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February 15, 2009

『ザ・クリーナー 消された殺人』レニー・ハーリン
渡辺進也

[ cinema , photograph ]

 一見するとひどく平凡な映画にみえる。昨今のサスペンス映画につきものの、「ラスト6分40秒、この罠は見抜けない」といった宣伝文句を見るとジェームズ・フォーリーの『パーフェクト・ストレンジャー』のような作品を思い浮かべてしまう。しかし、もしそうした点からこの映画をみるとひどくつまらない映画のようにみえるのである。この映画のラストの、観客をびっくりさせるような度合いは非常に低い。これをサスペンス映画とみるならば決してうまくなど行っていないのだ。もっとちゃんと伏線をはらなきゃだめだし、その伏線をあんなに放りっぱなしではラストの何分かでちゃんと作品としてオチがつかない。ストーリーテリングとしてはうまくいっていないのである。
 こうやって書くと、この映画はあの豪華なキャストでありながらアメリカでは公開されずにDVDスルーだったそうだけれどもそれが当然であるようなまるでできの悪いサスペンス映画なのだ、と書いているようにみえるのだと思う。だけれども、違うのだ。僕はこの映画を興奮して見たのだった。
 もしこの作品において最初からストーリーテリングなど放棄されているのだとしたら?最後のとってつけたようなラストがただ映画を終らせるためだけの仕掛けにすぎないとしたら?そのときここで特異としか思えない事柄が起こっていたとしか思えない。もしあのラストが映画を終わらせるための仕掛けに過ぎないのだとしたら、この映画の90分強という時間は何の根拠もないとりあえずの時間でしかない。それならば120分でも良いわけだし、180分だって構わない。そして、むしろそっちのほうが見たいと思わせる。この映画が終着点に向かって予定通り動き出したときにもう終わりなのか、もっと見ていたかったのにな、とちょっと残念な気持ちになったのだ。
 この映画にはストーリーを語ることへの躊躇がみられる。何者かの策略によって死体現場を隠蔽してしまったサミュエル・L・ジャクソンは自分を事件に関らせた人物を探そうとする。だが、本当に探そうとしていたのか。そのヒントとなるはずの警察の隠蔽も、エヴァ・メンデス演じる死体となった男の未亡人とサミュエルの協力も、ケリー・グラントの映画ばかりテレビで見ているサミュエルの娘も、サミュエルの過去も何らこのストーリーには関係を持ってはいない。最初に事件が起こる。そして最後に解決する。というこの2点を除けば、他で描かれるのはその大きなストーリーの余韻を受けたまま他のストーリーを語っているようなものなのだ。まるでサミュエルの巻き込まれた事件とまるで関係があるようにここでは演出が行われる。つまり、突然よくわからない俯瞰ショットが挿入されようと、水が流れる水道のクロースショットが描かれようと、そのことは事件に関係があるようにみせて何の関係もないのだ。そのことがこちらを興奮させる。まったく関係のないことをあたかも関係があるようにみせるその演出に。そしてそのサスペンスとしての要素をみているこちらに持続させる演出に。やはりレニー・ハーリン只者ではないなと。

 いまたまたま読んでいる本に懐かしい文章が引用されていたのでその文章で終わりたい。これは演出について書かれた文章である。

「つまり私が言おうとしているのは、大部分の映画作家は、たとえかれらの映画の物語がどんなに大きな広がりのなかで展開されるものであっても、自分の演出を自分のセットの広がりのなかでしか考えていないということである。それに対してアストリュックはどうかと言えば、彼は反対に、シナリオが必要としている地域の全域、それよりも広くも狭くもない全域において自分の映画を考えたという印象を与えている。(略)事実、困難なのは林を見せるということではなく、ある居間を、その眼と鼻の先に林があることがわかるように見せることである。そしてさらに困難なのは、海を見せるということではなく、ある寝室を、そこから七百メートルのところに海があることがわかるように見せるということなのだ」『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』「別のところに」

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