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August 10, 2012

『親密さ』濱口竜介
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

 当然だが、電車が走る線路というものは平行して進むふたつの線からできている。この映画のタイトルである「親密さ」とはその線路みたいなものなのではなかろうか。ふたつの長い長い線を、どこまでも離れず同じ距離で寄り添って走るものだとみなすのか、それともどこまで行っても決して交わらないものだと見るのか。それだけが親密さを巡って問われる唯一の事柄なのであって、そのことに比べれば実際にふたつの線の間にある距離など、判定の基準にはならないのかもしれない。
 前半部が演劇製作、後半部がそこで製作された劇中劇を映すという構造の点では『何食わぬ顔』に、登場人物の間で交わされる会話の内容が暴力や感情を巡っているという点では 『PASSION』に、またドキュメンタリー的な対話を人物の真正面から切り返すという手法の点では『なみのおと』(未見なのだが)に、それぞれ共通した部分を持つ4時間半の大作である『親密さ』。これを濱口竜介の現時点の集大成だとか、これ以後のターニングポイントだとか、いろいろ言いたくなる衝動に駆られる。でもたぶんそうしたことでもないかもしれない。ただ、おそらくこれまでのキャリアよりもこれからのキャリアの方が映画史において大きな意味をもちうるだろう、将来性に満ちあふれたまだ若い監督に対する「レトロスペクティヴ」といういささか倒錯的な試みの中心に、この作品があることはまず間違いない。私はまだこの作品を十分に消化できている気はしないし、少なくとも半年かそこらはこの映画について考えを巡らせ続けるだろう。
 『親密さ』は、そのタイトルからして一目瞭然であるように、人と人との関係性を問題にしている。なにかとなにかの間である。そしてそれは物理的に、後半部分の舞台上で、人物と人物の距離、配置、それを巡る編集として問われている。それと同時に、人と人との媒介となるものとして言葉が直接的に問題の焦点になってもいる。劇中劇の登場人物のひとりは「詩人」だ。それに先立つ前半部には、(演出家とは別の人物としての)脚本家が登場する。濱口作品をひとつでも見たことのある観客であればわかるように、濱口はこれらの人物をその他の人物から切り離して、際だったやり方で扱っているわけではない。しかし私はこれらの人物に、これまでの他の登場人物たちとは違った何かを見た。
 もちろんこれまでも、濱口作品の中心の周りを、言葉は常に旋回してきた。『PASSION』という、なにか人間の内面、奥底に潜むものを想起させる言葉をタイトルとする映画でも、感情や秘密といった人間の「中」に隠されたなにかを追い求めるそぶりの中で本当に浮き彫りになってくるのは、なにかとなにかの間、そこを埋める言葉と空間の方だった。PASSIONはいずれかの登場人物の「中」に見つかるものなどではなくて、常に彼らの間に、あるいは彼らとそれを見る私たちの間に、生起する。
だが『親密さ』を見ていて思ったのはある種それとは真逆のことであった。まさに関係を、人と人との間を埋めるなにかを巡るこの映画で、私は逆に役柄そのものに興味を抱いてしまった。具体的には「衛(まもる)」という役柄を担うことになるふたりの人物だ。彼らは冒頭に書いたたとえで言えば、「平行線とは決して交わらないふたつの線である」という定義を証明する人物たちのようである。彼らはほとんど同じ軌道を描きながらも、初めに位置取った座標の違いから、混じり合うことができない。そこで、「人が変わる」「人を変える」といったやりとりが、彼らを中心としてわき上がる。ある線が軌道を変え、あるいは他の線の軌道を変えることで、人ははじめて関係を持つことができるのではないか。それが前半部における対話の中心にあることであろうし、また後半部の劇中劇の中で主題となっている事柄であろう。だが『親密さ』が奇妙な点は、このほとんど同じ事柄を巡る前半と後半のふたつの部分の接続の仕方にある。たとえるならば後半部をある種の「奇跡」として成立させるために行われる労働の記録がこの映画の前半部をなすわけだが、前述したように、前半部は後半部とほとんど同じ軌道を描き、しかも前半部を生きる登場人物たちは全員が全員「このままではいけない」と感じている。そこで考えられるひとつの解決手段は、「このままではいけない」前半部の軌道を変えて、後半部に接続させること、あるいは予定された後半部の軌道を変えて、前半部に接続させること、だろう。だが濱口竜介の選択は、そして劇中劇の演出家役を担う平野鈴の選択は、前半部と後半部とを「そのままつなげる」ことなのだ。そしてそのことによってある種の「奇跡」が(『PASSION』の中で河井青葉が語る意味での「奇跡」だ)、確実に起こっている。
 誤解を招かぬように詳述すれば、この映画が行っているのは、「平行線とは決して交わらないふたつの線である」という定義をそのまま肯定することではない。たしかに、劇団員の脱落、恋人の別れ、友人との別離などが語られるこの作品を通じて、人と人との分岐こそが逆説的にそれ以前の「親密さ」を復活させるというふうに見えなくもない(その分岐のあり方があまりに美しいから)。だが、濱口竜介と平野鈴が行っているのは、平行線を平行線のままに「親密さ」に変えることなのだ。決して交わらない線をねじ曲げて交わらすことでも、同様にその線を引き離すことで相対的に以前の近さを仮構するのでもなく、そこにあるふたつの線をそのままに、「どこまでも寄り添っている」と定義づけることなのだ。
 だからこそ、自分自身は以前の集団から分岐していきながらも、言葉を巡って平行線を平行線のままで親密さに変える作業に深く関わっている「衛」役のふたりの人物に、私は惹かれたのだろう。


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