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June 24, 2008

『イースタン・プロミス』デヴィッド・クローネンバーグ
高木佑介

[ cinema , sports ]

 床屋で男が豪快に首を掻っ切られる光景を観て、まだ記憶に鮮明に焼き付いている『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』を思い出した。ティム・バートンと同じく、クローネンバーグの新作もロンドンがその舞台となっている。そして『イースタン・プロミス』の始まりを告げるべく男の首を掻っ切ったのは、もちろんジョニー・デップではなく、ロシアン・マフィアと関係を持つ怪しい人間たちである。
 このフィルムにおいて、ロンドンの街は—当然ではあるが—ティム・バートンのそれとはまた違う異彩を放っている。夜の街に降る雨は街頭に照らされて、重厚的な黒をスクリーンに現出させ、陽が上っている時間帯でも路上には雨の痕跡がじっとりと残り消えることはない。路地で交わされる会話の後ろでは、くすんだ建物や空が横たわり、観る者の視界からパノラマを奪いさっていくだろう。どこか閉鎖的で、周りから切り離されたような空間がここには息づいている。それはかつてクローネンバーグが『スパイダー』で映したロンドンとも異なる呼吸をしていると言えるだろう。なにしろ、このフィルムではたしかに人々がその街で暮らしている光景が見えるものの、画面に大きく映されるのはほとんどがロシア系、東欧系の人間たちなのであり、訛りのある英語とロシア語が当然のように飛び交っているのである。
 この映画では一人の少女の日記が、スコリモフスキ演じる男によって翻訳されていきながら、少しずつ彼女自身の死への経緯を明らかにし、そしてロシアン・マフィアによる東欧系売春婦たちの支配が垣間見えてくる。私の名前はタチアナ・・。彼女は故郷を捨て、ロンドンへと到った経緯を死者の声として、我々に伝えていくだろう。レイプ、注射針、ヘロイン。娼婦となった少女の消え入るような声はナオミ・ワッツ演じる助産婦アンナがそのロシアン・マフィアの世界に深入りしていく過程と共振するかのように現れる。というよりむしろ、アンナに限らず組織の運転手であり葬儀屋でもあるニコライも、ロンドンで生まれ育ったために情緒不安定なゲイになってしまったとささやかれるキリルも、そしてこのフィルムも、汚く濁ったテムズ川の水にずぶずぶと沈んでいった死体袋のように、ロンドンとロシアの間を揺れながら、裏社会などという言葉では言い表せない底知れぬ深みにはまっていくかのようだ。
私の名前はタチアナ・・。最初に読まれた日記の冒頭が、こだまするかのように最後でも再び響き渡る。そこにはかつてのボスがいた席で、同じようにウォッカと新聞を手前に置きながら、押し黙った一人の男が映し出されるだろう。タトゥーを身体に刻み込み、ナイフで切られた痛々しい傷を作りながら、この男はいったいどこに行き着くのだろうか。そういえば『ヒストリー・オブ・バイオレンス』も似たようなカットで終わっていたはずだ。クローネンバーグ自身も、このタトゥーを身体中に刻み込んだ男のように、深い深い映画の世界に身を沈めていっているかのようだ。

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