い愛着を感じていた。なぜなら、まさにミシェル・ピコリその人とともに、この60年の間、観客としての私たちの中にフランス映画が生み出すことができたもっとも素晴らしい作品、数十本の崇高なる映画が堆積し、記録されてきたからだ。
     しかし、それはまたピコリが体現してきたもの、彼が醸し出し、放ってきたもの、世界における彼の存在のあり方そのもの、彼の口調、その太い眉毛、帽子を被る時の類い希なる優雅さ、数え切れないほど目にしてきたタバコの煙を吐くその仕草、そのすべてからだろう。私たちの中に生き続けるそうしたピコリの映像すべてを思い返し、胸が締め付けられ、そして『軽蔑』のオープニングシーンで彼がブリジット・バルドーに囁いた言葉がふと聞こえてくる。そして私たちは、突如、彼に向けてその言葉を呟きたくなるのだ、「あなたのことを愛している、そのすべてを、心から、悲しいまでに」と。

    参考文献:(*)『私は夢の中で生きた J'ai vécu dans mes rêves』ミシェル・ピコリ、ジル・ジャコブ共著(グラッセ出版社)


    「偉大なる俳優、ミシェル・ピコリ追悼特集」
    ・2020年8月6日(木)〜9月18日(金)@アンスティチュ・フランセ東京エスパス・イマージュ
    ・9月@シネマ・ジャック&ベティ(日程調整中)
    詳細は以下のページでご確認ください
    https://www.institutfrancais.jp/tokyo/agenda/cinema202009906/

    『スパイの妻』、あるいは不意に露呈する外側

    坂本安美
    6月25日(木)

     最後にこの場に日誌を記してからなんと2ヶ月以上がすでに過ぎてしまった。毎日のようにこの場に戻り、ぎこちなくても、間違っても、とにかく言葉を紡ぎ、聞こえてくる、見えてくるもの、この時間に体験し、考えていることを記録しなければと思いながらも、時間は矢のように過ぎていった。テレワークとやらで朝から晩までコンピューターを前に仕事をするほか、IVCから出るオリヴィエ・アサイヤスのブルーレイボックスの制作を手伝い(特典映像にどうしても付けてほしいと嘆願したアサイヤスとマチュー・アマルリックの対談にもがんばって字幕を付けました、ぜひ本編たちと共に見て頂きたい)、そして今月、劇場の再開とともに公開が始まったアンナ・カリーナのドキュメンタリーのパンフへの執筆、劇場休館によって苦難を強いられていた映画業界の人々へのほんの微力ながらの応援、国内、海外にいる親しい友人や家族たちとのやり取り、一日、一日はあっという間に過ぎていった。もちろんときに不安に苛まれ、発狂しそうになることもありながらも、そうして家の中に身を籠もり、日常を送ってこれたのは、外に出て働き続けていた人たちがいたからこそだ。ブレィディみかこの「欧州季評」(「朝日新聞朝刊」2020年6月11 日)で「ケア階級」という言葉を知った。人類学者デヴィッド・グレーバーが、医療、教育、介護、保育など、直接的に「他者をケアする」仕事をしている人々のことをそう語っているとのこと。「製造業が主だった昔とは異なり、今日の労働者階級の多くは、こうしたケア階級の人々であり、彼らがいなければ地域社会は回らない」と。そしてコロナ禍において「わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしてくれているのがどんな人々なのかに気がついた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的な存在にすぎず、互いにケアしなければ死んでしまうということにも気がついた」。そうしたケアする仕事がなぜか経済とは別のもののように考えられ、本当に社会にとって必要な仕事ほど低賃金という倒錯した状況が生まれている、とブレィディみかこは述べる。ちなみにそのケア階級の仕事と対峙する概念として、グレーバーが唱えるのが「ブルシット・ジョブ(どうでもいい仕事)」、たとえばなくてもいい書類作成のため資料を集め、整理するために忙殺されているホワイトカラーの管理・事務部門の仕事......。

     「ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的な存在にすぎない」。そしてその存在、生命としての身体は「"自然"、自分自身の所有物に見えて、けっして自らの制御下に置くことができないものだ」と生物学者の福岡伸一は語る(「福岡伸一の動的平衡」朝日新聞朝刊2020 年6月17日)。いつ生まれ、どこで病を得、どのように死ぬのか、選り好みなどできない。しかしふだん、都市の中で生きる私たちはそのことを忘れて、すべて制御でき、効率よく、予定通り生きていけると思い込んでいる。福岡は本来の自然ピュシスとそれを制御しようとして創り出された自然ロゴスつまり、言葉や論理の対立を語る。制御できないもの、たとえば「生と死、性、生殖、病、老い、狂気......」そうしたものを見て見ぬふり、あるいは隠蔽して、タブーとして押し込めてきた。そしてそうして押し込めてきた「ピュシスの顕れを、まさに今回不意打ちに近いかたちで我々の前の前に見せてくれたが、今回のウイルス禍ではなかったか」。

     生物学者である福岡の文章は、生物学という学問に疎い私にも、おおいに響くものがあると同時に、4月初めにスマートフォンの画面に現れて、私たちにユーモアを交え、穏やかながら、いつもながら力強く語ってくれたゴダールの言葉とも共鳴して聞こえてきた。「それが何なのか私だって分からない、ただ我々と同じ生きものではあることは確かであり、もしかして我々のことを好きなのかもしれないよ」 

     その文章を読んでから数日後、黒沢清監督の最新作『スパイの妻』を見る。
    私たちが生きている世界は様々な瞬間、行為、思考、感情によって構成され、動き、あるいは繰り返し、しかし確実に少しずつ変化し、姿を変えている。現在起こっていること、たとえば今、世界中を震撼させているウイルスの感染拡大もすべて、そうした流れ、大きなうねりの中のひとつであり、その変化や動きのしるしは遙かかなたの彼の地で見つけることもできるかもしれないし、実は目の前でふと見えてくることもある。それは人間が制御してもしきれなかったなにかとして貌を表す。黒沢清はそうした貌、見えないけれど見えるもののもとへと接近し、かつて確かに存在し、しかし今や過去になってしまった取り返しのつかないいくつかの事実の積み重ねであるところの「世界」を誰よりも果敢に描いてきた。そして『スパイの妻』で、黒沢清はそれをこれまで以上に大きなスケール感、迷うことのない姿勢で見せる。驚愕し、興奮しながら、帰宅して黒沢さんの著書を一冊手にとってみる。

    「どうも僕たちは今とりあえず安心して『ここ』にいるようだ。しかし、その外側は『暴力』に満ちていて、しかも向こうにある暴力の原因のかなり部分が、実はこちら側から送り込まれているのではないか。となると、この安心した内側の世界と、もうひとつの暴力的な外側の世界とは、いつか必ず、というかすでに『戦争状態』に入っていて、そのことに関する責任は、実は『ここ』にいるこの僕たちにも大いにあるではないでしょうか」(『黒沢清、21世紀の映画を語る』発行:boid)

     ちなみに私たちの目の前の「暴力」とはウイルスではない。「人もウイルスも制御できない自然」であり、それを制御するために生活という個人の領域に不用意に介入してくる公権力こそが「暴力」であるだろう。

     21世紀の映画の宿命を真っ向から引き受けた黒沢清のあらたな傑作については、次回、あらためて語らせてほしい。

    4月14日(火)
     京都、出町座にて開催中の「第2回映画批評月間」において、今回の目玉であり、特集のひとつであるのがセルジュ・ボゾンである。ボゾンの2013年の長編作品『ティップ・トップ ふたりは最高』は、とにかく主演女優のふたりイザベル・ユペールとサンドリン・キーベルランのかけ合いがタイトル同様に最高なのだが、それはたんに彼女たちの演技がうまい、台詞がよく書けているといったことだけではなく、まさに言葉や所作をかけ合っていくことによって、ふたりが混ざり合い、影響を与え合い、ときにその役割を交換し、コンビを作っているその様をライブで追っていくことができるからだ。そしてこのふたりの登場で、町の人々、本作に登場する誰もが、混ざり合っていく。「プロトコル」、「公平性」と暗号のように呟かれる言葉たち、それはまさにみんなが混ざり合い、全体が調和していけるような「公平」な場所でものを考え、言い合えるための暗号のようにさえ聞こえてくる。
     本特集の企画協力者であるオリヴィエ・ペールはセルジュ・ボゾンの作品をつねに擁護してきたひとりだが、彼が以下に訳出した紹介文の中でボゾン、そしてゴダールの作品を「大衆に見放され、だがそれでも大衆について語り続けようとしている映画」と述べるとき、ドゥルーズがかつて「現代的な政治映画があるとすれば、次のことを前提にするしかない。民衆はもはや存在しない。あるいはまだ存在しない...民衆が欠けている。」と書いた一文を想起しないわけにはいかない(『シネマ2*時間イメージ』)。
     未曾有の危機に直面している世界中の「人々」、私たちは分断ではなく、いかに調和、混ざり合っていくことができるのだろうか。そんな壮大な問いはしばし脇に置いて、まずはこの赤毛のふたりの風変わりな女性警官たちのやり取りに笑い、感動してほしい。
    『ティップ・トップ ふたりは最高』の上映はこれからも続けます。
    『ティップ・トップ ふたりは最高』セルジュ・ボゾン
    オリヴィエ・ペール
     ある地方都市で、ふたりの女性捜査官がアルジェリア出身の情報提供者、密告者の死について捜査を行っている。ボゾンは、かつてゴダールが用いた方法を応用してみせる。つまり犯罪小説を題材に用いながら、そこからまったく別のことを語るという方法である。それでは彼らは何を語っているのか?ゴダールとボゾン、いかにそれぞれの作風は異なっていようとも、彼らが語っていることを探そうとすれば、その答えは、ボゾンの前作、傑出したその長編のタイトルに見つけるべきだろう。そう『フランス』(2007)である。
     そして本作は、不釣り合いなふたりの女性警察官の物語でもある。彼女たちはそれぞれ、私生活での素行が理由で職務執行を干渉されることになる。片方は叩き(夫とのサド・マゾヒズムの関係を窮めている)、もう一方は覗くことが趣味なのだ。イザベル・ユペールとサンドリン・キーベルランによるコミカルなコンビは、これまで彼女たちも、いや誰も見せたことがない見事なかけ合いで、主演女優たちもそれを思いっきり楽しんでいるように見える。そしていかがわしい警官を演じるフランソワ・ダミアンは、その持ち前のクレイジーな魅力がうまく引き出され、才能溢れる俳優であることがあらためて証明されている。ひそかに展開していく不条理な笑い、陰謀と謎の香りを、乾いたタッチ、素早い表現、そしてフランス、いや世界の作家主義的映画が引き付けようとするものたち(あまりにもそのリストは長い)をあえて拒否しようとする態度。セルジュ・ボゾンの映画のレシピ(映画作法)を数行で述べてみるならこのような特徴を挙げられるだろうが、ボゾンの映画とは、とりわけ多くのことにノンと言い、それ以上のことを記憶しながら、別の、まったくもって独創的なものを創り出そうとしている。引用したり、参照したりすることはないものの、『ティップ・トップ ふたりは最高』は映画の歴史に対する反旗の記憶を担っており、ポンピドゥー・センターからの白紙委任状を与えられた際にセレクトしたお気に入りのフランスの監督たち、新機軸を求め続けた監督たちを継承するボゾンに相応しい作品となっている。したがって「フランス」というテーマ、ボゾンの愛する反自然主義的な映画作家たち(とりわけシャブロルやモッキー)、そしてこれみよがしに政治的であろうとすることがないながら、作品の隠れた主題である移民や統合の問題、これらすべての要素が本作を豊かなものにしている。そしてこの作品のもうひとつの核を語るならば、ある種の古典アメリカ映画からの影響を挙げることができるだろう。ハリウッド映画のいくつかのジャンルの特徴や、演出の優位といったものが、目立たないながらもあちらこちらに感じ取ることができる。『ティップ・トップ ふたり』は、『Deux Rouquines dans la bagarre(抗争の中のふたりの赤毛の女たち)』(1955年 アラン・ドワン監督の作品で、原題は『Slightly Scarlet』)というタイトルも当てはまるのではないだろうか。イザベル・ユペールとサンドリン・キーベルランの髪の色が赤毛に近いからだけではない。ボゾン作品の威風堂々としたところ、あるいはそのダンディズムは、擬似文化的オーラを脱ぎ捨て、映画の炎を燃やし続け、50年代のアメリカB級映画、あるいは70年代土曜の夜に放映されていたような映画の精神を持ち得ていると思うからだ。大衆的な作品の体裁を取りながらも、大衆に見放され、だがそれでも大衆について語り続けようとしている映画たち。大作、あるいは低予算の作品でも、人々について自問し、人々を映画の中に描こうとする作品たちがある。ボゾン、ゴダール、そして何人かの他の映画作家たちのようにいまもなお、絶えず。

    067042-000-a-tip-top-2008455-1491320374.jpg ティップ・トップ ふたりは最高 Tip Top
    フランス=ルクセンブルク/2013年/106分
    監督:セルジュ・ボゾン
    出演:イザベル・ユペール、サンドリン・キーベルラン、フランソワ・ダミアン、キャロル・ロシェ

    フランス北部でアルジェリア系の情報屋が殺された。その情報屋は、地域のドラッグの密売に関わっていたが、警察署内部を探るため、ふたりの女性監察官、エスターとサリが派遣された。ひとりは殴りこみをかけ、もうひとりは覗き見る...そう、ふたりは最高のコンビ!

