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October 8, 2009

『リミッツ・オブ・コントロール』ジム・ジャームッシュ
安田和高

[ cinema , cinema ]

 ティルダ・スウィントン、工藤夕貴、ジョン・ハート……と、じつに世界各国さまざまな俳優が登場する『リミッツ・オブ・コントロール』は、しかしけっきょくのところサングラスをかけていない者同士——つまりイザック・ド・バンコレと、ビル・マーレイ——の一騎打ちの物語である。ほとんどの登場人物がサングラスをかけているなか、そのふたりは透明な目で世界を捉えている。宇宙には——と、劇中で工藤夕貴は言うのだが——“中心も、端もない”。しかしわれわれはそこに“中心”を仮構し、“端”を位置づける。そうやってシステム化することで「世界」をコントロールしようとするのだ。そのようなシステムの内側にいるかぎり、世界はつねに色のついたガラスを通してしか見ることはできない。真理とは——これまたガエル・ガルシア・ベルナルの台詞にあるように——“想像上の産物”にすぎないのだ。そんななかイザック・ド・バンコレとビル・マーレイだけは、もちろん彼らとてシステムの枠内にあるのだが、そのことに自覚的である。ひとりは自分を厳しく律し(コントロールし)、もうひとりは他人を厳しく従わせる(コントロールする)。ひとりはコントロールを超越していき、もうひとりはコントロールを徹底させる。完璧にコントロールされたシステムに守られているビル・マーレイに、イザック・ド・バンコレはただひとつ想像上の産物にすぎない真理を武器に対峙する。
 そこで絵画は現実へと溶け出すだろう。時はゆるやかに引き延ばされ(ハイスピード・カメラで撮られた映像がすばらしい)、さまざまなイメージが錯綜しはじめる。鏡像と実像、反復されるセリフとアクション。そのそれぞれがフィードバックし合って徐々にコントロールし得ない世界が形成されていく。想像上の産物こそが真理なのだ。
 そしてイザック・ド・バンコレがスペインの山の中にある廃墟に足を踏み入れた時、ついに鏡像と実像、イメージとイメージが共鳴する。その廃墟で彼は裏切り者であったかもしれない女——裸に透明のレインコートを羽織り、仲間内ではただひとりサングラスではなく透明なメガネ(!)をかけていた女——の手からラスト・メッセージを受け取る。さらに完璧にコントロールされているかに見えたシステムを、想像力を使って、いとも易々とくぐり抜けると、“自分こそ偉大だと思っている男”ビル・マーレイの隠れる要塞の深奥に到達する。それは工藤夕貴が語っていたように「“分子”を再構成する」ことではじめて可能となるような移動であったのかもしれない。また彼のポケットには1本ギターの弦がしのばせてあるのだが、それはガエル・ガルシア・ベルナルが作ると言っていた弦が1本しかないギターのものだったかもしれない。
任務を全うしたイザック・ド・バンコレが最後に美術館で凝視する絵画(アントニ・タピエスの「Gran Sábana」)。白い布が貼り付けられたキャンバス。そこに彼はいったいなにを見たのだろうか?
 スクリーンを前にしたわれわれはひとつのメッセージを受け取る。
 no limits no control


シネマライズ、シネカノン有楽町2丁目、新宿バルト9、シネ・リーブル池袋 他にて全国ロードショー中

nobody 31号にてレヴューを掲載。