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January 28, 2014

『Dressing Up』安川有果
松井宏

[ book , cinema ]

 そのプリンセスは自分の血に呪いがかけられていることに気づく。いまはもういない母がかつて患っていたなにかを、自分もまた受け継いでいるのだと。母は自分のなかにあるそれに耐えられず自殺したのだろうか? わからない。だがとにかくそのなにかが、呪いが、自分の身体のなかを流れていることは確かだ。いや、その少女は自らのそんな血に気づいた瞬間から、プリンセスとなるのだった。おぞましさと気高さが彼女のなかでひとつの同じものとなる。周囲の男の子たちは彼女の一瞥によって心を奪われ、その後ろに付き従うだろう。

 
 だから『Dressing Up』は、たしかに「純粋で不安定な」中学生の女の子が主人公であるものの、けっして「少女の成長物語」とか「あるある、中学ってこんな感じだよねストーリー」みたいなものではない。彼女のまわりでは男の子同士によるいじめもあるし、女の子のイヤな感じだってあるにはある。でもそんなことを露悪的に描いて悦に入ることなどこの作品は欲していない。そんなものは誰かにやらせておけばいい。なぜなら『Dressing Up』は「ファンタジー」なのだから。いや、言うなれば、まるでポーの書く小説群のような幻想譚なのだから。そこでは暗さが世界を照らし出し、陰鬱さはユーモアとなる。その少女はプリンセスであると同時に魔女なのだ。
 あたかもポーの筆致のごとく、『Dressing Up』のカメラは的確に、美しく、そしてつねに出来事の予兆をはらみながらその世界をとらえてゆく。撮影監督の四宮秀俊こそが、その世界の崩壊を食い留めているのだと断言してもいいのかもしれないが、それでもやはり、安川有果監督の持つ、語りへの執着みたいなものが確実にこの世界を支えているはずだ。いずれにしろここには品位のようなものがある。プリンセスのおぞましさと気高さとがこの作品にも備わる。


 わたしのなかに流れるこの呪われた血をどうすればよいのか? すべては母のせいであり、母を殺しさえすればすべては終わるのだろうか……。そんなわけがない。『Dressing Up』の秀逸さはさらに先にある。彼女はあきらかに母に魅惑されているのだ。魅惑とはすなわち、「わたしも母のことがわかる」といった類いの同一化ではない。魅惑とはすなわち、「わたしは母かもしれない」という恐ろしい予感が、「わたしは母である」という断言へと至ることだ。そこで混濁さは明白さと同義となる。そして母を殺すことは母を赦すことと同義となる(あのカットにおいて彼女は母を殺したのか赦したのか? もはやどちらもが同じことなのだ)。ラストにかけてプリンセスにもたらされる首筋の傷がその証拠だ。あの傷はフレディの爪痕みたく、夢のなかの母から現実の少女にもたらされた傷というより、まさに彼女自身がみずからの身体につけた傷だ。なぜなら「わたしは母である」のだから。


 その世界にはおぞましさと暴力が満ちている。たしかにそうだ。だがわたしもまたその大きな中心を担っており、いや、その原因そのものでさえあるかもしれない、いやおそらくそうなのだ……。そんな感覚。そのときプリンセスは、そんな世界に強く魅惑を覚える。世界のおぞましさは、わたしのおぞましさなのだ。そして世界の悲しみは、わたしの悲しみなのだ。かつて自らが深く傷つけた人間を前にしてプリンセスは涙を流すだろう。あなたの痛みはわたしの痛み。この世界の痛みはわたしの痛み。倒錯とさえ言えるその感覚がプリンセスの顔を輝かせ、涙を流させる。
 プリンセスよ、世界のすべての呪いを引き受けるのです。さすればきっと、世の人間どもはあなたに付き従うでしょう……。気高く、おぞましく。『Dressing Up』は小さな作品だけど、小さな作品が持ち得る意志と品位を、たしかに備えた映画なのだった。


※『Dressing Up』は「キノトライブ2014」という特集上映で1月30日(木)17 :00から上映があります。