    ◆「第2回 映画批評月間 ~フランス映画の現在をめぐって~ in 関西」@出町座にて上映
    4月13日(月)
     本日、京都の出町座にて日本初上映されたジャン=ピエール・モッキーの代表作の一本、『赤いトキ』。モッキーの作品は発見する度に、こんな映画、これまでに見たことがない!という驚きと共に、その作品に宿るアナーキーなまでの自由な精神、けっして感傷的なものに陥らずも人間へのおおらかな眼差しに心踊らされる。
     この作品をスクリーンで多くの方に見ていただける日が近いことを願い、ここに、オリヴィエ・ペールによる『赤いトキ』の作品紹介を訳出する。
    『赤いトキ』ジャン=ピエール・モッキー
    オリヴィエ・ペール
     70年半ば、フランスの制度、社会を激しく批判する、アナーキーで扇動的な作品を連続して撮っていたモッキーが、息を抜くようにして撮ったのが『赤いトキ』であり、不条理さと詩的な要素、ブラック・ユーモアをたっぷり散りばめ、犯罪映画の画一的なコードを覆してみせる。モッキーはアメリカの犯罪小説を題材として用いることが多く、ここでは「セリ・ノワール」(暗黒・犯罪小説叢書)の一冊として出版されたフレデリック・ブラウンの『3、1、2とノックせよ』を元に、風変わりで、怪物じみていながら、心惹かれる登場人物たちによる世界を描いている。
     モッキーはつねに俳優たちを愛してきたが、本作ではミシェル・セローとミシェル・ガラブリュが、これまでの道化的な役柄とは離れて、表現の幅を広げ、哀感をそそる人物を作り上げている。セローが演じるのは孤独で、引っ込み思案なサラリーマンであり、子供の頃の性的トラウマによって女性たちを襲う連続絞殺者。対するガラブリュが演じるのは元タンゴの踊り手で、美しい妻(エヴリーヌ・ビュイル)を今でも愛していながらも離婚を求められ、さらにポーカーの賭けで多額の借金を抱え、ギャングたちに追われている男である。そして本作がスクリーンでの最後の出演となったミシェル・シモンが演じる年老いた新聞売りジジは、口やかましく、虚言癖で、厭世的で、これまで彼が演じてきた役柄、『パニック』(1946、ジュリアン・デュヴィヴィエ)のイール氏、『素晴らしき放浪者』(1932、ジャン・ルノワール)のブデュ、『アタラント号』(1934、ジャン・ヴィゴ)のジュールおじさんといった記憶を呼び起こし、その存在はただただ私たちの心を揺さぶる。ジジの唯一の友だちはお洒落なスーツに身を包んだバナナ好きな黒人の少年である。この三人のミシェルのほかにも『赤いトキ』は、脇役からエキストラに至るまで、精彩に富んだ人物たちがたくさん登場し、モッキー秘訣のキャスティングの妙を見て取ることができる。風変わりな顔たち、遊び心あふれた小道具、おかしな服装、口癖、身体的ハンディキャップ......。この風変わりな人々たちのいかがわしい集団、界隈は、モッキーが演出によって、あらゆる社会階級が渾然一体となったフランスの鏡として見えてくる。
     本作は、ほとんどのシーンがサン・マルタン運河沿いや、その界隈で撮られており、戦前のフランス映画の古典作品の中で描かれている大衆的なパリを想起させる。おそらくそこには『おかしなドラマ』(1937、マルセル・カルネ)『北ホテル』(1938、マルセル・カルネ)、『アタラント号』(1934、ジャン・ヴィゴ)などが記憶として蘇ってくるだろう。
     詩的レアリスムの伝統を風変わり(ビザール)なセンスで味付けしたモッキーは、中央アジア出身の映画作家たちの作品、ロマン・ポランスキーの『テナント/恐怖を借りた男』(1976)やスタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』(1971)などに見られるグロテスクでファンタスティックなユーモアのタッチもそこに付け加えている。『赤いトキ』の夢幻的な雰囲気、熱狂的なリズム、モッキー独特の演出方法、いつまでも頭に残るテーマ曲、常軌を逸した俳優たちの演技、こうしたモッキー映画の魅力が詰まった本作は、傑作『あほうどり(L'Albatros)』(1971)の映画作家が、フランス映画でもっとも我々を熱狂させてくれる一人であることを確認させてくれる。権力批判をし続け、茶目っ気あふれるモッキー、彼の創意に富んだ演出方法、映画への果てることなき情熱、彼の作品を活気づけてきた俳優たちへの愛情を我々はこれからも忘れることはないだろう。
    ibis-rouge-1975-01.jpg 赤いトキ L'Ibis rouge
    フランス/1975年/80分
    監督:ジャン=ピエール・モッキー
    出演:ミシェル・セロー、ミシェル・シモン、エヴリーヌ・ヴュイル

    孤独な会社員ジェレミーは赤いマフラーで次から次に女性たちを絞め殺してきた。同じ界隈に住み、賭博好きレーモンは、借金を返済するために愛する妻のエヴリーヌに宝石を売るよう頼む。そんなふたりが出会い、ある計画が立てられることに......。

    ◆「第2回 映画批評月間 ~フランス映画の現在をめぐって~ in 関西」@出町座にて上映

    「モッキーはささやかな人間喜劇の作家であり、その喜劇は年月が経つにつれ、奇跡へと姿を変えてきた。彼は自らを道徳家と見なすことはなく、寓話作家だと考えていた。暴力や憎悪、偽善と闘う自由な精神の持ち主だったモッキーは、笑いとともにそれらと闘い続けた。なぜなら敵を嘲笑することこそが最良の武器となり、観客たちに真の満足を与えると考えていたからだ。モッキーは風刺、寓話、幻想的あるいはシュールレアリスト的要素を用いて世界を語った。下品だと批判されることもあったが、彼の作品はその逆に、ある種の純粋さ、無垢さを説いてきた。 永遠の反逆者モッキーは、彼の映画の登場人物たちのように、実在する問題に対して常軌を逸しているばかげた、あるいは詩的な解決策を見出し、人生を変えようとしてきた。 モッキーは、自分の作品のもっとも忠実なる観客は子供たち、そして移民労働者たちだと述べていた。モッキーは最良の意味で大衆的な映画作家だったのだ。」

    オリヴィエ・ペール(アルテ・フランス・シネマ ディレクター)

    4月12日(日)

     オリヴィエ・ペールは2020年3月13日にアンスティチュ・フランセ東京にて行ったジャン=ピエール・モッキーについての講演の最後を、上記の言葉で締めくくった。「第2回映画批評月間」で、昨年のギィ・ジルに続き、フランス映画の知られざる作家、名作を特集する枠で誰を特集したいか、と同氏に尋ねたところ、すぐに名前が挙がったのがモッキーだった。その後、素材や権利の問題が生じたにもかかわらず、モッキー特集を実現させるために協力し続けてくれたペール氏の同講演の原文は「日本におけるジャン=ピエール・モッキー」と題され、以下のブログにて公表されている。

    https://www.arte.tv/sites/olivierpere/2020/03/18/jean-pierre-mocky-au-japon/

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     東京、横浜では「第2回映画批評月間」が現在、中止・延期となってしまったが、京都の出町座では、モッキー、そして彼をこよなく敬愛するセルジュ・ボゾン、両監督の特集が現在開催されている。そこで4月12日、本日上映される『言い知れぬ恐怖の町』についてのペール氏による作品紹介を以下に訳出させてもらった。ペール氏のモッキーと本作への熱い想いを通して、本作の魅力を感じていただき、モッキー作品が上映される日が近いことをお待ちいただきたい。


    『言い知れぬ恐怖の町』ジャン=ピエール・モッキー
    オリヴィエ・ペール

     『言い知れぬ恐怖の町』はジャン=ピエール・モッキーの最良の一本である。ブールヴィル演じるシモン・トリケ警部は、逃亡した偽札偽造者の捜索に乗り出す。逃亡者を追っていくうちに、トリケ警部はオーヴェルニュ地方の想像上の村、バルジュにたどり着き、風変わりなふるまいの住民たちに出会う。そして中世の時代に首を斬られたと言われている「バルジャスク」と呼ばれる獣の存在が村の者たちのもとに恐怖の種をまいていた。

     ジャン=ピエール・モッキーは本作で、ベルギーの作家、ジャン・レーの幻想的な世界を自由に脚色しているが、そこには大いなる幸福感と原作に対する繊細な配慮が十分に感じられる。主役のトリケ警部を演じるブールヴィルを取りまくのは、モッキー作品の常連俳優たち(ジャン・ポワレ、フランシス・ブランシュとその風変わりな子分たち)、そしてフランス映画のかつての名俳優たち(ジャン=ルイ・バロー、ヴィクトル・フランセン、レイモン・ルーロー)がとりわけ奇抜でエキセントリックな役を演じている。バーレスク的かつシュールレアリスト的調子をともなって幻想映画のジャンルに闖入してきたこの驚くべき作品は、公開当時、あまりにも突飛とされ、理解されることがなく、観客の入りもよくなかったため、配給会社からは再編集を求められ、より観客受けするようにと、タイトルも『大いなる恐怖』に変更されてしまった。しかし今回は喜ばしいことにモッキー自身によって監修された真の「ディレクター・カット」修復版、つまり完全版で特別にご紹介させていただく。主役を演じるブールヴィルの魅力的な演技(モッキー作品のブールヴィルはつねに素晴らしい)、そして偉大な作家レーモン・クノーによるユーモアと言葉への愛が詰まっている台詞(契約上の問題でクレジットされていないのだが)が大いに貢献している、滑稽かつ感動的な本作、そのゾクゾクさせる不気味さと、突拍子もなさをたっぷり味わって頂ける貴重な機会となるだろう。

     モッキーにブールヴィル、クノー、ジャン・レー、そして心ゆくまで楽しんで演じている傑出した俳優たち、そして忘れてはならないのが、映画史上もっとも偉大な撮影監督のひとりオイゲン・シュフタン。このように素晴らしい才能が結集し、モッキーのフィルモグラフィーの中でも他に類がない成功作品となった『言い知れぬ恐怖の町』は、60年代以降、あまり試みられることがなくなってしまったフランス映画の貴重な水脈、「詩的幻想作品」の中に位置づけられるだろう。

    著者原文:https://www.arte.tv/sites/olivierpere/2013/08/19/la-cite-de-lindicible-peur/
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    言い知れぬ恐怖の町
    フランス/1964年/92分/モノクロ/デジタル
    監督:ジャン=ピエール・モッキー
    出演:ブールヴィル、フランシス・ブランシュ、ジャン・ポワレ、ヴェロニク・ノルデー ほか

    逃亡した偽札偽造者の捜索に乗り出したシモン・トリケ警部は、オーヴェルニュ地方の想像の村、バルジュにたどり着くのだが、そこには摩訶不思議な住民たち、出来事があふれていた......。ベルギーの幻想小説家ジャン・レーの原作を自由に、幸福感と繊細さとともにモッキーが映画化。モッキー作品にかかせない俳優のひとり、ブールヴィルが風変わりな警部役を魅力一杯に演じている。

    世界で隠れて見えないものたち

    坂本安美

    4月10日(金)

     「それが何なのか私だって分からない、ただ我々と同じ生きものではあることは確かであり、もしかして我々のことを好きなのかもしれないよ。ぴったりくっついている(tout contre)と同時に、敵対(contre)もしている、そう『女性たちにぴったり寄り添っている(tout contre)と同時に、彼女たちに逆らい(contre)もする』とサシャ・ギトリが言ったようにね」。4月8日(木)、インスタグラムにて配信されたマスタークラスの中で、現在、世界中で猛威をふるっているウイスルについて質問されたゴダールは、サシャ・ギトリの有名な一文を引用して、微笑みさえ浮かべてさらっとそう答えてみせた。「反する」という意味と、「ぴったりくっつく」という、相反する意味を持つ「contre」という単語を用いて、ゴダールはウイルスは我々の敵でありながら、この世界の中の生きものとひとつであるという当然の事実にあえて立ち返ってみることを促す。当初は一時間以内で予定されていながらも、一向に疲れを見せることなく、時に辛辣な言葉を交えながらも、茶目っ気のある笑みを浮かべながら、一つひとつの質問に丁寧に応じる89歳の巨匠のインタビューは、最終的に一時間半も続くことになった。その中でゴダールが何度か口にした「アクション」、「リアクション」というふたつのシンプルな言葉が、上記のウイルスについての発言とともに頭の中で響き続けている。「絵画とは手によるアクションである」、「コンピューターを打つ手、それはアクションではない」、「印象派とは写真の誕生へのリアクションで起こった運動だ」、「科学、それもまたアクションである」......。

     世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)戦略投資効果局長の國井修は朝日新聞のインタビューで次のように述べている。「新型コロナとの闘いはまだ終わっていませんが、今回のようなパンデミックは今後も起こりえます。昔なら地方の風土病で終わっていたものが、都市化や交通の高速化、地球環境の変化などで世界に広がるようになっています。(...)抗生物質の過剰使用による新たな耐性菌は確実に増え、地球温暖化で蚊の生息域が広がりマラリアの流行拡大も報告されています。(...)微生物からすれば、自らの生存のために変異しながら人間への親和性を高めているのかもしれません。環境や自然を含む地球の健康と人類の健康を総合的に考える『プラネタリーヘルス』を発展させ、人類と微生物との共存を模索することも大事だと考えます。(...)世界で隠れて見えないものをもう一度見直してほしいのです」(「朝日新聞」3月25日朝刊)。その肩書きを読み、正直このような団体が存在していることにさえ知らずにいたのだが、同氏の言葉は、いたって明瞭であると同時に、見えない危機を前に右往左往しがちな今日この頃、インタビュアーがふと漏らす言葉の通り、「現状を異なる風景として」浮かび上がらせてくれる。

     あるいは3月14日にフランスの国営ラジオ局フランス・インテールでインタビューされた政治学者のベルトラン・バディは「社会」が再び発見される時だと述べる。新自由主義が支配していた世界で、経済成長は持たざる者たちにもいいことであると説かれてきたが、2019年に世界各地で、まったく別々ながらも同時多発的に起こった社会運動、そして現在のこの状況がそれが誤りだったことを物語っている。他者というもの、他性についての解釈をあらためる時がきている。社会への回帰が起こっている。ホモ・エコノミクス(経済人)ではなく、「人間」による社会への回帰が。「自分が勝利するためには、相手は敗北しなければならない」、というのがこれまでの解釈だったとしたら、新たな、グローバル化の真の文法、教えとは、「自分が生き残り、勝利するためには、相手も生き残り、勝利しなければならない。つまり、他者を守ることが自分の利益にもなる」。バディはおおよそ、以上のようなことを述べていた。そしてこのバディの言葉は、「全体が調和していく、全体として栄えていくような形にしないと再生はない」と述べる哲学者の西谷修の言葉とも共鳴しているように思える。

     ウイルスという危機に対面し、神経をとがらせながら、自分たちの健康、生命、そして日々の生活を守ろうとしている現在、「人類と微生物との共存」について考える余裕などないと言ってしまえばそれまでだろう。しかしこのウイルスという「我々と同様に生きているもの」、そして「隠れて見えないもの」、そのすべてと共にこの世界を、勇気と英知を持って、新たな目で見つめ直すしか、この闇の中を進んでいく術はないだろう。ご多分に漏れず、見えない不安の前でおろおろと怯えながらも、アクション、リアクションととりあえず、日々、つぶやき続けようと思う。

