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February 4, 2009

『グラン・トリノ』クリント・イーストウッド
高木佑介

[ cinema , cinema ]

 脚本を読んでイーストウッド自身も思ったそうだが、かつて彼が撮った作品を駆け巡るかのように、この『グラン・トリノ』はそのどこにあるとも知れない場所——だが、どこにでもありそうな世界——を、私たちの目の前に広げていく。『センチメンタル・アドベンチャー』、『許されざる者』、『パーフェクト・ワールド』……。ポーチに腰かけ缶ビールを飲み干すウォルト・コワルスキー(=イーストウッド)が時折語る自身の経歴は、同じく朝鮮戦争帰りの英雄であった『ハートブレイク・リッジ』のハイウェー軍曹の姿さえ思い起させる。かつてイーストウッドが『アウトロー』のときに体得していた“唾吐き”も、どうやらまだ顕在のようだ。
とはいえしかし、この『グラン・トリノ』の舞台は西部の荒野でもなければ、サンドバックを殴る音が響くボクシング・ジムでもない。代わりに映し出されるのは、映画を推し進めるためのおよそほとんどのやり取りが執り行われてしまう、近所の家の軒先やその周辺いう何ともミニマムな場所なのだ。それがこの映画の舞台であり、ビールを飲みながら愛車の「グラン・トリノ」を眺めるウォルトが余生を送る場所であり、そしてイーストウッドと出会ったモン族の少年タオの教育の場でもあるだろう。庭と庭の堺を行き来するということ、ドアの敷居をまたぐということ、隣人の家の軒先に足を運ぶということ。何となしに積み上げられていくそれらの行為が、老人ウォルトの世界を変え、少年タオの世界を変え、生きるということ死ぬということの物語を語るプロセスになっていく。はじめは愛車を盗もうとしたことの罪滅ぼしであった労働が、次第しだいに少年タオの個を形成し、自立性を獲得させていくプロセス。頑固で誰も庭に寄せつけようとしなかったウォルトが、次第しだいに周りの世界を受け入れ、互いの存在を認め合っていくプロセス。そうしたプロセスが積み重ねられていったとき、もはやそこには人種や文化の違いという堺も、血縁の関係というコミュニティも越えた世界がこの『グラン・トリノ』には広がっている。クリント・イーストウッドはそれらすべてを、このミニマムな舞台と単純な行為に凝縮させて描いてしまっている。俳優引退だとか、79歳という数字だとかが孕む響き以上に、イーストウッドが見つめるこの世界は、彼が歩んできた長い長い時間の片鱗を、見る者にたしかに垣間見せてくれるかのようだ。
映画館の座席に座りながら、『グラン・トリノ』を見る私たちの目の前を流れて行く風景と時間。それは、ウォルト=イーストウッドがずっとずっと丹念に磨き上げてきたという72年製——彼が監督としてデビューしたのもそれくらいだろう——「グラン・トリノ」に乗せてもらったときに見える光景と、案外似ているのかもしれない。