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December 4, 2010

『海上伝奇』ジャ・ジャンクー
増田景子

[ cinema ]

 喋り声、物を売る声、テレビやラジオの放送音、中華鍋で炒める音、食器がぶつかる音、椅子やテーブルのぶつかる音、麻雀牌の音、歩く音、車のエンジンをふかした音、けたたましいクラクションの音――。
 賈 樟柯の新作である『海上伝奇』からは、まるで上海にいるかのごとく音が鳴り響く。路地にも、店内にも、どこでもかしこでもあらゆる音が鳴り響き重なり合って存在しているのだ。それらの音に私は感動を覚える。というものの、映画の音は編集され映画に必要なものが取捨選択されて流されているため、先ほど並べたような音は状況説明や効果として流れることはあるものの、たいがいは俳優のセリフをかき消し、観客の集中力を奪うものとして、いわゆる映画が主体的に発さずに存在している音は雑音〈ノイズ〉として、最小限しか流されず、最低限の音量に抑えられる。よって、他の中国を舞台とした中国映画からは騒々しい中国は一部のシーンで顔をのぞかすだけであるが、賈 樟柯の『海上伝奇』は常に騒々しい中国がスクリーンに存在しているのだ。

 私もかつて香港を訪れたことがあるが、実際にそれらの音、いわゆる雑音が街を満たしているといっても過言ではない。雑音は夜も明けぬかどうかの早朝かに始まり、夜は時計の短針が12を過ぎても続いているのだ。がおさまるのは深夜の僅かな時間帯だけ。もし、それらの音を逃れたいと思うのならば、農村へ行くか、広大な敷地を持つ外界から遮断された高級な場所へ行くのがいい。(いくら高級ホテルでも車の行き交う通りに面していてはガラスを伝って音が漏れてくるのだ。)
 滞在し始めは違和感を覚え、私の母なんぞは五月蠅くて眠れないなんて言っていたが、その環境に四六時中身を置いていると慣れるもので、数日経つとそれが街の一部として受け入れている自分がいた。いやそれでも、中国はここ数年で近代化がかなり進んだため、幾分かは静かになったのだと思う。というのも、中国以上にまだ近代化の波に飲み込まれきっていないベトナムは、室内でじっとオフィスワークなんて人は存在していないのでは、なんて思うほど日中も歩く人、物を売る人、人、人、人、人が路地にあふれ、それに比例して音も、耳を澄まさなくとも幾種類もの音が飛び込んでくる。音量も種類も中国の倍の雑音が存在した。
 それを踏まえて観た時、『海上伝奇』の雑音がきちんと編集され、意図して流されているものだということを発見するだろう。
 それを一番に感じたのは料理店の中だ。店内に流れる音楽や食器のぶつかる音など、中国の周りの音にかき消されてテーブルの向い側に座っている人の声すら聞きとりにくいはずなのに、一部の喋り声の優先を上げて、その他の音は押さえて流されている。面白いのは、その喋り声も映画における雑音なのだ。つまりは、賈 樟柯は映画の雑音すらも編集して賈 樟柯の雑音にしているということなのだ。他でもそれを感じるところがある。船上や店内の様子が映されている時に流れている雑音は大半が、画面の中の音ではないオフの音なのだ。その証拠に耳に入ってくる話し声と画面に映る人たちの口の動きは一致しない。音と画面の乖離。しかし、乖離と言ってもその環境で流れる雑音なので違和感はない。その代わり賈 樟柯が雑音を編集しているということを教えてくれるのだ。
 それらの音と対比的なのが、工事現場やホテルなどで椅子に座り、各々の記憶を語るシーンの音である。それまで雑然としていた音の層は消え、音声以外の雑音は除外されて、明確に語る声が響いてくるため、自然と耳がその語る声に集中してしまう。
 さらに、賈 樟柯の雑音術はとどまる事を知らない。雑音の上に音楽を重ねる。その上に、効果音のような、雑音でもなければ音楽ともいえぬ音を更にその上に重ねる。雑音だけでも何層にも重なっているのに、その上に更に音を重ねることで、音の地層が出来上がっているのだ。この映画で語られる歴史を想起させる程の厚みであり、それによって、画面全体も音的に透明度がどんどん下がり、雑音も雑音と呼べない音に昇華されている。
 賈 樟柯と雑音ということはたびたび語られることであるが、『海上伝奇』を観てさらにそれを語る価値を強く感じさせられたのであった。


第11回東京フィルメックスにて上映