     ゴダールはウイルスについての先の発言の後、『ゴダール・ソーシャリズム』でも引用しているジョゼフ・コンラッドの次の言葉(しかし実はヘンリー・ジェイムズの!)をつぶやく。「私たちは闇の中で仕事をするーーできることを行い、持っているものを与える。私たちの疑問、それは私たちの情熱であり、情熱こそが私たちの務めである。残りは、芸術の狂気である。」

    アクションとリアクションーーJLG とともに

    坂本安美
    4月7日(水)

     日本ではなにやら世の中を大きく変える宣言とやらが出されたようだが、何が変わる、変わらなければならないのか。たしかに健康は、命は大切である。それが危険に冒されていることは否定できない現実として目の前にあるのだが、そのことを理由に、どんな補償を受けられるのかもほぼ不明なまま、私たちは様々なことを阻まれ、自由が大きく制約されようとしている。

     はたして命や健康が危険に冒されていることが怖いのか、そうした危機の名のもとに、昨日まで、数ヶ月前まで当たり前だったことがすべて断ち切られ、明日の生活も補償されず、将来の見通しがまったく見えないことが怖いのか。あいまいな状況のあいまいな不安のなんと気持ちの悪いことか。

     そんな日の夜、海の向こうにいる「世界一クールな男」が私たちの携帯の中にライブで現れるという。気持ちの悪い不安はおきざりにして、とりあえずワイングラスと携帯を持って今宵を過ごそうではないか。そしてジャン=リュック・ゴダールは緑のチョッキを着て、葉巻を片手に、涼しい顔で世界中から送られてくるコメントや絵文字とともに私たちの前に登場した。

     1時間半のそのインタビューをそのままここで訳出するよりは、まず彼が毎日かかさずパートナーのアンヌ=マリー・ミエヴィルと共に読んでいるという仏日刊紙「リベラシオン」の若き批評家、リュック・シャセルによる卓越したテキストを以下に訳出したい。同紙文化チームは、4月から週末を除き、毎日ニュースレターを配信している。インタビューからほんの1時間後にメールボックスに届いた4月7日付けレターのエディトリアルが以下の文章である。



    GODARD, PAS À BOUT DE SOUFFLE AU TEMPS DU COVID-19
    ゴダールはCOVID-19の時代にも息切れ(à bout de souffle)することがない

    リュック・シャセル

    1305609-godar_ecal_instagram.jpg 「テクノロジーに勝利した世界は自由に敗北してしまった」。ジャン=マリー・ストローブの最新短編作品で、レマン湖岸を背中を向けて歩ているひとりの男が最後に呟く言葉である。『ロボットに対抗するフランス』(2020年/夜と昼の2バージョンで10分)、ジョルジュ・ベルナノスによる同名の社会を風刺した文書(*1)の一節による反テクノロジーの革命の呼びかけは、ストローブによってロールの自宅に籠城している隣人、ジャン=リュック・ゴダールに捧げられている。本作は4月5日よりサイトKino Slangにて無料配信されている。そしてその配信スタート日から2日もあけずして、つねに偶然が物事を成しているかのように見せながら、JLGは彼なりの方法でストローブへ応答することになる。
     本日の午後1時間半の間、ローザンヌ州立美術学校のインスタグラムにてスイスの映画監督リオネル・バイアーの質問にライブで答えたジャン=リュック・ゴダール、その顔の下に次々と映し出されるユーザーたちからのコメントのひとつにあるように「世界一のクール・ガイ」は、マスクではなく葉巻を口にくわえ、いつものように、出来事を作りだした。おそらくパンデミックが起こっているこの時だからこそJLGの基本的とも言える言葉が私たちにより強く響いてくるのでないだろうか。優しくも残酷で、寛大かつ控えめな彼の言葉は、それが述べられている現状を描写し、その覆い(マスク)を取り外そうとするのみである(それに対して、質問者は現在流通している防御用マスクをきちんとつけている)。それでは今回、ライブ配信というメディアで、そのかぼそい声に注意深く耳を傾ける者、あるいはまったく傾けることのない者たちによる、スクリーン上のあらゆる言語、絵文字のラブコールに対し、読むことのないロールの予言者の口から人々は何を聞くことになったのだろうか?
     「ウイルスはコミュニケーションであり、他のものを必要とする。隣人のもとを訪れ、そこに入るために。たとえば幾羽の鳥たちが隣の巣を訪れる、そこに入っていくように。ネットでメッセージを送るとき、そのメッセージがどこかに送られ、そこに入るために、誰か別のものを必要とするように」。ゴダールは情報理論に触れながら、おおよそ以上のようなことを述べた。そしてしばらくして再びこう続けた。「ウイルスはコミュニケーションである。私たちが今まさにしているように......。それで死ぬことはないかもしれないが、それによってうまく生きることはできないかもしれない」。そしてゴダールは最近しばし口にする彼の思考、つまり(アルファベット、そして、通常であれば経済成長を示しているが、現在は感染数の上昇を示す資本主義的成長カーブによって固定しようとするーーJLGによるいつもの天才的ひらめきが感じられる批評だ)「言語 langue」と、「口にされる言葉(パロール)と映像(イメージ)の混合」、映画が時に可能とするその混合としてある「言葉 langage」の対置についてここでも語ってみせる。そう、午後のひと時、テクノロジーに勝利した病める世界における言葉(パロール)と映像(イメージ)が伝えてくれるのは、ジャン=リュック・ゴダールのもとでは必ずしもそうではないということ、すなわち世界はまだ必ずしも自由に敗北してしまったわけではないということなのだ。

    [著者原文]:https://next.liberation.fr/cinema/2020/04/07/godard-pas-a-bout-de-souffle-au-temps-du-covid-19_1784498
    (*1)『ロボットに対抗するフランス』はジョルジュ・ベルナノスが1947年に発表したエッセー集であり、産業化した社会への厳しい批判を綴った幾つかのテキストが集められている。ベルナノスはここで機械化は人間の自由を制限し、思考方法まで混乱させると述べている。

    アンナ・カリーナ追悼

    坂本安美
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     2018年9月、18年ぶりに東京を訪れたアンナ・カリーナの側に付き、数日ともに過ごすことができた。最初にお会いしたのは、20年ほど前、彼女のアルバム『恋物語』をプロデュースしたフランスのミュージシャン(フィリップ・)カトリーヌと来日した際で、まるでミュージカルコメディのように楽しげに、チャーミングに歌い合うふたりのパフォーマンス、そして夕食の席でゴダールとのエピソードをまるで昨日のことのように生き生きと語ってくれた彼女の美しい笑顔、そのユーモアに感激し通しだった。アンナは久しぶりのライブで不安げな様子だったが、滞在していたホテルの小さなテラスで一緒に来日したミュージシャンのギター伴奏で歌い始めると、徐々に愛らしい笑顔を取りもどし、一言ひとこと、歌詞に心を込め、その世界の中に入っていった。若い頃に比べてその声はかなり掠れていたが、歌い出すと、そこから彼女の繊細な感情、豊かな表現力が聞こえ、見えてくる。その最後となってしまった来日中のある夕食の席で、ゴダールの新作『イメージの本』で『小さな兵隊』のアンナのシーンが抜粋されていることを告げると、まだ未見だった彼女は本当に嬉しそうな笑みを浮かべていた。17歳でコペンハーゲンの港町から単身でパリに降り立ち、名前も変え、外国語で話し、確かなよりどころがないながら、いやだからこそ、しっかりと一瞬、一瞬を彼女らしく生き、フランスだけでなく、世界中、ここ日本にいる私たちにまで、夢、遊び心、涙、怒り、自由さ、多くの可能性を託していってくれたアンナ。2019年12月14日に旅立ったアンナについて、最後まで彼女と親交の深かったフィリップ・カトリーヌは次のように語る。「あの世代の女性としては、アンナは特定の形におさまることのない人だった。モノラルでもステレオでもなくて、多義的、ポリセミックな人だった。彼女の中にはいくつもの女性が存在していた。だから、彼女はつねに思いがけず、矛盾している、時には機嫌が悪いことさえあった。アンナは文学にも映画にも、サッカーにも興味があった。同じようにフランス語にも情熱を持っていたけど、時に口汚く罵ることもできる人だった。彼女は今日においてそう呼べる意味で、非常に現代的な女性だった。映画の中の彼女を見れば、2010年代に映画に出始めたと全く考えられるよね。」アンナ・カリーナは亡くなる直前まで病院でカトリーヌが作曲して彼女が歌った『アンナ・カリン』を聴いていたそうだ。「カトリーヌと出会って私はもう一度生まれた」とさえ述べていたアンナ、彼女との「恋物語」を生きたカトリーヌの美しい賛辞に続けて、仏日刊紙「リベラシオン」2019年12月15日に掲載されたカミーユ・ヌヴェールのすばらしい追悼文をここに訳出したい。


    アンナ・カリーナ、炎に包まれた若き女の肖像(*1)

    カミーユ・ヌヴェール

    ゴダールとの特権的な関係以外に、変化を求めていた社会が遂げようとしていた現代的なるものへの大きな変化を体現していたアンナ・カリーナは、ヴィスコンティ、ズルニーニ、ファスビンダーなど多くの映画監督を魅了した。

    「フランス語を話す外国人の女性は、いつもすごく美しい」、『小さな兵隊』の予告編で聞こえてくるコメントである。ゴダールは『勝手にしやがれ』で「パ・パ・トリ・シア(Pa-pa-tri-cia)」とたどたどしく口ずさんだ後も、「A」の文字を含む名前を持つ女性たち、あるいは題名やアイディアを好んできた。アンヌ・ヴィエゼムスキー、アンヌ=マリ・ミエヴィル、シャンタル・ゴヤ、ナタリー・バイ、レ・リタ・ミツコ、ジェーン・フォンダ、ハンナ・シグラ、等など あるいは『プラウダ』、『(メイド・イン)USA』等など。しかし韻を踏むようにアルファ(ロメオ!)の「A」がもっとも多く、4つの「A」がはっきり発語される(しかも左右どちらかでも同じに読めるファーストネームの響きが加わる)名前を持つ女性、それがアンナ・カリーナ(Anna Karina )だ。

     そしてカリーナはある時代の、現代的でポップで若きフランスを象徴する顔となる。デンマーク出身の外国人である彼女が。彼女を迎え入れた国、フランス、その自由な思想とともに、そしてまたフランスのタブー、禁忌とともに。宗教のベールとカトリック教の抑圧がフランス国家による検閲を取得した、それがディドロ原作で、ジャック・リヴェット監督によって脚色された『修道女』(1965年)だった。アンナ・カリーナがこの映画で体現しているのはまさにそれでしかない、つまり現代的検閲である。アンナ・カリーナは、宗教的にも、文学的にも、二重の意味で冒涜とされた18世紀に書かれた台詞を演じたその外国語のアクセントと無信仰さによって、それ以来、「気まぐれなる殉教者」のイメージを喚起させ続けるだろう。ヴィルジニー・デパントの『ベーゼ・モア』(1993年)(*2)が撮られるだいぶ前の出来事である。

    悪魔の機械

     その時代は今より自由だったわけではないが、より無頓着で、決然としていて、分別などなく、失うものも何もない、そう父親たちの退廃した芸術に再び陥るよりはすべてを失ってもいいというような時代だった。それは戦後、社会が急激に発展していき、突如としてスクリーンの中にも、路上にも恋人たちが人目を憚らず現れ、人生と映画の両方が愉快にカミングアウトし合った60年代だった。そしてまだ無名の俳優と映画作家が同じぐらい重要な存在であり、キャメラの前と後ろの境を超えた魂の結びつきによって生まれた映画、それは彼らが共同で創り出した作品だった。アドルフォ・ビオイ=カサーレスの幻想小説をイタリア人監督が映画化した『モレルの発明』(1974年)でカリーナはファスティーヌ役を演じた。生物を三次元上に撮影すると、のちにその生物が死んでしまう悪魔の機械。人間を含めた生物が完璧な姿で記録され、それと引きかえに破壊していく。映像が魂を奪うという私たち先祖の信仰が物語のもととなっているだろう。アンナ・カリーナはしかし恋をしていたのだ。

     6年(1961年から67年まで)、カリーナがヌーヴェルヴァーグの女性の顔となり、シネフィルたちのマリアンヌ(フランス共和国を象徴する女性像であり、『気狂いピエロ』でカリーナが演じた女性の名前)になるには6年というその月日で充分だった。端正な顔立ちで、中国の影絵のように美しいカリーナ。(ベルナデット・)ラフォン、(ステファンヌ・)オードラン、(デルフィーヌ・)セイリング、そして「ロメール映画の女の子たち」、ヴァルダ以外すべて男性の監督たちの世界に、閃光のように出現したこうした何人かの女性たちの中にアンナ・カリーナもいた。ゴダール、リヴェット、ファスビンダー、ゲンスブール=コラルニック、ラウル・ルイス、ショレンドルフ、デルヴォー、リチャードソン、ズルニーニ。アンナ・カリーナは口数の少ない顔をしながら、国籍を超えた新しい波(ヌーヴェルヴァーグ)に乗り、5つの言語を流暢に話しながら映画のユートピアの一員だった。

     おそらく『不良少女モニカ』(1953年)のあのショットによってすべてが変化したのだ。ハリエット・アンデルソンのキャメラ目線のあのラストのショットはヌーヴェルヴァーグの若き獅子たちに官能的なる衝撃を与え、とくにゴダールはとことん拘り(それは映画技法として誰もが使用する、ありきたりな手法にさえなっていくのだが)、イングマール・ベルイマンによるそのショットを『勝手にしやがれ』(1959年)ではセバーグに、『小さな兵隊』(1960年)ではカリーナに演じさせた。しかしカリーナはキャメラとの正面の関係をより力強いものへと高めていく。キャメラは彼女の顔の特徴をつぶさにとらえるポートレイトを形成するにいたるのだ。正面から、横から、あらゆる角度から細かく彼女をとらえ、警察による容疑者の人体測定、あるいは絵画における人物像のエチュードにさえたとえられるだろう。

