週刊平凡 [梅本洋一]

大島渚から青山真治へ

 2013年2月6日

 大島渚が亡くなった。

 『御法度』以後の、小山明子による壮絶な介護の物語は、ここでの関心にない。ただ再び病状が悪化してから、シャルル・テッソンと荻野洋一と共に鵠沼の大島邸に赴き、彼にインタヴューしたときの哀しい記憶は容易に忘れられるものではない。『御法度』の企画が実現に向かう中で、1997年にやはり荻野と訪れた鵠沼でのインタヴューの折は、不自由な身体と言語にも関わらず、その頭脳は極めて明晰で、論理的に自らの作品を振り返っていたこと思うと、それから、あまり時も経っていないのに、大島渚自身が、自分の作品名も思い出せないほど衰えていた事実を前にして、ぼくらは愕然とした。小山明子による介護の物語はすでに始まっていた。

 大島渚の絶頂期は1960年代だった。『青春残酷物語』から『少年』という傑作の数々を残した大島渚の60年代、そして続く1970年には『東京戦争戦後秘話』、71年には『儀式』、そして72年には『夏の妹』を撮る。それから大島渚は4年に亘る沈黙の時間帯に入り(もちろんテレビ出演が活発になったのにはその時代のことであり、大島渚の名前が映画関係者以外にも登り始めたのはその時期だろう)、アナトール・ドーマンのプロデュースで『愛のコリーダ』を撮ることになる。そして60年代の大島は、創造社とATGをホームにして作品を撮り続け、徹底的にマイナーな位置に留まり続けた。大島にとって、絶頂であることとマイナーであることはまったく矛盾しない。『日本春歌考』『新宿泥棒日記』などを撮る、その時代の大島の関心の中心は、同時代の社会であり、つまり、同時代の日本であり、大島を徹底してマイナーな位置に置いたのは、彼の関心の中心にあったものへの怒りであり、周縁に追いやられた者たちが持つ哀しみへの共感だった。松竹という大撮影所に出自を持ちながら、ATGという低額予算での撮影を強いられ、全国公開の目処もないまま新宿文化という一軒の映画館での上映というマイナーである運命を選択した大島は、溢れるばかりの力が漲る作品を連作した。そして、彼が映画を作ることで考察した同時代の社会が生み出す怒りの矛先は、象徴化されることで隠蔽された天皇制へと向かった。権力の所在へのプロテストへの強い共感以上に、権力の背後に自らの制度的な正統性を隠匿するブラック・ボックスとしての天皇制は、たとえば『日本春歌考』の冒頭に現れる2月11日の白い雪と、赤ではなく黒い円がその中心にある日の丸が描写するものだろう。白と黒は『少年』『儀式』への確実に継承されていく。

 日本映画は、大島以来、そうした隠蔽された天皇制をその考察の中心に置かなくなった。もちろんそれ以降もATGは、映画製作を続けていくのだが、映画そのものの衰退によって、日本映画の多くはかつて自らが持っていた豊かさの一端を取りもどすことに腐心した。ヤクザ映画を典型とする「活劇映画」や「ロマンポルノ」は、映画が纏わなければならないジャンルを再興することで、日本映画の延命装置になった。そんな時代に大島はアナトール・ドーマンの誘いで、自らのベースを移すことになる。もちろん当初は『愛のコリーダ』にせよ『愛の亡霊』にせよ、そうした日本と天皇制についての考察は続行されたが、それらのフィルムに記載された赤を中心にする豊かな色彩からは、白と黒の時代の大島に感じられた怒りと哀しみは次第に消えていった。

  大島渚がその「最後の吐息」を繋ぎつつあるとき、ぼくらは1本の作品と出会うことになる。青山真治による『共喰い』である。田中慎弥の芥川賞受賞作を三島賞作家が映画化するという話題はともあれ、『共喰い』にある天皇制の問題とそれに関わって片手を失っている登場人物を思えば、この作品が、極めて青山真治的な磁場の中にあることを誰でもが納得するだろう。『Helpless』の主要な登場人物のひとりを演じた光石研は、片手を失ったヤクザであり、1989年に「おやじ」を探して北九州の地に戻ってきた。『共喰い』で片手を失いながら、サカナをおろすことを生業にするのは、主人公の母親(田中裕子)だが、彼女が片手は第二次大戦末期の空襲によって失われ、戦後出会った男(ここでも光石研が出演している)との間に、男児をなすが、男の暴力のために離婚している。

