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May 30, 2009

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 恵みの居場所をつくる
梅本洋一

[ architecture , music ]

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズが日本の建築史に果たした役割は大きい。山の上ホテルや明治学院礼拝堂など見たことも入ったこともある彼の建築がぼくにもずいぶんある。近江八幡と彼との関係は、それなりに知っていたが、メンソレータムの近江兄弟社がヴォーリズと深い関係がある──というか、ヴォーリズ建築事務所がその主体の一部だったこと──は知らなかった。
 YMCAや教会建築、そして関西学院や神戸女学院などの学校建築、そして住宅や軽井沢の別荘群など、ヴォーリズが本当にたくさん仕事をしていることが、この回顧展を見てよく分かった。近江の商業高校の英語教師として来日に、キリスト教布教活動に専心したから、彼が建築家になってからの仕事には、東洋英和を始めとするミッション・スクールや教会が多いのも理解できた。
 ヴォーリズの建築は、同時代の日本人にとっての西洋そのものだったのではないか。スペイン風の住宅や別荘、日本間もある和洋折衷の建物の中の応接セットと暖炉──それらは日本人の目から見た西洋建築の記号になっている。洋館と言えば、この回顧展にある朝吹邸のようなイメージだ。子爵の娘と結婚し日本に帰化したほどの「日本の建築家」だったヴォーリズは、その意味で、日本における外国人の役割を十二分に理解している。言葉を換えれば、ヴォーリズの建築は、日本という風土が生んだ西洋という非常に限定的なものであって、だから、彼の建築はヴァナキュラーなものなのである。施主側からの要求に見事に応えるかたちで、日本の中に次々に「西洋」を生み出していったのが、ヴォーリズだったのだ。
 だから──これは重要なことだが──ヴォーリズとアントニン・レイモンドは異なる。ライトの助手として旧帝国ホテルの設計に携わり、日本にそのまま残ったレイモンドは、日本の西洋を実現したというよりも、彼がもともと備えていた建築の理念を日本の風土と合わせていったというに思えるが、ヴォーリズは、キリスト教徒であり建築を業とする自分自身の枠から逸脱することはなかった。
 今、多くのヴォーリズ建築が失われようとしている。たとえばこの回顧展のカタログには、エッセイストで東洋英和出身の阿川佐和子の文章も載っている。東洋英和もいわばファッサード保存の形で残るには残ったが、その中身は失われてしまったからだ。だが、ヴォーリズの東洋英和とレイモンドの東京女子大はやはり異なる。どうしても建築の価値について語らねばならない。古いものを何でも残せばよいというわけではない。ヴォーリズ的な「西洋」とは、もはやノスタルジーの対象でしかないのではないか。ヴォーリズの住宅の仕事の一覧を見ていると、朝吹邸を始めとする戦前戦後の財閥系の人々のそれが多い。長屋に蠢くように暮らしていていた日本人が主流だった当時、軽井沢にスペイン風の別荘を建て、都心には芝生に囲まれた洋館を建てていたわけだ。確かにヴォーリズの大丸心斎橋店は、悪くないが、高橋貞太郎の日本橋高島屋の方がいい。少なくとも時代の空気と細部の装飾を一致させている。もちろん、まだ結論を出すには十分な考察を経ていないことを知りつつ書くのだが、ヴォーリズ的な「西洋」は少なくともぼくにとって不要なものだ。とりあえずそう書いておこう。この問題は、引き続き考察しようと思う。

2009年4月4日(土)~6月21日(日)汐留ミュージアム