    物思いにふけり、悲しみに沈み、ふてくされて

     それこそが『女と男のいる舗道』(1962年)の全編にわたって私たちが目にすることであるだろう。彼女を見つめる視線、その顔、横顔、楕円形の輪郭、唇までタバコを持っていくその手、短めに切られた髪がカーブを描くその首、彼女はその間、引き出しを開け、うな垂れ、私たちと共に肖像画家(ジャン=リュック・ゴダール)のナレーションの声に耳を傾けながら辛抱強く待ち、そしてキャメラの視線にとらえられるがままに身を任せる。闇、そして光の中でとらえられるその顔の上で、彼女は笑いと涙を交互に見せることができた。アンナ、あるいはその情熱......。ゴダールの声が彼女に文学的レッスンをほどこし、それからある予言を告げるだろう。彼女は物思いにふけり、悲しそうでいて、そして少しふてくされながら、そのことに気づいている。そう、いつかふたりの間の愛が消えていくことを。しかし彼女のこのポートレイト、感情の微妙なる動きが刻まれたこの瞬間は消えないことを。それらすべての瞬間は残っていくことを。そうしてこのシーンの最中、ゴダールによってずっと朗読されているエドガー・アラン・ポーの小説(『楕円形の肖像』)の中で、画家はこう叫ぶ、「これはまるで(妻の)生き身そのままだ!」と。そう、おふざけ好きのアンナ・Kのね。


    [訳注]
    (*1)セリーヌ・シアマの最新作のタイトル『Portrait of a Lady on Fire (炎に包まれた若き女の肖像)』(2019年)に掛けている。
    (*2)ヴィルジニー・デパントの『ベーゼ・モア』(1993年)はフランスの女流作家ヴィルジニー・デパントの小説を、本人自らと元ポルノ女優の友人コラリー・トラン・ティと共同で監督した作品。過激な内容から、公開当時、本国フランスで上映禁止騒動が巻き起こった。 ちなみにジャック・リヴェットの『修道女』は65年に完成されたが、カトリックに冒涜的だとして反対運動が起こり、一時は上映禁止となり、翌年のカンヌ映画祭で初めて上映されるも賛否両論の論争を巻き起こした。1967年7月26日、ようやくパリの5館のみで公開となる。



    『女と男のいる舗道』は「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち Hommage a Michel LEGRAND」にて近日上映予定。2020年2月21日からYEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次開催。また京都では出町座、京都みなみ会館にて【緊急追悼企画:アンナ・カリーナの残像】が開催される。


    そしてラストにアンナ・カリーナ とフィリップ・カトリーヌのデュエットによる『一生愛するとは誓わなかったわ』

    今年のカンヌ国際映画祭でなんとしても見たかった一本、デプレシャン最新作『ルーベ、ひとすじの光』、しかしその公式上映は帰国直後、その夜であることを知らされ、地団駄を踏んでいたが、なんとか最終日ぎりぎりにマーケット試写に潜り込み、見ることができた。そして数ヶ月後の夏に訪れたパリ、ちょうど到着日がこの作品の公開日という幸運に恵まれ、劇場であらためてじっくり作品に出会うことができた。カンヌでの上映は長い、長いスタンディング・オベーションに包まれ、非常に温かく迎えられたようだが、当時の記事、批評を読むに、これまでのデプレシャン作品とは一転、刑事ものというジャンルに挑戦していること、そしてこの作品の持つ「非時代的」とも言える側面に戸惑いの声も聞こえた。それから数ヶ月経ち、再びこの作品と、デプレシャンという映画作家と向かい合った各新聞、雑誌、ラジオを見聞きすると、この作品へのより深い洞察がされ、様々な興味深い視線も提示されていた。日本でのお披露目も近いことを希望しつつ、このデプレシャン初のフィルム・ノワール(そう「刑事もの」としてよりもフィルム・ノワールとして)の魅力、そして彼のフィルモグラフィにおいて、あるいは映画史における、この作品の重要性について触れたいと思う。


    夜を生きる人々
     漆黒の闇の中、人気のない道路に転がる車から炎が上がり、その炎なのか、黄色い光に包まれた煙が夜の街を漂ってゆくと、家々の壁や道路がうっすらと見えてくる。その中をパトカーが走り抜け、無線でやり取りをする警官たちの声が途切れ途切れに聞こえてくる。飾られているわずかなイルミネーション、警官たちが「メリー・クリスマス」と無線で交わし合う言葉から、その夜がクリスマスであることが推測できながらも、これまでのデプレシャン作品で描かれてきた家族や友人たちが集う賑やかな雰囲気はなく、静寂さと不穏さが背中合わせのような闇がどこまでも広がっている。ここは題名にも掲げられたルーベというベルギーとの国境沿いにあるフランス北部の街、そしてデプレシャン自身が生まれ育った場所である。自伝的要素が込められ、主人公が監督の分身として登場してきたデプレシャン作品で、その主人公が帰省する街としてルーベは何度となく登場してきた。しかしその街はしばし、主人公の家を通して垣間見える、どこかよそよそしい場所としてあった。家族、恋人、友人たちが家という限られた空間で交わし合うひとつひとつの動作、動き、彼らの言葉が濃密なドラマを紡ぎ出してきたデプレシャン映画であるが、最新作『ルーベ、ひとすじの光』は、そうした親密なる空間の中に入っていくことはない。警官、不良青年、年端も行かない少女、浮浪者、たれ込み屋、彼らは街の闇の中にとどまり、うごめいている。
     ルーベはかつて繊維業で栄えながら、近年はフランスの中でも貧困率が高く、経済的に最も厳しい地域とされている。またアラブ系移民が多いことでも有名だ。デプレシャン映画の主人公たちはこの街から出て行っては、ふらりと戻って来て、そしてまた旅立っていく。「何度も自分の作品の中で撮ってきたこの街を見て思うのは、子供の頃の自分が非常に守られた環境にいたということだ。11歳のとき、僕は自分の部屋に閉じこもり、読書をしたり、音楽を聞いたりしてばかりいた。17歳になって、この街から出て、そこから僕の人生はようやく始まった。この街を撮り続けるのは、ある意味、罪の意識からと言えるかもしれない。自分は生まれ育った街を知らないでいる。ルーベは移民の街でありマグレブ系のアラブ人たちが多く住んでいるというのに、僕は一言もアラブ語が話せない。まったくひどいことだ! 弟はアラブ語を話すのに、僕は話せない...。自分の人生をちゃんと歩んでこなかったような気がする。だから僕の映画の登場人物たちは僕が幼年期に避けてしまったことに向かい合っているのかもしれない。」(アルノー・デプレシャン)

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    燃え上がる生の素材
     デプレシャンが『ルーベ、ひとすじの光』を構想するきっかけのひとつとなったのは今から10年前にテレビ放映されたモスコ・ブコ監督による『ルーベ、中央警察署、日常業務』というドキュメンタリーだ。このドキュメンタリーは、ルーベの警察署を密着して撮影し、「潜入ドキュメンタリー」のはしりとして、当時、多くの人に衝撃を与えたと言われている。そしてデプレシャンは、これまで元にしてきた自伝的要素から離れ、このドキュメンタリーから出発し、ルーベという「いまだ知らずにいる」街へと戻ってきた。「これまでの僕の作品はロマネスクだった。あまりにも!そして過度なほどのロマネスクを、その『あまりにも』を僕は欲した。でも今日、僕は現実に密着した映画を撮りたいと思った。手が加えられていない、生の素材から始めたいと。そして俳優たちの芸術=技術によってそれが燃え上がらんことを求めたんだ」。モスコ・ブコのドキュメンタリーに記録された家出娘やその家族とのやり取り、レイプの被害にあった少女との現場検証、そしてある殺人事件の容疑者であるふたりの若い女たち......。デプレシャンは、ドキュメンタリーの中で彼女たち、彼らが発する言葉を、まるで「シェイクスピアの戯曲の中の台詞のように尊重し」、脚本の中に取り入れたという。そしてデプレシャンはその脚本を二種類の俳優たちに演じさせている。まずはデプレシャンが呼ぶところの「自然な俳優たち」、つまりプロの俳優ではない、ルーベに実際に暮らしている人々や警官たちである。彼らには自分たち自身を演じること、つまり警官は警官として実際に仕事をしているときのように演じてもらい、街の若者たち、チンピラたちにはいつものように街を歩き、いつものように仲間や警官たちと振舞うことを求め、彼らがより自然に演じられるように、ときに脚本を調整しながら演出を行ったという。こうして実際の警官たち、住民たちの行為、移動、言葉の流れを通じて、彼らが生活し、仕事をしている空間、たとえば警察署というひとつの機関、制度が、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーさながら、どのように動き、機能しているのか見えてくるだろう。デプレシャン自身も敬愛するこの偉大なアメリカの映画作家がある機関の仕組み、そこで働く人々、訪れる人々たちを丹念に描く、その手法を継承し、ルーベの警察署を通して、この街で生きる人々、とくに女たちの姿が見えてくる。
     モスコ・ブコのドキュメンタリーで最もデプレシャンの心をとらえ、長い間離れなかったのが、老女殺人容疑で逮捕されるふたりの若い女たちだった。「普段は傷つけられる側にしか共感できず、傷つける側を好きになどなれないのだが、人生で唯一、初めて、犯罪者であるこのふたりの女たちを自分の妹たちのように感じたんだ」。そしてこのふたりを演じるのがサラ・フォレスティエとレア・セドゥ、デプレシャンが呼ぶところの「芸術=技術を得た」俳優たちである。現代のフランス映画界を代表する若手女優たち、演技力が認められていると同時に華やかなイメージを持つふたり、とりわけレア・セドゥはファッション雑誌の表紙、ハイブランドのモデルも務める世界的人気女優である。そのふたりと、社会の底辺に生き、犯罪に手を染めてしまう女たちとではあまりにギャップがあるではないか。もしかしたら映画を見る前にそうした危惧をいだく者もいるかもしれない。しかしデプレシャンがこのふたりに求めたのは、実際の人物たちをもっともらしく模倣してみせることではけっしてない。自分たちが犯した非人間的な行為、その現実を正視することより、まるで子供が作り上げたかのような物語、幻覚から抜け出せずにいるふたりの女たち。 デプレシャンが求めるのは、ドキュメンタリーの中で実際に彼女たちが口にした剥き出しの、ときに野卑とも言える言葉たちを、俳優たちが一語一句尊重し、自らのものにし、自分たちの声とともに、それらの言葉がスクリーンのこちら側にいる私たちへと届き、私たちのものになることだ。そしてその「作業」を共に行っていくのがふたりの刑事たち、それを演じるふたりの俳優たちである。

    時代遅れなヒーロー
     他の街からルーベに派遣されてきた新米刑事のルイ・コトレル(アントワーヌ・レナルト)、そして彼が配属される警察署のカリスマ的存在である署長ダウール(ロシュディ・ゼム)。そのダウールも、子供の頃にアルジェリアからルーベに移住してきた。なぜ今までこの街から離れなかったのか、とルイに尋ねられ、ダウールは次のように答える、「その質問は違うな、なぜこの街に居続けているのか、と聞くべきだよ。ここは私の子供時代そのものなんだ。私には家族はいない、いやここに住むすべての人たちが家族だ」。彼はひたすらこの街の人々に寄り添い、彼らそれぞれの立場から世界を見て、聞こうとする。ダウールはその時、必ずひとりひとりの子供時代へと遡り、そこで唯一無二の他者として対話しようとする。ひと昔前の映画、とくにアメリカ映画に登場した、ある意味、時代遅れにさえ見えるかもしれない、ダウールのそうした簡潔なる公正さ。なぜデプレシャンはあえて時代を超えたヒーローをこの映画に召喚したのか。デプレシャンが敬愛する映画批評家セルジュ・ダネーは偉大なアメリカ映画の特質とは映画作家たちが、たえず暗黙のうちであれ、「他者についての理論」を育むことを必要としてきたことだと晩年のジョン・フォードについてのテクストにて述べる。「あらゆるものが漂流していく世界にあって、唯一のみすぼらしくも、確かなことは『私』が『私』であるということであり、子供とは、迷い子であれ、養子であれ、捨て子であれば、そもそも他者である。ジョン・フォードはすべての映画で絶えずそのことを語ってきた。(...)フォードは、子供のなかに、なんの保証もなくまったくの偶然に我が子とせねばならない存在という謎を見てとった」。(セルジュ・ダネー)
     世界中でこれまでの既成の秩序、権力構造が崩壊していき、抑えきれない不満、あるいは変革に向けて声を上げようとする者たちを力ずくで押さえ込もうとする警察を含めた行政機関の姿が日々報道されている現在、そうした権力の側に立つ者たちをあえて擁護することが本作の目的ではけっしてない。また彼らそれぞれの立場の複雑さ、両義性を示し、そこから現在社会を描こうとすることを目指してもいない(同じく今年のカンヌのコンペティションに出品されたラジ・リ監督の『レ・ ミゼラブル』は安易な図式に陥らないように試行錯誤しながらまさにそうした試みを行っている)。デプレシャンが目指したのは、社会の側ではなく、あくまでも世界の側に立ち、映画を作ることである。「あらゆるものが漂流していく世界」を見て、受け入れるために。

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    ひとすじの光
     後半、事件現場で一堂に会する。中庭を抜け、一階から二階の寝室へ上がり、ふたりの女たちはついに殺人現場である部屋の中へと戻っていく。殺された老女の寝室、ベッドの前で、それまで陰に隠れていたマリーが証言を始める。警官たちの追求によって、クロードもそこにおずおずと加わり、口を開き始める。薄暗い、悍ましい事件が起きたその寝室は「舞台」となり、ふたりの容疑者と警官たちとの緊張に満ちたやり取りが行われる。そして「舞台」袖で、一部始終をじっと見守るのがダウールだ。まさに演出家さながら、ダウールは彼女たちに「なぜ」とは問わず、「どうやって」と尋ね、彼女たちが「真実」を語る声、しぐさを見出していくように導いていく。罪を裁くこと、あるいは償わせることなどここで求められていない。ダウールが、そしてこの映画にとって唯一可能な救済があるとすれば、それは俳優たちの芸術、キャメラの位置、つまり映画の力によって、自己の曖昧模糊とした、陰鬱なる部分にほんのひとすじの光を照らすこと、それだけである。それはまた、恋人同士でありながら愛し合うことができずにいたふたりの女たちがようやく視線を合わせ、見つめ合える瞬間となるだろう。
     アルノー・デプレシャン初のフィルム・ノワール、『ルーベ、ひとすじの光』は現実に密着しながらそこからよりよく飛翔する。そして真実主義的模倣からは遠く離れ、ロマネスク的濃密さ、フィクションの力によって、偉大な映画が持ち得てきたヒューマニズムに到達する。しかしそれは人間性も失われた場所、絶望の果てでようやく取り戻されるヒューマニズムであるだろう。

