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March 27, 2006

『グッドナイト&グッドラック』ジョージ・クルーニー
須藤健太郎

[ cinema , sports ]

 前作『コンフェッション』でもアメリカ政府という巨大な組織との葛藤がテレビという新興のメディアを舞台に描かれていた。そこにはキャスターの父を持ち、一時は自身もそれを志したというクルーニーの個人的な憧憬が投影されているのだろうが、前作におけるチャーリー・カウフマンによる脚本のその複雑さとはまったく逆に、クルーニーは『グッドナイト&グッドラック』では単純なストーリーと単純な構造を獲得している。ほとんど顔色ひとつ変えないで仕事をこなしていくマローにも似て、どこか落ち着いた身振りとでも言うべきものがこの映画には見出せるような気がする。シーンとシーンをジャズシンガーの登場によってある意味強引に繋ぎ合わせていくその手法も、この映画の雰囲気作りにひと役買っているのだろうか。
『グッドナイト&グッドラック』は、赤狩りの席巻する時代を背景に、マッカーシーに正面から戦いを挑んだエド・マローというひとりのキャスターを中心に据えた「伝記映画」なのだが、この映画が描くのは、エド・マローのごく限られた一面にすぎない。この映画が描くのは、マッカーシー批判の番組の着手からその番組を追われるまでの約5年間。つまり、国家権力の濫用に対抗するその姿に焦点は合わせられている。テロの恐怖に怯え保守化していく現在のアメリカに対する批判的な意図もおそらくはそこにあるのだろうか。当時のニュース映像を挿入し、それとの対話を試みるこの映画は、過去との対話を不可避のものとしている。単に過去の映像としてそれを流すのではなく、演じられるマローと当時のマッカーシーが映像のレベルで対話を交わすのである。
 しかし果たしてこの映画は当時のアメリカ政府の働いた愚行を告発しようという意図をもって作られた作品なのか。あるいはそれこそ、ケント・ジョーンズが言うように、安定した作品を送り続けるセクション・エイトのその機能ぶりをここに確認すべきなのか。『トラフィック』の脚本を担当したスティーヴン・ギャガンによる『シリアナ』もまたセクション・エイトの作品だが、これは『ミュンヘン』と同様、最後にすべての問題が家族のもとへと収斂していく映画だった。

GW、ヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー