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October 20, 2013

『ウルヴァリン:SAMURAI』ジェームズ・マンゴールド
高木佑介

[ cinema ]

 公開から時間が経ってしまい、遅きに失してしまったが、このジェームズ・マンゴールドの最新作について、と言うよりも、思い返してみれば何故か全作品に付き合ってしまっている「X-MEN」シリーズについて主に。
 ブライアン・シンガーらが手掛けた本筋の「X-MEN」三部作はまったく面白くなかったのにも関わらず、そこからスピンオフした『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』(09、ギャビン・フッド)、その後に続く『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(11、マシュー・ヴォーン)、そしてこの『ウルヴァリン:SAMURAI』と、スピンオフ後のこのシリーズはどんどん面白くなっていくから、何とも不思議な企画である。人間をめぐって、言ってみれば中道派ミュータントVS過激派ミュータントの構図が前面に出ていた感のある本筋から、その支流としてあった悩み多きミュータントたちの「個」のほうにクロース・アップされていったことで、見せるものが単なる超能力合戦だけではなくなり面白くなっていった、と大匙ながら言えばいいか。実際このミュータントたちは、今作のウルヴァリンのように、長崎(実際に撮影ロケ地として使われたのは尾道近くの鞆の浦、『崖の上のポニョ』のモデルとなった場所)で原爆は経験するわ、手から爪が出るというだけで恋人を殺してしまうはめになるわ、はたまた強制収容所で自身の磁石能力に開眼するわで、それぞれが何らかの十字架を背負わされている人々なのである。まさに歴史や社会の暗部を担わされた存在、それがミュータントだろう(原作は読んでないけれども)。
 それと同時に、このスピンオフ・シリーズは監督の選定にもひどく気を使っているようにも思える。『ツォツィ』(05)を撮った南アフリカ出身の監督ギャビン・フッドを初めに抜擢し、その次は『キック・アス』(10)のマシュー・ボーン、そして今作でまさかのジェームズ・マンゴールド。要するにそれは、マーヴェル・コミック作品がよっぽど現在のアメリカ映画で大切にされているからこそなのだろうが、やはり今作がとりわけ痛快なのは、マンゴールドがこの「X-MEN」シリーズに何の思い入れもなさそうに撮っているあたりだろう。「ニンジャ」や「ヤクザ」はわんさか出てくるのに当のミュータントがふたりしか出てこないのが、エキゾチック・ジャパン映画の雰囲気を纏った今作の奇妙さに拍車をかけているようにも感じられ、ウルヴァリン=ヒュー・ジャックマンを日本に呼び寄せる病気の老人が横たわるSF的なベッドも、まるで後から初期設定を思い出し慌ててCG加工してみたかような場違いな小道具にしか見えない。まるでスピンオフがスピンオフして独り歩きをしているような作品に見受けられるのだ。
 いや、しかし、ここまで書いたことはともかくとして、今作の中盤で展開するあの時速500キロで走る新幹線の上で戦う圧巻のシーンはどうだ。ミュータントもヤクザも、それぞれの目的や背負わされたものを超えて、ただ車両から振り落とされないよう必死にへばりつくしかないあの状況、あの描写。車上の戦いは鋭い爪とナイフの小競り合いから、いつしか迫りくる障害物を回避するのに適切な位置をめぐるポジショニング争いとなり、そして最後は対峙するお互いの視線と身体の動きを動物的に探り合いながら障害物を避け続ける、というシンプルな様相を呈してくるあたりは、最近の作品であれば何やら『アンストッパブル』(10、トニー・スコット)の穀物が顔にピチピチと飛んできて、ただ顔を手で覆うことでしかやり過ごすことができないでいたあの場面に近いように思える。『アンストッパブル』の列車が「重量」を如実に表していたとすれば、この『ウルヴァリン:SAMURAI』の新幹線は「速度」を体現していると言えばいいか。特別な力を持ったミュータントも、決してそうではない人間も、その「速度」に耐えられずに振り落とされたら負け。何とも単純明快だ。もちろん、この場面だけで『ウルヴァリン:SAMURAI』を支持しているというわけではないが、でも、あれは良かった。

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