    後記
    アルノー・デプレシャンの言葉は、『ルーベ、ひとすじの光』プレス資料、および、仏日刊紙「リベラシオン」のジュリアン・ジェステールによるアルノー・デプレシャンへのインタビューより抜粋。
    セルジュ・ダネーの言葉は、「登場の演劇 ジョン・フォード『荒野の女たち』」(『カイエ・デュ・シネマ ジョン・フォード特別号』掲載)より。映画雑誌『シネ砦』に掲載された角井誠の邦訳を参考にさせて頂いた。

    『死霊魂』ワン・ビン

    坂本安美

     王兵(ワン・ビン)の『鳳鳴中国の記憶』(2007)を見た体験は、忘れられない、特異な記憶として残っている。ひとりの老女が雪道を歩き、彼女の住む小さなアパートへと入って行き、テーブルの前に腰を下ろす。そして和鳳鳴という名の女性は語り始める。ほぼフィクスの映像の中の彼女の着ている赤い服、その小さな部屋、照明、そしてしだいに暗くなっていく外の光の推移と共に感じられる時間。一度、電話がかかってきて話を中断する瞬間があったように記憶している。彼女が語る言葉によって、私たちは異なる時間、歴史の中へと誘われるが、彼女が語る記憶のディテールは、その部屋にあるオブジェや家具、彼女の現在の日常と同じぐらいはっきりと見えてくる。そうして現在と過去それぞれが目の前にはっきりと存在し、鳳鳴の言葉とともにその間を往来したことを思い出すのだ。1950年代後半に中国で起きた反右派闘争や文化大革命の粛正活動で数々の迫害を受け、1974年に名誉回復するまでの、約30年に渡る鳳鳴の物語。歴史の中でほぼタブーとされてきた反右派闘争の歴史、再教育の名の下に収容所に強制的に送られ人々の人生、王兵(ワン・ビン)は、2005年から2017年、10年以上かけてこのテーマを追い続け、キャメラをまわし続けてきた。『鳳鳴中国の記憶』、そして彼の初劇映画である『無言歌(2010年)はこのプロジェクトの中から生まれた2本だった。
     そしてこの12年にわたり、何十時間にも及ぶ生存者たちの証言や彼らが生きた場所のラッシュから生まれたのが『死霊魂』(2018年)である。映画はひと組の夫婦の映像から始まる。夫はソファに腰かけ、妻はその横のベッドに腰掛けている。さしたる理由も分からないまま「右派」と名指され、収容所に送られることになったことを語る夫の表情は穏やかで、時に微笑みさえ浮かべているのだが、画面端にいる妻の顔はそれに比べ、悲壮な面様であり、夫が何か間違えを言わないかどうか、その言葉をひとつも漏らさず聞き入っている。最初のうちは「お前は黙ってろ」と夫に制されながらも、彼が人名、日付などをはっきり思い出せない時、あるいは間違えた記憶を口にすると、妻はたまりかねて声を発し、そのうち静かにキャメラの後ろをまわり、夫の座っているソファの横に身を置く。そしていつの間にか彼女が語り始め、キャメラも彼女を中心にまわり始める。それまでは何やら遠い記憶を語るように平然としていた夫の顔が、妻が語る言葉によって、その記憶が徐々に目の前に甦り、その生々しさに呆然としているかのようにただならぬ表情へと変わっていく。それからすでに死の床にいる弟がしぼり出す言葉、その弟の葬式、埋葬に立ち会う息子の悲痛な叫び、それから10年近く時間が経ち、90を超え、夫を亡くして生き続ける妻にはもはや何も発する言葉はなく、口にするとすれば「死んでこの苦しみから早く逃れたい」と静かに呟き、そして沈黙の中に入ってゆくのを映画は見届ける。
     王兵(ワン・ビン)は、あえて言葉を引き出そうと質問を投げかけることはせず、彼らが語り始めるのを静かに待ち、その発せられた言葉によって、彼らが過去へと時間を辿り直し、そこから記憶が浮かび上がってくるのをゆっくりと、丁寧にキャメラにおさめて行く。その一瞬も失うことなく、すべてを今語り尽さなければと、息せき切って語り続ける者もあれば、「何を語れというだ、語ることなどできやしない!」とどこに向けていいのか分からなかった怒りをようやくキャメラを前にしてぶつけようとしているかのように食ってかかり、語るのを拒みながらも、誰よりも親密な言葉、自分の奥底にある哀しみをふともらす者もいる。王兵は証言者を前にして、それぞれを記録するにふさわしい距離を模索し、彼ら一人ひとりの尊厳を回復させる。登場する証言者たちは、仕事をしたり、食事をしたり、ピアノを丹念に拭いたり、来客をもてなしたり、それぞれの日常を生きており、その時間の中で語り始める。そのことで彼らの現在が、語られる過去とつながれ、そして私たちの現在とも繋がって行くのだ。
     生還したひとりは、収容所があった地に、そうした過去があったことを記す記念碑を生存者たちのグループで建てようとしたが、結局、当局に阻まれ、叶わなかったことを語る。砂漠の上で飢えや寒さ、過酷な労働で死んでいった何千人もの名前がすでに石碑に刻まれていたのに、その記念碑を見るためにその地に辿り着くと、その石碑はすでに破壊されていたという。8時間を超える『死霊魂』は、存在を消されてしまった記念碑、不在の記念碑として、何千もの人々の叫び、そして彼らの沈黙を宿して、私たちの前に何度も、永遠に存在し続ける。


    山形国際ドキュメンタリー映画祭2019インターナショナル・コンペティション部門にて上映

  • 『収容病棟』ワン・ビン 渡辺進也 | nobodymag

  • 2007山形国際ドキュメンタリー映画祭レポート 結城秀勇
  • 5月のカンヌ。ワールド・プレミア上映された作品を発見し、批評家を含めた映画人たちとそれら作品について即座に語り、批評し合う、国際映画祭特有のライブ感溢れる刺激的な体験、そして8月の終わり、9月の初め(映画の題名のように!)のパリ。学校や仕事も切り替えの時期、カンヌでお披露目された作品を含めた新作が劇場公開され、新聞やラジオやテレビ、そしてカフェやディナーの席、映画館や道端でもさらに掘り下げた議論や批評がじっくりと行われ、そして展開する。さらにまた映画の殿堂であるパリのシネマテーク・フランセーズも新しいシーズンを迎え、来年までの豪華なラインアップが発表された。カンヌからパリへ、あるいはパリからカンヌへと往来しつつ、映画の現在、批評の現在をこれから数回にわたってレポートします。

    シネマテーク・フランセーズにおけるアルノー・デプレシャン全作特集 

     8月28日(水)から9月19日(木)まで、パリのシネマテーク・フランセーズにてアルノー・デプレシャン全作特集が開催されている。今年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門にてワールド・プレミアされ、フランスでは8月21日(水)から全国公開された『ルベー、ひとすじの光(英語題:Oh Mercy!)』。長編13本目となるこの最新作の力強さ、これまでにないほど深いヒューマニズムが、ヌーヴェルヴァーグ第三世代と呼ばれる映画作家たち(パスカル・フェラン、エリック・ロシャン、ノエミ・ルヴォヴスキ、ロランス・フェレイラ=バルボザ、セドリック・カーン、グザヴィエ・ボーヴォワ、フランソワ・オゾン......)のリーダー的存在であり、いまやフランス映画、いや、現代映画を牽引するアルノー・デプレシャンの映画を、シネマテーク・フランセーズにその処女作からたどり直すことの重要性を改めて感じさせ、本特集を実現に導いたことは明らかだ。
    「アルノー・デプレシャンは家族やその秘密を作品の素材とし、そのロマネスク的創造力は現代のフランス映画の中で他に類を見ないだろう。デプレシャン自身はフランソワ・トリュフォーの後継者であることを表明しているが、その影響はあらゆる方向に開かれており、家族や恋愛の親密なるサガであると思いきや、ハリウッド的スリラー映画的でもあり(『魂を救え!』の歴史的、政治的、社会的な側面)、突如としてファンタジー、あるいはバーレスク、滑稽さへと逸脱することもある。デプレシャンによって描かれる集団の肖像の残酷さ、そのベルイマン的な鋭い視線、俳優たちとの複雑で実りある関係、それらの背後にはつねにほとばしる感情が潜んでおり、それがデプレシャン作品を遺憾なく豊かなものにしている。」

    * * *

     8月末、5年ぶりに息子と共にパリで夏休みを過ごすことに。それが決まった後にデプレシャン特集開催の朗報を耳にし、驚喜した。人生では時としてこうした粋なプレゼントを受け取れることがあるものだ、と。アルノーに早速知らせると「ぜひオープニングにふたりを招待させてほしい」と、これまた泣けてしまうような返事をもらう。
     特集上映のオープニングは8月28日(水)、上映作品は『キングス&クイーン』。カクテルパーティにはアルノーの家族(彼の作品に数多く出演し、また出演しないときさえも重要な存在である、弟のファブリスにも初めてお会いする!)、友人、スタッフ、キャストが集まり、あたたかい雰囲気の中でいよいよ開幕式。シネマテーク・フランセーズ館長のフレデリック・ボノーの熱い賛辞の後、いよいよデプレシャンによる開幕の挨拶が行われる。



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    「長くお話するつもりはありません。でも自分の作品がこんな場所で特集されるなんて、そうざらにはないことです! それどころかこれは最高のことであり、こんなことが叶うなんて、今日まで夢見ることさえできませんでした。これほどの名誉を僕に与えてくれたフレデリック・ボノーに感謝しなければなりません。この招待を頂いたその朝、僕は呆然としてしまい、それは今でも変わりません。ただただとても驚いていて、そこから抜け出せずにいます。
     皆さんの前でこうして話をしている自分の声を聞いていると、なんだか大げさで、形式的に聞こえます。でもそれは僕がそれほど感動しているからなのです。クリスマスの夜のオスカル・エクダールがそうであったように(訳註:『ファニーとアレクサンデル』のファニーとアレクサンデルの父親、劇場を営む舞台俳優)。
     地方出身者の僕には、シネマテークの子になるチャンスはなかった。だから自分はこの場には相応しくない、不当であるとずっと思ってきました。これまでフランスや日本(今日は、坂本安美さんがいらしてくれていますが)、アメリカ、ロンドンなど、たくさんの映画館や会場で、たくさんの映画を、自分のものも他の監督のものも紹介してきました......しかしシネマテークのこのホールに来て、『ラグタイム』や『エイジ・オブ・イノセンス』......とにかくどんな作品を紹介する時も、僕の声は、今日のように震えてしまいます。

     僕は最初の作品を1991年に作りました。つまり28年間、僕は映画を作ってきました。
     まだシャイヨー宮にあった頃のシネマテークでのある晩のことを鮮明に記憶しています。僕は19歳で、エリック・ロシャンと並んでバルコニーの一番前の席に座っていて、パスカル・フェランもそんなに遠くではなかったと思います。たしかラングロワ自らが僕たちにオーソン・ウェルズを紹介したでのはないかと記憶しています。会場は観客であふれかえっていて、僕たちは皆、あの巨人の言葉に聞きほれていました。講演中、ウェルズは観客に向かってこの会場で映画を監督したいと思っている人はいますかと質問しました。300人ぐらいの人が一斉に手を挙げたかと思います! そして次にウェルズは、「この中に"エンターテイメント"をやりたいと思っている人はいますか」と聞いたのです。巨匠の言葉に魅了され、熱狂しきっていたロシャンと僕の二人は咄嗟に手を高く挙げました。そして僕たち二人だけがそうしているのに気がつき、恥じ入ったものでした。

     それから28年間、僕は"エンターテイメント"を手がけてきました、つまり皆さんを楽しませようと心がけてきました。ときには分かりにくい、難解な、あるいはより大衆的なモチーフで。それこそが僕の人生のすべてです。独学で進んできた僕に映画がすべてを教えてくれました。僕は映画にすべてを負っています。それが今晩、ここで述べることができる唯一のことです。そしてこの感謝の気持ち、それこそが僕の誇りです。
     この会場に、幸運にも一緒に映画を撮ることができた幾人かの俳優たちが集まってくれているようです。あなたたちのこと、そして今晩ここには来れなかった他の俳優たちに思いを馳せます。そしてウッディ・アレンの『地球は女で回ってる』のラストシーンを思い出します。ウッディ・アレン自身が作家の役を演じていて、自分の書いた小説のすべての登場人物たちに囲まれて自分が死んで行くのを眺めています。涙が出るほど僕を感動させるシーンです。

    あなたたちを眺め、思うのは、自分は作家ではないということです。あなた方を作り出したのは僕ではない。そうではまったくなく、あなた方が僕を作ってくれたのです。マチュー(・アマルリック)、エマニュエル(・ドゥヴォス)、エマニュエル(・サランジェ)、マリアンヌ(・ドゥニクール)、ジャンヌ(・バリバール)、キアラ(・マストロヤンニ)、カトリーヌ(・ドゥヌーヴ)、ジャン=ポール(・ロシニョン)、ナタリー(・ブトゥフ)、オリヴィエ(・)、ラシュディ(・ゼム)、レア(・セドゥ)、サラ(・フォレスティエ)、アンヌ(・コンシニ)、サマー(・フェニックス)、ファブリス(・デプレシャン)、ブリュノ(・トデスキーニ)、メルヴィル(・プポー)、ノエミ(・ルヴォヴスキ)、メロディ(・リシャール)、ラズロ(・サボ)、イポリット(・ジェラルド)、ジョアキム、フランシス、ジル、サミ(・ブアジラ)、サミール(・ゲスミ)、ラシド(・ハミ)、ルー(・ロワ=ルコリネ)、カンタン(・ドルメール)、その他すべての俳優たちによって僕は作られたのです。

    映画に関わる他のスタッフ(技術者、この呼称は不適切かもしれませんが)全員で、あなた方のアート、俳優という芸術にオマージュを捧げたいと務めてきました。ローラン、マリオン、その他数多くのスタッフが、キャメラや編集テーブルなど、自分たちの機材の後ろに身を潜めながら、それぞれの卓越した技術で努めてきました。

