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October 30, 2013

『華麗なるギャツビー』バズ・ラーマン
結城秀勇

[ book , cinema ]

「アメリカでは身元不明の死体を「ジョン・ドー」と呼ぶが、身元不明の生者を「ジェイ」と呼ぶのかもしれない」。そう樋口泰人は爆音収穫祭で上映の『マーヴェリックス』について書いたが、未見だったもうひとつの「ジェイ」の物語を見る。しかも音楽と製作にはJay-Zが名を連ねている!
それにしても、ジェイ・ギャツビーほど、「身元不明の生者」と呼ぶにふさわしい者はあるまい。ドイツの皇帝のいとことも暗殺者だとも噂される正体不明の大富豪。彼が毎週末に開催する巨大なパーティには、NY中からあらゆる社会階層の老若男女が集まるが、そのうちの誰も会場で彼の姿を見たことがない。その過去には中傷まじりの憶測だけが飛び交っている。そして実際に観客の前にジェイが姿を現すシーンの、背景の花火と画面の中心にいるギャツビー=ディカプリオとが生み出すなんともちぐはぐな感じ。まるで彼はここにいながらも同時にここにはいないかのように見える。1920年代を舞台としながらもヒップホップが後ろでブリブリ鳴り響く、絢爛豪華なショーの手前では主な登場人物たちがこれといって派手なアクションを繰り広げるわけでもない、そんな『華麗なるギャツビー』が3Dでつくられたのは、前景と背景との視差の中でここにいるのかどうかさえあやふやなギャツビーという男を描くためだろう(今回見たのは2D版)。
そしてジェイ・ギャツビーが身元不明なのは、群集にとってだけではない。彼自身が自らの未来と過去の視差の中で行方不明になっている。取り返しのつかない空白の5年間。その間に地滑りを起こして断層を生んでしまった未来を、5年前に見た未来の姿そっくりに修復するためだけに彼は生きている。まるで『デジャヴ』のデンゼル・ワシントンのように、片目で現在における未来を、もう片方の目で過去見た未来を眺めながら、猛スピードで車を走らせているような男なのだ。その左右の視差が生むのは、立体的な臨場感などではなく、とてつもなくグロテスクで致命的な光景である。
だからギャツビーの唯一の友人、ニックが彼を評して言う「希望を求める非凡な才能に溢れた男」という表現と、ディカプリオの外見はなんだかうまく重ならない。むしろその先が破滅だと知りながら突き進んでいる、ギャツビーのそうした側面がディカプリオによって引き出されているように感じた。だが、ひたすら繰り返される狂騒と幻滅のスパイラルの中で、それでもこの映画が「希望」について考えさせるとすれば、それはジェイ・ギャツビーその人よりも、彼を「希望を求める非凡な才能に溢れた男」と評してしまうニック・キャラウェイ=トビー・マグワイアによるものだ。パーティなどの人が集まるシーンの最後、決まって彼は立ち止まり、誰かが立ち去って行くのを眺めることになる。ほのかな恋心を抱いているはずのデイジーのことも、その美しい友人のことも、ギャツビーのことも、彼はアホみたいな微笑みを浮かべて見送る。おそらくその視線こそが、「ジェイ」について語る証人に必要なものだ。「ジェイ」を見つけられない群衆の視線でも、過去と未来との間に囚われた「ジェイ」本人の視線でもなく、去って行く「ジェイ」を見つめるただひとつの視線。無数にいる身元不明の生者の物語は、そこから語られる。


映画『華麗なるギャツビー』公式サイト