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October 7, 2005

Passion and Action「生の芸術 アール・ブリュット」展
影山裕樹

[ cinema , photo, theater, etc... ]

 アドルフ・ヴェルフリ、1864年に生まれ、幼くして家族を失い、幼女暴行未遂により精神病院に収監、彼は同病院内において、ある日突如として絵を描き始める。しかしその壮大な空想上の自叙伝の企ても、病には敵わなかった。休むよう説得する医師の言葉も聞かず、彼は死に瀕し、涙を浮かべながらも、最後までこれを描き上げたいと訴え続ける。そして1930年の冬、自らの『葬送行進曲』を描きながら、ヴェルフリはついにこの世を去る。
 この展覧会でヴェルフリの作品を見ることが出来た。想像してたよりもずっと大雑把で大胆であるのが意外だった。その他の作家の作品が緻密で細かい線で構成されているものが多かったからだ。知的障害者や精神病患者のアートというより、作家に対し芸術的素養を直接に求めない、という意味で捉えられるであろうart brutという概念により収集されたコレクションは世界にいくつかある。これはそのうちフランスのabcdコレクションから展示されている作品が見られる。中には有名な作品もあり、貴重な展覧会といえよう。
 それにしても、Passion and Actionと名づけられている通り、この展覧会で展示されている作品はみなダイレクトに胸につきささるものが多い。非常に綿密な線と色の配置。全体の相貌としては何を示しているのかまったく分からないような作品もある。しかし顔をぎりぎりまで近づけてみると、唯一本の小さな線が、正確に均等になるように並べられ、気が遠くなるような厳密さで全体を構成している。
 一般にこうした作家たちにとって重要なのは、美学的に美しいかどうかよりも、彼らの内面により忠実であるかということである。全体の相貌としては結果、抽象的にならざるをえないが、意図的に抽象画を描く美術家たちとちがって、彼らの作品は、抽象的でさえないのだ。およそあらゆる美的な相貌を備えた美術作品よりもずっと「厳密」なのだ。線−色の異常なまでの配置は、彼らの表現するところの内的な必然性を証明する。小さな紙に描かれた絵の中心部、あるいは側面を、金属片で引掻くことで隆起させて立体的な絵画となっているアナ・ゼマンコヴァの作品、日めくりカレンダーにびっしり文字を書きつめた松本国三の作品、そして圧巻としか言いようのないルサージュの装飾画。名前を忘れてしまったのだが、刺繍作品の一つにあったのは、一つの布の上に、異様な糸の塊が縫いこまれていて、これが何を表しているか、動物か人なのか、まったく分からないにもかかわらず、涙が出そうになるくらい、それは私に似ていた。それらの作品は鑑賞に対してではなく、自らの内的必然性において厳格なのだ。
 例えばヴェルフリの生涯は、悲惨なものだった。しかし暴力的な性格も、絵を描くことで収まっていったという。そこに悲しみはないのだろうか。ヴェルフリは自らの妄想の中に、行ったことのない世界のあらゆる場所(アメリカやアマゾン)を描いた。それらは現実的ではないが、非常にユニークで騒がしい土地だった。自らの生涯の窮乏に反して。現実逃避ではなく、それらはまさに彼の現実と等価のものだった。私たちは、失った分だけ、取り戻そうとするのだろうか。死を目前にしてもなお、駆り立てられ続けるだけだというのに。                 
HOUSE OF SHISEIDOにて開催中