     今晩、この特集で上映してもらうすべての作品に思いを馳せながら、これだけは述べさせてください。一本一本の作品で、僕は一度も自分を隠そうとしたことはなく、そこに自分を完全にささげてきました。裸になり、馬鹿げた、あるいは輝かしい、時に慎みのない自分を。僕のたったひとつの倫理、それは慎みを忘れ、淫靡であることです。俳優とは見事なまでに淫靡な存在です。あなた方のように、僕も自分の持ちうるもので、そのように努めてきました。

     最後に二つほど言わせてください。
     今晩のオープニングにジル・ジャコブ氏をお招きしましたが、残念ながらお越し頂くことができませんした。ある時、僕はジルに人知れず手紙を送ったことがあります、その中の一文を今晩皆さんの前で述べたいと思います。それは『そして僕は恋をする』でエマニュエル・ドゥヴォス演じるエステールがポール・デダリュスに向かって言った台詞です。「ジル、あなたは僕の人生を素晴らしいものにしてくれました」。僕が今日ここにいるのは、ジル・ジャコブ、あなたにも負っているのです。
     そして最後に、僕のほとんどの作品、13本の作品を一緒に作ってきたプロデューサーであるパスカル・コシュトーの顔が見えます。ある日、ずいぶん前になりますが、ニューヨークのリンカーン・センターで『そして僕は恋をする』がで上映された直後、共通の友人の前でパスカルについてこう述べたことがあります。「この男が僕の人生を救ってくれたんだ」と。あまりにもぎこちない表現で、パスカルはおそらくあまり良く思わなかったもしれません。いまだにそれはわかりません。でも今晩、この逸話を述べることで僕の友情を表せればと思います。

     ここにいらっしゃるみなさんすべてに感謝の気持ちを。」

     震える手で原稿を持ち、いつもよりもさらに早口でそれを読み上げたデプレシャン。その後も特集中、すべての上映に、俳優やスタッフたちと共に挨拶に立ち続けている。
     本特集、そしてデプレシャンの新作『ルーベ、ひとすじの光(原題)』については、引き続き本レポートの中で記していく。

     昨年のカンヌ国際映画祭監督週間でプレミア上映されたフィリップ・ガレルの最新作『つかのまの愛人』を見たフランスの批評家の友人から勧められ、小さなコンピューターのスクリーンでガレルの新作を見るなんて、と思いながら、今すぐにでも発見したいという欲望に負け、再生ボタンを押したその瞬間から、映画が幕を閉じるまで、息をしたことも忘れるほど、作品の美しさ、その強度に魅了された。ガレルの作品ほど女性と男性が同じレベルで存在し、また不透明な他者として向かい合っている映画は見たことがないと思ってきた。そして『ジェラシー』以降は、ガレルの映画において女性たちが占める割合が大きくなり、またガレルの息子ルイ、娘のエステールたちと同世代の若者たちの物語が紡がれるようになってきた。『ジェラシー』、『パリ、恋人たちの影』、そして最新作の『つかのまの愛人』は、女性たちの無意識、欲望、苦悩、恋愛における様々な感情、所作、そして身体にこれまでになく迫っていく。

    「カイエ・デュ・シネマ」より編集長ドゥロームの批評の冒頭部分、そして同編集長とガレルの長く、濃密なインタビューの抜粋を以下に訳出した。

    ファム・ファタール ステファン・ドゥローム

    「『つかのまの愛人』は裂け目から始まる。ひとりの女子学生がすさまじい勢いで階段を駆け下り、大学のトイレで恋人である哲学教師と落ち合う。立ったまま、人目を忍んで、ふたりは愛を交わす。今までガレル作品でこんなシーンは見たことはなかった。今まで映画の中でこんなオルガスムを聞いたことはなかった。激しい息づかい、あえぎがすべてを凌駕する。ルイーズ・シュヴィロットの真に迫った演技が文字通りスクリーンを切り裂く。次のシーン。先ほどの学生と同年齢と思われる若い女性、エステール・ガレル演じる女が夜、路上に座り込み、大きな声を上げて泣いている。あえぐように泣くその声がさらに奥から聞こえてきて、私たちの想像の中で先ほどのオルガスムのあえぎ声と泣き声がシンクロして聞こえ、快楽と悲痛な叫びが重なり合う。このふたつのシーンのつなぎによって、ある意味、このふたりの登場人物についてすべてが語られているといえるだろう。快楽を求め、その場限りの関係も辞さない女、そして目から涙を流すしかない苦悩する女。彼女たちは同じ喘ぎをしながらも、片方はもう片方の裏であり、表裏一体のような関係であるだろう。映画を始めるにあたっての土台のようなものとしてこのふたりの女性たちの間の深い不平等さを提示する。ふたつのシーンだけで、ガレルの最新作は最近私たちが見たどの作品も超えたものとなっている。(...)ふたつの状態、ふたつの感情、ふたつの考えを対置。立っている女性と、座っている女性、快楽を味わう女と苦悩に泣く女、そうした正面からの対置、音響のつなぎを通して、映画の編集がそこで語られるべきことを告げている。」(カイエ・デュ・シネマ 733号)

    フィリップ・ガレル インタヴュー

    フロイト的三部作

    ----『つかのまの愛』は『ジェラシー』、『パリ、恋人たちの影』に続く三部作を締めくくる作品ですね。

    フィリップ・ガレル(以下PG):はい、かつて私は『内なる傷跡』、『アタノール』、『水晶の揺籠』の3本をひとまとめにして上映したことがあります。それは3本で2時間45分の一回上映を行うためでした。その上映はシャイヨー宮にあったかつてのシネマテーク・フランセーズで一回のみ開催されました。回顧上映のために、どのようなことを望むか、と主催者側に尋ねられ、それならば『内なる傷跡』と『記憶のためのマリー』を入場無料で上映してほしい、そして先ほど挙げた3本をひとまとめにして、途中で明かりをつけることなく、一回で上映してほしいとお願いしたのです。当時『アタノール』は非難され、ある批評家には、映画が運動であることを認めず、私が壁にぶち当たっているとさえ言われました。『内なる傷跡』はトラヴェリングと音楽であり、『アタノール』は沈黙と固定ショット、そして最後にアシュ・ラ・テンペルの音楽とともに『水晶の揺籠』が上映される。このように3本続けて上映することで、『アタノール』ふたつのコンサートの間の幕間のような存在となり、この組み合わせは上手くいきました。しかし今回はひとまとめに上映するためではなく、真の3部作となっています。

    ----3部作として撮ろうと思われたのはいつ頃だったのですか?

    PG:2本目を準備している時でした。『ジェラシー』を撮り、この原型で上手くいくのを確認できました。1時間15分の長さ、つまり(長編作品の通常の長さの)90分よりは15分短い製作となります。映画史には実はこうした短めの作品が数多く存在していて、誰も覚えていないかもしれませんが、『戦艦ポチョムキン』は1時間5分の長さです。したがって私は同じプロトタイプ、つまり1時間15分の長さ、21日の撮影期間、シネマスコープ、モノクロで3本撮ろうと思ったのです。

    (...)

    ----経済的な側面を超えて、今回の3部作は主題となるモチーフに基づいて構想されていらっしゃいますか?

    PG:観客として、私は映画以外の芸術も愛しています。映画以上に絵画の愛好家です。そのほかに私が長いこと行ってきていることのひとつは、フロイトを読むことです。1975年頃から読み始めたかと思います。フランス国立演劇学校では生徒たちにドラの夢、あるいは「狼男」の夢を読ませています。映画を撮るときは、フロイト的課題を自分に与えています。『ジェラシー』では女性における神経症を、『パリ、恋人たちの影』では女性におけるリビドー、そして『つかのまの愛人』は女性における無意識を扱いたかった。『つかのまの愛人』はエレクトラコンプレックス、つまりエディプス・コンプレックスの女性の場合(もちろんまったく同様というわけではないのだが)について語りたかった。エレクトラは母親のクリュタイムネーストラーが他の男性と再婚したため、母親を殺してしまった。本作では若い娘と彼女と同じ歳である父親の恋人との間の意識的に結ばれた友情の話であり、父親をめぐり、若い娘が無意識によってどのように自分のライバルを追い出すかが語られています。こうした要素を理解することは実はそこまで重要ではありませんが、このように本作は構想されているわけです。

    ----本作にはふたりの女性が出てきます。エレクトラは、(エステール・ガレル演じる)ジャンヌの観点ですね。それに対して、アリアンヌの観点は、快楽に拠っています。本作で私にとってもっとも印象的だったのは、リビドーを描いている点で、それ以前の2作品でもその描写が強く現れています。 『つかのまの愛人』はまさに、オルガズムの驚くべきシーンから始まります。

    PG:ブレヒトの日記を読んでいて、ある箇所で彼はこう書いています。「私は戯曲を完成した。最終的に12のシーンとなったが、それは8シーンと4つの夢で成っている」。ブレヒトが見て、書き留められた4つの夢がほかの部分と同じレベルで一つの戯曲の中に、とりわけ夢として区別されることなく入っているわけです。『つかのまの愛人』の冒頭のシーンも同じで、起き掛けに見て書き留めた夢なのです。同作には他にもうひとつそうしたシーンがあります、大学教授は、若い女子学生と肩を並べて歩いているが、結局自分の家に帰るシーンです。こうしたシーンと、その他の想像、あるいは自伝的エピソードに由来するシーンが区別されることなく、すべて同じレベルでこの作品に存在しています。シャンタル・アケルマンはこう述べていました、「いい、フィリップ、平坦であるべきよ。『平凡なスタイル』という意味ではなくすべてが『同じレベルで』である、という意味で」。

    ----冒頭は見事です。ある女性が快楽を味わっていて、そのシーンが泣いている女性へと繋げられます。片方はつねに快楽を味わい、もう片方はつねに泣いている、二人の状況は不公平と言えるでしょう。そしてそこにエレクトラコンプレックスが結びついている。つまり快楽を享受している者は厄介払いしなければならないわけですね。

    PG:私はドラマトゥルギー(劇作法)が何なのかよく分かりませんが、ジャン・ドゥーシェはこんなことを述べていました。「『パリ、恋人たちの影』はシネマスコープで撮られているから、登場人物がひとりでいるとき、その人物は誰もいない空間、空白に囲まれる。そうすると、もし誰もない空間、空白に囲まれているふたりの人物がいたら、彼らは同じフレームの中へと一緒に身を置くことになるだろう、それがドラマトゥルギーであると。つまりそれは造形的なものであると同時に物語も語っているのだと。したがってあなたが今語られたことも、ドラマトゥルギーだと言えるでしょう。ブレヒトも述べています、良い主題とは、人生があり、そして内面の葛藤があるものだと。人生の何かを示す矛盾が。(本作の共同脚本家である)ジャン=クロード・カリエールはこうしたことに長けています。まず視覚的なもの、たとえばしぐさのようなもの、つまり映画特有なものから始まり、ただちに葛藤、衝突が示されます。矛盾の方に向かっていくというわけではなく、それはすでにそこに存在していて、それがすぐに示されます。3本の作品とも、リハーサルを同じように行いました。主な登場人物たちを演じる俳優たちと一年かけて毎週土曜日に行ったのです。でも最後の作品、つまりこの『つかのまの愛人』がほかと異なるのは、土曜日のリハーサルのときに、脚本に対して編集を変更し始めたということです。ヒッチコックの有名なあの問いを再び見出すために、つまり、「観客は何を知っているか?登場人物は何を知っているのか」という問いです。緊張、そして遊戯=演技があり、そうした原則とともにこれらの問いがさらに興味深いものとなるわけです。観客はこれと、これを知っている、したがってこんなふうに思っている、などなど。毎週土曜日にシーンを通しで稽古をつけているので、編集の順番を徐々に変えていくことになりました。

    ----ふたりの女優たちとはどのように準備していったのですか?

    PG:彼女たちとは毎週土曜日に、ぜんぶで34回、リハーサルを重ねました。彼女たちと仕事をするときに私はただ次のように伝えます。「私が興味のあるのは、君たちがすでにテキストを知っていても、もう一度それを覚えてみること、反射的に記憶が働くようになり、頭の中で脚本のページを読もうとしなくなり、もう一方が台詞を言ったら、自然に台詞が出てくるようになることだ」と。私から指示するのはほとんどそれだけです。これまで覚えたことがなかったほど、記憶のレベルになるまでテキストを身につけること。そうやって俳優たちが台詞を覚えている間に、彼らは自分たちで何かを見出して行き、ひとつの言葉が二つの意味を持つことを発見し、これまで考えたことがなかったようなことを考えるようになり、そうして彼らの演技が上達していくのです。

    ----脚本についてコメントはされないのですか?

