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August 30, 2007

『長江哀歌』ジャ・ジャンクー
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 やはりこの映画作家は風景と遭遇したとき、その才能をもっとも発揮するようだ。前作の『世界』は、確かに批評のレヴェルでは見事なものだったし、ユネスコ村のような風景は、決して世界の縮図にはなれない「世界」でもあったのだが、やはり、そうした物語の構図が風景に先立っているように見えた。だが『長江哀歌』では、なんといっても長江が圧倒的だ。もちろんぼくらには長江という固有名よりも揚子江と言われた方がぴったりくるが、それでもチベットに水源を持ち、東シナ海に流れ込む全長6300キロの大河は、たとえそこに何も起こらなくても映像になるだろう。
 そして、ジャ・ジャンクーは、もちろん単純にそうした風景と戯れているわけではない。世界最大の水力発電所になるはずの三峡ダムの建設の問題と、それに伴う多くの問題がこのフィルムの風景の変容を支えていることになる。天安門事件の首謀者のひとりがこのダムの建設反対論者であり、ウィキペディアによれば、胡錦涛や李鵬は発電技師の出身であり、このダムの建設を強力に推し進めているというから、三峡ダムの問題と長江の風景は、現在の中国を表象するもっとも重要な問題になっている。水没する街、破壊される建物、崩壊する家族、そして変わっていく地域と国家──極めてジャ・ジャンクー的な問題がこの風景の中に潜んでいることになる。そうしたとき、映画作家にとって、この圧倒的な風景を前にして、その風景に畏怖を感じ、敗北を覚悟してその巨大な風景にキャメラを向けるだけでは十分ではない。そこに適切な物語と登場人物を配置し、そうした人物たちが繰り広げる物語が、目の前の巨大な風景を異化させるという知的な作業を行わなければならない。
 妻を捜す夫と夫を捜す妻がこの地にたどり着き、結果的に、夫も妻も所期の目的を達することになるが、三峡ダムが着々と建設されていくように、時刻を元に戻すことはできない。再会するまでの時間を忘れることはできない。まさか変わることがないだろうと思われたこの大河の風景が一変するように、家族という人間関係を支える最小単位が音を立てて崩れていく。しかし、いったい何のために?
 もちろんこのフィルムにその解答が用意されているわけではない。ジャ・ジャンクーは、登場人物、物語といった知的な作業の後に、静かに長江の流れにキャメラを向けるだけだ。


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