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August 3, 2012

『アメイジング・スパイダーマン』マーク・ウェブ
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

おそらく前シリーズと『アメイジング〜』との最大の違いは、ピーター・パーカーの父の存在だ。いや前シリーズだけでなく、幾度となく繰り返されてきたスパイダーマンのリメイクにおいて、これほどまでに父親の存在がクロースアップされたスパイダーマンはないだろう。たとえばサム・ライミ版では彼はあらかじめ孤児なのであって、そのことを改めて思い出させるかのように伯父は死ぬ。ピーターに力を与えるクモにしたって、ほとんどただの事故だ。だが『アメイジング〜』では父親の姿が映画の冒頭で克明に映し出される。それどころか、彼に力を与えるクモもまた間接的に父親からのギフトなのである。そして伯父もまた父親と共通した一部の遺伝子情報を持つ肉親として描かれ、冒頭に出現した父親像は全編に渡ってその似姿を増殖、拡散させていく。父のかつての共同研究者であり師のような役割を担う科学者、恋人の父親である警部、さらには父の形見であるウェリントン眼鏡、クモの糸、数式までが映画の始めから終わりまで、観客に対して父親のイメージを複製していく。
 そのことはライミ版のトビー・マグワイア=ピーター・パーカーと、ウェブ版のアンドリュー・ガーフィールド =ピーター・パーカーとのキャラクターの違いにも影響を与えている。青白い顔をした眼鏡のみなしごギーク、ピーター・"トビー"・パーカー と、多少サブカル寄りではあってももっと健康的で「秘密」を持たないスケーターであるピーター・"アンドリュー"・パーカー。アンドリューにはトビーのナードな感じがまったくない。自らがここに不当にも存在しているというやましさがない。個人的には、奇妙な能力を世襲的に継承するアンドリューよりも、みなしごになることで発見するトビーの方が好みではある。だが、だからといってアンドリューがスパイダーマン失格なわけでもなく、彼は彼なりに別種の困難を生きなければならない。
 「秘密」は命取りになるという伯父の忠告を守り、あけっぴろげに戦う『アメイジング〜』のピーター。トカゲ男との戦闘中の、およそ半分ほどはマスクをつけずに戦っているというあけっぴろげぶり。ところがその開放感と反比例するかのように、彼の能力は広々とした空間よりも、窮屈な場所でこそ発揮されているように見える。彼が獲得した能力の試運転を行うのは、大都会の闇が吹き溜まる路地裏などではなく一個の倉庫なのだし、トカゲ男との対決で優位をしめすのは、大きな敵の股座や脇の下をくぐり抜けるという動作によってだ(そのために学校の狭い廊下や天井が効果的に機能する)。ライミ版のスパイダーマンが、摩天楼を自分の手足の延長として使う躍動感を武器とするのとは対照的といえるかもしれない。
 秘密を持たない自由なピーター・パーカーが、なぜスパイダーマンとしてはそれほど運動の自由を持ち得ないか。それは彼が秘密を持たない代償として、様々な契約、それも父権的な契約に縛られているからだろう。この点でnobody issue 37の「世界のすべてをふりかえるために」で小出豊が手足の数を問題にしているのは正しい。複数の父の分身が住む社会との契約によって、ピーター・パーカーは8本あるはずのクモの手足をもぎ取られている。それがもっとも印象的なのは、彼が最後の戦いの場たるタワーを視界に納めながら、そこまでの距離の遠さに無力感に打ちのめされる時だ。彼はまたもうひとり別の父親と対決の結果として、脚を一本もぎとられている。本来ならば手足の延長となるはずのニューヨークという都市に、無限の距離感を覚える。注記すべきなのは、ここで彼を助けるのもまた「父親」だったことだ。
自らの命を救ってくれた父親たちが、遺産として残した契約に絡めとられたピーター・パーカー。まるでクモの糸に自らからまったクモのような彼が、次作以降、どうやって「契約」と「秘密」と「自由」をつなぎあわせていくのか。そこが楽しみだ。


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