    PG:しません。3回ほどリハーサルを行っても、理解していないことがあるな、と感じた時だけ、論理を打ち立てるために説明を加えます。でもほとんどは、俳優たちが自分でその論理を見出します。私が一番力を入れるのは、記憶の部分です。相手が台詞を言ったら、自分の台詞を言わないほうが難しくなるほど、自然に台詞が口から出てくる、そうしたレベルに達することで、正しいと思える演技に到達します。

    映画は、思考に属するものなのです。正しく演じる、それは正しく思考することであり、また正しく喋ることでもあります。正しく話していても、間違った思考をしていたら、うまく演じられない。俳優があるシーンを演じるとき、書かれたテキストを述べるとき、彼らはある一連の思考、動き続けるある思考を即興で行わなければなりません。私が彼らに与えられるのはメソッドだけで、中身ではありません。そのことで彼らには、相手の台詞やその時の状況よって登場人物が何を考えているのか思考する自由が与えられるのです。

    本作は、4/7(土)アンスティチュ・フランセ東京でプレミア上映された後、京都、大阪での「カイエ・デュ・シネマ週間」でも上映予定です。

    http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1804011700/

    8月18日(土)よりシネマヴェーラ渋谷 他全国順次公開予定です。

     東京、京都、大阪、横浜と開催される今年で21回目を迎える「カイエ・デュ・シネマ週間」。まずは4/1(日)から東京でスタートする本特集の上映作品を同雑誌の批評やインタビューを訳出しながら紹介していきます。

     これまでもブリュノ・デュモンの作品を紹介し、そして監督自身をお迎えしながら、この監督の作品を心から愛せたことはない、とまずここで正直に告白しておこう。心から愛せないながら、しかし見ないわけにはいかない、いや、とにかく見てみたい、そう、ブリュノ・デュモンとは私にとって至極やっかいな存在なのだ。居心地の悪さを感じながらも、どうしても見ずにはいられない、という気持ちにさせられる。それはたんにカイエ誌を含めた数少なくない批評家たちから高い評価を得ているからではなく、まさに彼の作品が描く世界が孕む相反する要素によってなのではないか...、とぶつぶつ思いながらも、今日まで、そしてこれからも見続けるであろう監督がブリュノ・デュモンである。

     そうした「やっかいな」デュモンの映画においてまず驚かされるのは、彼の作品に登場する人々だ。初長編作品『ジーザスの日々』(1997年)から今回の新作に至るまで、ほとんどの場合(『カミーユ・クローデル』と前作の『Ma Loute』は例外として)、デュモンの作品にはプロの俳優ではない素人が起用されている。彼らは今風な美貌を兼ね備えているわけではなく、その表情も振る舞いもどちらかというと無骨なのだが、一度見たら忘れられない、なにか強烈なものを醸し出している。とくに主人公演じる俳優たちの顔、その身体は、まるで偉大な肖像画を目にした時のような、なにか見てはいけないもの、原初的なるものに出会ったかのような慄きとともに私たちの記憶に刻まれてきた。
     ぶっきらぼうな表情で、ときに私たちの心を揺さぶり、恐れさせたりもしてきたデュモン映画の人物たちが、なんと笑いも引き起こすようになった。それはテレビ局アルテから白紙委任状を受けたデュモンが、いつものように撮影場所でオーディションした素人の俳優たちと共に撮り上げた連続犯罪ドラマ『プティ・カンカン』(2014年)から始まった。冒頭から、登場人物たちのやりとりやふるまいには可笑しみがあり、それはときにブラック・ユーモアを含みながらも、多くの場合、愛おしさを伴った笑いを誘うのだ。それに比べ、小さな村で起こる事件を描いた推理ドラマの次回作の『Ma Loute』(2016年)は、ブラック・ユーモア満載のコメディである。ドーバー海峡に面したその土地で俳優たちがどのように動き、またその場所にどのように俳優たちが動かされていくか、土地と人々との生々しい関係をスリリングに見せていくデュモンのいつもながらの演出は見応えがありながらも、ビノッシュらプロの俳優たちと素人たちの演技、その有り様の対比がそのまま階級の対比となるなど、あまりにもあからさまな図式にはやや辟易する。

     さて、今回上映する最新作『ジャネット、ジャンヌ・ダルクの幼年期』である。作品ごとに、そこで語られる内容、テーマ、そのスタイル、前述した独自のキャスティングでつねに驚かせてきたデュモンだが、本作の奇抜さはこれまでになく観る者を驚愕させるだろう。フランスの詩人・思想家シャルル・ペギー(1873 - 1914)による『ジャンヌ・ダルク』と『ジャンヌ・ダルクの愛の秘義』を元にブリュノ・デュモンが未来の聖女の幼年期をミュージカルで描き出した、というだけでどんな作品となっているのか興味を掻き立てられるが、ペギーのテキストにフランスのデスメタル系奇才作曲家Igorrrが音楽をつけ、振り付けはサーカスとダンスを交錯させる奇想天外な演出、そして31歳の若さでアルベールビル冬季オリンピック開会式を手がけたことで有名なフィリップ・デコフレが担当しているという、なんとも奇想天外な企画である。
     物語の舞台は15世紀の百年戦争末期、フランス北東部にあるドンレミ村。農家の娘で羊飼いの少女ジャネット(ジャンヌ)は、目の前のあまりに悲惨な現状を嘆き、心を痛めている。敬虔なカトリック教徒の彼女は、友達のオーヴィエットと修道女ジェルヴェーズとの宗教的かつ哲学的な対話を通して、自身の中にある愛国心に目覚めていく。そして13歳になった時、彼女はついに神の"声"を聞き、ある決意をする......。

    ここで「カイエ」736号に掲載されているインタビューでの監督の言葉を紹介することで、この驚くべき試みへのイントロダクションとなることを願う。

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    ブリュノ・デュモンへのインタビュー
    ーー『ジャネット、ジャンヌ・ダルクの幼年期』の素晴らしさに驚嘆しました。どのようにこの作品が作られたのですか?

    ブリュノ・デュモン:あまり何も決めずに出発してみました。企画の段階ですでにいくつかの提案がありました。すでになにか爆発的なものがあると感じていました。難解とされ、やや忘れ去られたきらいのある作家ペギーとIgorrrの音楽という組み合わせは、たしかに奇妙な提案でした。しかし両方とも、それぞれの分野で実験的な試みをしているわけで、その組み合わせは興味深いと思ったのです。

    ーー出発点で、コメディからミュージカル・コメディに移行されることをお考えだったのですか?

    BD:むしろ「ミュージカル・フィルム」と呼びたいと思います。ミュージカルを撮りたいと強く思っていました、大好きなのです。心理ドラマにはうんざりしていたので、コメディに移行し、「リリック」の中に「普通に」喋らない別の方法を見出しました。コメディの爆発的な部分とリリックの持つ爆発性によって、現在私が必要としている、現実的なるものから離れることが可能となります。

    (...)

    ーー映画史に刻まれた子供による並外れた演技として、たとえばジャック・ドワイヨンの『ポネット』が挙げられますが、あなたのジャネットもまさにそのひとつとして記憶されますね。彼女は何歳ですか?

    BD:8歳です。彼女を選ぶことは大きなリスクでした。はじめて会った時、何かを持っていると感じました。彼女はまずまずは歌える、まずまずは踊れる。この「まずまず」が、ジャネットの「目覚め」には適切、ちょうどいい、と思ったのです。天才少女を探したかったわけではありません。彼女は小さいけど、素晴らしい顔をしていて、温かい心を持ち、何かを放っています。もちろん、それからレッスンをしてくわけで、ダンスを教えたり、手取り足取り教えたりしていくわけですが、望んでいたのはまさに彼女のようにまだ色がついていない、無垢な、天真爛漫とした子供でした。

    本作は、4/1(日)アンスティチュ・フランセ東京でプレミア上映された後、京都、大阪での「カイエ・デュ・シネマ週間」でも上映予定です。
    http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1804011700/

    カトリーヌ・ドヌーヴからの手紙

    坂本安美

    --「リベラシオン」2018年1月14日掲載--

    Catherine Deneuve : «Rien dans le texte ne prétend que le harcèlement a du bon, sans quoi je ne l'aurais pas signé»

    あの文章は、どこにおいても、セクシャル・ハラスメントを正しいとはまったく述べてはおらず、そうでなければ私は署名しなかったでしょう。

    カトリーヌ・ドヌーヴ

    「性的自由」を守るために「しつこく言い寄る自由」を訴える声明文に署名をしてから1週間後、カトリーヌ・ドヌーヴは、自ら署名したことを認めながらも、他に署名した何人かによる言動とは距離を置いていることを明かす。そしてこの文章によってショックを受けたかもしれない性的暴行の被害者達に対してお詫びの気持ちを述べている。

    カトリーヌ・ドヌーヴは、1月12日(金)に私たちが電話で行ったインタビューの後、以下に掲載するテキストを手紙の形式で送ってくれた。それは私たちによってお願いしたからであり、なぜなら彼女自身の声を聴きたい、そして複数の人々に署名されたあの声明文全体に彼女が賛同しているのかどうか知りたい、そしてその後の署名者の何人かの発言に対してどのような反応を示しているのか確認したいと願っていたからだ。つまり彼女自身の立場を表明することを私たちは願った。

    「リベラシオン」編集部



    たしかに私は、『ル・モンド』紙に掲載された『...自由を擁護します』と題された声明文[註1]に署名しましたが、この声明文は多くの反応を引き起こし、明確にすべき点があると思います。

    はい、私は自由を愛しています。誰もが裁き、仲裁し、断罪する権利を持っていると感じているような、現代に特徴的なこういった風潮は好きではありません。今はソーシャル・ネットワークで告発されただけで処罰を受け、辞任せざるを得なくなり、時に、そして多くの場合、メディアによる集団批判、リンチを受けることになります。30年前に誰かのお尻を触ったという理由で、法的なプロセスを経ることなく、ひとりの俳優が一本の映画作品のクレジットから消され、ニューヨークの大きな機関の代表が辞任に追い込まれることが可能な時代です。私は何も弁護しません。そうした男性たちの罪に裁断を下すような資格は私にはありません。そして(法的なプロセスの外で)そんな資格を持つ人などほとんどいないでしょう。

    私はただ、今日あまりにも日常的になっている、猟犬のように人の後を追い回そうとする傾向が好きではないのです。『#balancetonporc(豚野郎を告発せよ)』[註2]を賛同することに、昨年10月当初から私が留保しているのはそうした理由からです。

    私はうぶなお人好しでもなく、たしかに男性の方が女性よりもそうした行為に及ぶことが多いことは理解しています。しかしこのハッシュタグが密告を誘うようなものではないとどうして言えるのでしょう? そこに操作や汚い手口が存在しない、無実の自殺者がでることはない、と誰が保証できるでしょうか? 「豚野郎」も、「あばずれsalope」もなく、私たちは共に生きるべきでありです。そしてこれは認めますが、声明文『...自由を擁護する』は完全に正しいとは言わないまでも、力強い文章だと私は感じたのです。

    たしかに私はこの声明文に署名しましたが、今日、何人かの署名者たちが、我が物顔にメディアで自分の意見を述べ、文章の精神さえ歪めてしまっている、そのやり方に私が感じている異論をきちんと示す必要があると強く感じました。テレビ番組の中で『レイプの際にオルガスムに達することがある』、と述べることは、そうした犯罪の犠牲者たちの顔に唾を吐くより酷い行為です。こうした発言をすれば、破滅させるために権力を用い、セクシュアリティを使う習慣を持つ者たちに、彼らの行為はそれほど深刻なことではない、なぜなら犠牲者たちが性的快楽を得ることもあるから、という口実を与えるリスクがあります。それだけではありません。他の多くの人々と声明書に署名する時、私たちは連帯して表明するのであり、自分自身の言葉を自制することなく述べて、他の参加者を巻き込むことは避けなければなりません。これは恥ずべき行為です。あの文章は、どの部分においても、セクシャル・ハラスメントを正しいとは述べてはおらず、そうでなければ私は署名しなかったでしょう。

    私は17才から女優です。そしてこれまでにデリカシーに欠けるなどと言う以上の状況を目にしたことがあり、また他の女優たちから、卑劣なやり方で自分の権力を濫用した映画監督がいたと聞いたこともあります。そのことに言及する事はできます。ただ、私は彼女たちの立場から語ることはできません。そして、つねに権力や階級的立場、あるいは支配の形態が、身体的、心的外傷を引き起こすような、耐えられないような状況を作り出すのです。職を失うリスクがあるため、あるいは侮辱や下劣な嘲弄を受けてしまい、ノンと言えなくなるとき、そうした罠がかけられます。私は、したがって、打開策は、我々の子供たち、男の子、そして女の子たちの教育にあると思います。しかしまた場合によっては、セクハラ行為があれば即座に調査を行うことを職場の規約で定めることも必要でしょう。そういった点において、私は司法の力を信じたいと思います。

    結局のところ、私があの声明文に署名したのは、私にとって非常に重要と思えたある理由によります。それは芸術における浄化の危機です。世界文学全集でサドの本を焼き払うことになるのでしょうか? レオナルド・ダ・ヴィンチをペドフィリアとみなし、彼の絵画を消去したりするのでしょうか?ゴーギャンの絵画も美術館から外されるのでしょうか?エゴン・シーレのデッサンは破壊される?それではフィル・スペクターのCDさえも禁止されるのでしょうか? こうした検閲の雰囲気には声を失い、私たちの社会の将来に対して不安にならざるを得ません。

    私は時にフェミニストではないと非難されることがあります。私が『343人のあばずれ(343 salopes)たちの声明』[註3]のひとりであり、マルグリット・デュラスやフランソワーズ・サガンたちと共に、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが書いた声明文『私は妊娠中絶しました』に私自身も署名したことを思い出してもらうべきでしょうか?当時、妊娠中絶は刑罰の対象となり、投獄されることもありました。だからこそ、戦略的に今回私を支持することが自分たちの得になると考えたあらゆる種類の保守主義者、人種差別主義者、伝統主義者に、私は騙されはしないのだと伝えたかったのです。彼らは私の感謝も、友情も得ることはなく、まさにその逆なのです。

    私は自由な女です。そしてこれからもそうあり続けるでしょう。『ル・モンド』に掲載された声明文から攻撃されたと感じた、憎むべき行為の全ての犠牲者へ、友愛の意を表し、彼女たち、ただ彼女たちにのみ、私はお詫びいたします。

    敬具
    カトリーヌ・ドヌーヴ



    訳者から
    昨年のフランス映画祭の団長として来日したドヌーヴに数日間アテンドをさせて頂いた。その際に、一番印象に残ったのは、彼女がひとつひとつの出来事、ひとりひとりの発言、行為を自分の目で見て、自分の耳で聞き、受け止める人だということだった。たとえば、前日に、彼女の心を傷つけ、疑問視するような出来事があり、直後は傷つき、それを批判的な言葉で評していても、翌朝、ホテルの部屋に迎えに行くと、片手にタバコ、もう片方にコーヒーを持ちながら、清々しい表情で、その出来事、あるいはその人物を違う角度から捉え直し、なるべくその人の立場から理解しようとしている彼女がいるのだ。これまでも彼女のインタビューを読む度に感じてきたが、身近で接することで、彼女の発言、その眼差しが彼女の生きてきた体験、彼女自身の思考から出てきているのだと改めて感じられた。自分自身の場所から、自分自身の声を発してきた彼女だからこそ、人一倍、集団で寄って集って批判したり、裁いたりする風潮に耐えられない思いを抱いているのだと理解する。そしてこれまでのそのフィルモグラフィーを見れば分かるように、ドヌーヴは既存の価値観を覆し、ショッキングなまでに自由な女性を演じ、芸術である映画の可能性を作り手とともに探求してきた。そんな彼女だからこそ、行き過ぎたポリティカルコレクトネスが芸術表現の自由を奪う「芸術における浄化」の傾向を非常に不安視し、憂いでいるのだろう。しかし、まずなによりも、今回の「ル・モンド」の声明文に傷ついた性的暴力の犠牲者の声を聞き、心痛め、彼女たちになによりもお詫びの気持ちを真摯に伝えたいと願ったことが彼女にこの手紙を書く決断へと至らせた一番の理由であるだろう。
    拙訳で、どれだけ彼女の真意を届けることができるか不安だが、まずはこの手紙を読んでいただき、それぞれが自分の言葉で語り、議論できる場を持てることを願い、ここに訳出した。

    尚、原文は「リベラシオン」編集部の以下のサイトに掲載されており、英語訳でも読むことができる。
    https://goo.gl/5Mp6C5

    坂本安美



    [註1]

    2018年1月10日にフランス日刊紙「ル・モンド」に発表された「100人の女たちによるもう一つの意見」と題された声明文。起草者としてサラ・シッシュ(作家、精神分析医)、カトリーヌ・ミレ(アート批評家、作家)、カトリーヌ・ロブ=グリエ(女優、作家)、ペギー・サストル(作家、ジャーナリスト、翻訳家)、アブノス・シャルマニ(作家、ジャーナリスト)、そしてカトリーヌ・ドヌーヴほか、イングリット・カーフェン(女優、歌手)、エリザベット・レヴィ(ジャーナリスト)らが署名しています。数々の映画関係の翻訳書がある井上正昭氏の翻訳をご参照ください。

    [註2]

    米プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスティーン氏のセクハラ事件をめぐる動きがフランスにも波及し、議論が巻き起こった。米女優がツイッターで、セクハラ被害に遭った女性に「#Me Too」によって呼びかけたのに対して、フランスでは2017年10月13日に、サンドラ・ミュレール記者が「#balancetonporc(豚野郎を告発せよ)」でセクハラ体験を暴露するよう呼びかけ、18日までに33万5300件のメッセージが飛び交い、さらに議論が沸騰した。

    [註3]

    1971年4月5日、「ヌーヴェル・オプセルヴァトワール」誌に、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、マルグリット・デュラス、カトリーヌ・ドヌーヴ、フランソワーズ・サガンら女性たちが「フランスでは100万人の女性が堕胎している。私もその一人であることを宣言する」という〈343人のあばずれたちの声明〉を発表し、人工妊娠中絶合法化を要求した。この運動が功を奏し、1975年に人口妊娠中絶合法化を明記したヴェイユ法が制定される。この法は、それまで不衛生で危険な非合法の中絶を選択せざるを得ない女性を含む全ての女性にとっての身体への権利を獲得し、女性の身体への自由、ひいては女性の人権を確立した重要なターニングポイントとして位置づけられる。

    カトリーヌ・ドヌーヴの眼の中で...

    坂本安美

    フランスの人気カルチャー週刊誌である「レザンロキュプティブル」の編集長、元「カイエ・デュ・シネマ」編集長である映画批評家ジャン=マルク・ラランヌによるラジオ番組「...の眼の中で」(Dans les yeux de...)は、映画人を招き、映像、映画だけではなく、絵画、写真、ゲーム、テレビ、漫画、つまり彼らの「眼の中」に映り、記憶している映像についてラランヌが質問し、ゲストが自由に語り、彼らの出演作の音楽や映画の抜粋が流れる、それぞれの映像の歴史、映画史が見えてくる大変興味深い番組である。これまでにジェーン・バーキン、クリストフ・オノレ、アルノー・デプレシャン、オリヴィエ・アサイヤスなどが招かれた。これまで数多くの映画人と素晴らしいインタビューを行ってきたラランヌのジャーナリストとしての才能が十全に発揮されている。

    2017年3月5日、ラランヌがもっとも憧れ、これまで何度となくインタビューをし、論じてきたフランスを代表する大女優カトリーヌ・ドヌーヴがこの番組に招かれる。

    冒頭、トリュフォーの『暗くなるまでこの恋を』(1969年)の、ジャン=ポール・ベルモンドの、カトリーヌ・ドヌーヴへの感動的な愛の告白のシーンの抜粋が流れる。
    「君の顔はひとつの風景だ。ふたつの目は茶色の湖だ」
    「茶色と緑よ」
    「そう茶色と緑色の湖だ。君の額は平原、君の鼻は小さな山、君の口は火山だ。おお、君を見ていると、あまりの美しさに目が痛くなる。待ってくれ」
    「待っているわ」

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    『暗くなるまでこの恋を』

    この親密で官能的なふたりのやり取りのあとに、司会者であるラランヌによるドヌーヴへの「愛の告白」が続く。「カトリーヌ・ドヌーヴの顔はひとつの風景である。カトリーヌ・ドヌーヴはイメージ、いやそれ以上であり、おそらく映画史上もっとも力強いイコンとして存在している。そのイコンの力の中で、ドヌーヴはジャック・ドゥミの王女様から、ルイス・ブニュエルの倒錯的な女性まで、『暗くなるまでこの恋を』の冒険を顧みない詐欺師女から『終電車』(1980年)の気丈な女性まで、スターの輝きを放つと同時に、アンドレ・テシネの映画で日常を送る現代の女性まで繊細に演じ、女優としてのパレットには幾つもの多様な色が散りばめてきた。カトリーヌ・ドヌーヴは映像の運動そのもの、動く映像=イコンそのものであり、その道程はフランス映画史上の中でもっとも心動かされ、魅惑的である。しかしそのイコンは決してひとつに留まることなく、つねに生き生きと、動き続けている。おそらくそれは彼女がほかの映像に対してつねに大いなる好奇心、情熱を抱き続けていることによるだろう。カトリーヌ・ドヌーヴはつねに新しい映像、新しいフォルム、多様なジャンルの映画の可能性へ好奇心を持ち続けている。連続ドラマ、絵画、漫画など、様々な形態の映像への彼女の情熱を語ってもらった」
    ラランヌにはかつて東京日仏学院でドヌーヴ特集を開催した際に「フランス映画の女優たち」について講演をしてもらったことがある。ダニエル・ダリユーからドヌーヴまで、それぞれの女優のスタイル、魅力が語られ、彼女たちがいかにフランス映画史を彩り、変革して行ったのか、抜粋映像とともにとても刺激的な論が展開された。


    どうやら、インタビューの場所はどこかのカフェのテラスなのか、お皿が触れ合う音、隣の席の話し声も多少漏れ聞え、煙草に火をつける音が何度か確認できる。ヘビースモーカーのドヌーヴのこと、煙草が吸える場所でのインタビューとなったのかもしれない。ふたりの笑い声も何度か聞こえ、ラランヌの質問にとてもリラックスして、愉しげに答えている彼女の姿が思い浮かべられる。
    ドヌーヴはまずマルジャン=サトラピ、タルディなどの作家のバンデシネ(フランスの漫画)への好みについて語り、そこからデッサン、絵画へと話題が及ぶ。「ルーブル美術館に学校の見学で初めて訪れたとき、エジプトの作品のコレクションの前で、その妖しげな雰囲気に強い印象を受けたのをよく覚えています」

    「映画で恐怖を感じますか、あるいは感じるのが好きですか」という質問に、声をひそめ、低い声で「映画で怖がるの、好きだわ。ホラー映画もよく見ます。『エクソシスト』とか」と答えるドヌーヴの遊び心がなんともチャーミングである。「とくに吸血鬼映画が大好きです。トニー・スコットの『ハンガー』(1983年)への出演を引き受けた理由のひとつはまさにそこでした。吸血鬼を演じられるなんて、ミステリアスで官能的で素敵だわ、と思ったのです」

    『ハンガー』の劇中で使用されている、バウハウスのヴォーカル、ピーター・マーフィーの「Bela Lugosi's Dead」が流れる。

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    『ハンガー』

    JML デヴィット・ボウイと共演なさった『ハンガー』はご自分の出演作の中でも思い入れの深い作品ですか?
    CD はい、とても!まずトニー・スコットのことが大好きですし、彼とはとても馬が合いました。一緒に映画を作り、映像、トラヴェリングなどキャメラの動きに対する彼の配慮、一つ一つのショットにかける心配りにとても感銘を受けました。ニューヨークの橋の上のシーンなど、印象深いです。


    次に、若い頃に好みだった俳優についての質問に、クラーク・ゲーブルやモンゴメリー・クリフト、そしてアメリカの30年代のコメディ映画の女優たちへの想いを語る。

    CD アメリカ人の俳優たちのエネルギーは素晴らしいですよね。まず大きな声で話し、つねに彼らは「オーバー・サイズ」なんですよね(笑)。
    キャサリー・ヘップバーンはもちろんのこと、ケーリー・グランドと共演していたジーン・アーサー、ジュディ・ホリディ、それからマリリン・モンロー、こうしたコメディ映画の女優たちの希有な存在に憧れました。とくに『お熱いのがお好き』(1959年)や『帰らざる河』(1954年)のマリリンには驚かされました。ジョージ・キューカーとの未完の作品、そして彼女の遺作となったはずの作品(『女房は生きていた』1962年)での、マリリンの肉体の脆さには心が揺さぶられます。ほとんど白く見えるほどに輝くブロンドの髪、痩せ細ったその身体......人生の淵に立っているかのようでした。

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    『女房は生きていた』


    ドヌーヴは連続ドラマについても熱を持って話す。「「X-ファイル」が放映されていたときは、その時間に帰宅するように頑張りました。もちろん道理をわきまえ、一日に3エピソードぐらいまでにとどめるようにはしておりますが...」(その後もアメリカ、フランスの連続ドラマのタイトルが次々と挙がる)。


    ドヌーヴがセルジュ・ゲンズブールと共に作ったアルバム『SOUVIENS-TOI DE M'OUBLIE』から『Digital delay』が流れる。
    彼女の語りかけるような艶のある歌声を聴きながら、アルバム・ジャケットのHELMUT NEWTON撮影による美しいドヌーヴの写真が思い出される。
    「愛では、つねにひとりが苦しみ、もうひとりが退屈している、とバルザックが毎晩語ってくれた」
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    次に、最近観た中で好きな映画について聞かれると...

    CD もちろん『マンチェスター・バイ・ザ・シー』にはとても感動しました。ケイシー・アフレックは素晴らしかったと思います。それからジム・ジャームッシュの『パターソン』も大好きでした。滑稽で、優しさがあり...、ジャームッシュの作品はほとんどすべて見ています。アジア映画もたくさん見ていて、その中でもジャ・ジャンクーに大変興味を持っています。日本映画では是枝裕和の作品も好きです。フランス映画ではポール・ヴァーホーヴェンの『エル ELLE』、そして若手女性監督たちの作品、たとえばカテル・キレヴェレの『あさがくるまえに』には非常に心打たれました。セリーヌ・シアマもとても才能のある監督だと思います。オリヴィエ・アサイヤスの『パーソナル・ショッパー』も好きでした。アサイヤスの撮り方は本当にエレガントで、『シルス・マリア』(2014年)もよかったし、彼の映画のスタイルはすばらしいですね。クリステン・スチュワートは現在、最も興味深い女優のひとりだと思います。

    クリストフ・オノレ監督の『愛のあしあと』(2011年)で娘のキアラ・マストロヤンニとデュエットしている『軽い娘』が流れる。
    この映画でふたりは母娘を演じている。彼女達の直接の自伝的映画であるわけではないのだが、ふたりの関係、それぞれの女性としての人生が見えてくるようで、ふたりが一緒に歌い出す駅のホームのシーンは何度見ても感動する。

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    『愛のあしあと』

    この娘にして、この母親
    私は軽い女のままでいた
    心の重さとその神秘を避けるため
    石の鞄のような愛
    重いもの、傷つけるものを避けるため
    哀れみを決して求めず、ただ欲望だけを求める


     写真についての質問では、姉たち(ドヌーヴは4姉妹の3番目)との記憶や、日常のささやかなこと、ものを彼女が大切にしていることが伺える次の言葉が心に残った。「写真は、箱の中にしまっています。アルバムで整理する気力はなくて。箱から取り出して、時々眺めて、その写真の中の雰囲気を思い出しています。メランコリックになるときもありますよね、ちょっと。小さい頃に両親や姉たちと写っている写真を見せると、モノクロなのですが、自分の着ていた洋服の色や素材についての細かい記憶がはっきりと思い出されます。姉たちのお古をもらって着ていたことが多かったけれども、とても大切に思っていたからかもしれません」


     最後に、ドヌーヴの最近の出演作、そして今後の企画について質問される。まず今年のフランス映画祭で日本初上映されるマルタン・プロヴォ監督の『ルージュの手紙』(2017年 冬 全国順次ロードショー)、そしてティエリー・クリファ監督『すべてが私たちを引き離す』(2017年)が今年公開予定だ。両作品、続けて最近見たのだが、その身体が以前より多少なりとも厚みも増しているとしても、ドヌーヴという女優がつねに軽やかさ、フランス映画よりも、もしかしたら彼女が大好きなアメリカのコメディ女優の軽やかさを持っていることをあらためて確認した。その軽やかさでもって、ドヌーヴは、普通なら躊躇してしまうような何かと何かの境、階級、世代、男と女、もしかしたら生と死さえ、ときに軽々と、ときに震えながらも潔く超えていく。ラランヌが言うところの「映像の運動」そのもの、自由そのものであるカトリーヌ・ドヌーヴ。
    今後の企画としてはアンドレ・テシネとの7本目か8本目になる作品、そして『終電車』(1980年)や『しあわせの雨傘』(2010年)などことあるごとに共演しているジェラール・ドパルデューとの「心温まる」コメディがあるそうだ。


     最後のラランヌの質問「あなたの映画への愛は尽きぬものですか?」に、「はい、尽きぬもの、まだまだ尽きぬものです」と歌うようなに答えるドヌーヴ。軽やかにスクリーンを通り抜けながらも、そこに自分の生きてきた人生を自ずと刻んでいくカトリーヌ・ドヌーヴという女優。彼女はこれからも颯爽と、軽やかに映画史を、人生を進んで行くだろう。その姿をこれからも、いつまでもずっと見つめていきたい。


    フランソワ・オゾンの『しあわせの雨傘』(2010年)で流れる彼女の孫娘の父親でもある歌手のバンジャマン・ビオレとデュエットしたジャン・フェレの曲『C'est beau la vie(人生は美しい)』が番組ラストに流れる。

    君のブロンドの髪の中を揺らす風
    地平線の上の太陽
    シャンソンの幾つか言葉、
    なんて美しいんだ、なんて美しいの、人生は、


    ※このラジオ番組は以下のリンクからPodcastでお聴き頂けます。
    http://www.novaplanet.com/radionova/72564/episode-dans-les-yeux-de-catherine-deneuve