 光石研が探し求めていた「おやじ」が不在になってからすでに25年が経っている(ぼくらは「平成25年」を生きている)。四半世紀という表現なら、100年の4分の1を単に数値として表現するに過ぎないが、「平成25年」と書き、すでに昭和が終わってかなり経ったことを示すのなら、それは「人間宣言」をした「おやじ」がこの世を去って25年経ったことを意味しているだろう。そのかなり長い時間は、怒りを諦念に変貌させるのに十分な時間だ。田中裕子演じる母親は、もちろん胸に怒りを秘めつつも、静かにサカナをおろす。本州と九州の間にある小さな港町で、彼女はひたすら諦念を生きている。

 そして、このフィルムを見る者たちが、その諦念と出会うためには、それなりの装置が必要である。『Helpless』の光石研が乗った列車が門司港駅にゆっくりと到着するように、田中裕子の諦念に出会うためには、それほど水が流れてはいない川の上にかかる橋を渡り、寂れた漁港の前にある作業場に赴く必要がある。『サッド・ヴァケーション』で若戸大橋を渡るように、ここでもぼくらは橋を渡る。忘却を記憶に変えるために、片手の上に被せられたゴム手袋の下には、何も存在しないことを再確認するために、そして、性行為の最中に繰り返される男の暴力の痛みをもう一度思い出すために、ぼくらは橋を渡る。

 そこに現れるのは、大島渚が黒と白で強烈に刻みつけた怒りの空間ではなく、微かな痛みが記憶の中に漂うような灰色の世界であり、晴れても曇ってもいないような時間が停止したような置き去りにされた空間であり、その中には性と暴力の世界をいまだに生き続ける父と諦念の中でサカナを下ろし続ける母と、進行していく時間──つまり、若さだ──をただひとり実感する高校生の息子がいる。

 物語は田中慎弥の『共喰い』をほぼ正確に辿っているので、ここでは詳述しない。だが、2013年に、1960年代に大島が生きた怒りの時間をふたたび生きるためには、数々の込み入った手続きが必要であり、このフィルムが腐心するのは、その手続きをひとつひとつ丹念に遂行していくことで、見るものの誰の中にも、ぼくらが包み込まれている忘却の渦の中から鮮やかに大島が生きた怒りを再現させることだ。風景を撮ることにかけてはかつてからその手腕を高く評価される青山真治の映像からは、彼が、最近多く手がけるようになった舞台演出の成果も至るところに見られる。ふたりの俳優をどのような位置に立たせれば、忘却を記憶として甦らせることができるのか、立ち位置を微妙に変化させることで、登場人物間の関係のわずかな変容を見せることができるのか。青山が舞台演出で得た多くの方法は、このフィルムにも結実している。自らと自らの外部とをひたすら見つめ続ける高校生を演じる菅田将暉の眼差しと島渚の少年タイトルロールを演じた阿部哲夫の眼差しが交錯してしまのはぼくだけだろ

 

芦ノ湖のかもめ

 9月8日

 おそらく夏の終わり。美しい湖には今落ちたばかりの夕陽の残像がまだ少しばかりの光を放っている。そこにあるのは仮設の舞台。著名な女優の息子は、新しい形式の戯曲を書いた。演じたのは彼が思いを寄せる、領主の美しい娘。その舞台を見るために、その湖畔に帰ってきたのは、著名な女優である母、そして母の愛人である有名な小説家。……しかし、「新しい形式」の戯曲は、文字通りの失敗に終わり、息子も美しい領主の娘も失意の底に落とされる。もうその地を発たねばならぬ時間が迫った小説家と、娘が偶然出会う。「わたしならあなたの立場に身を置いてみたいですわ」と小説家に話しかける娘。「またどうして?」と娘に答える小説家に、彼女は続ける。「才能ある作家ってどんなことなのか分かりますもの。有名であるって、どんなお気持ちなのかしら?」娘は矢継ぎ早に小説家に問い続ける。だが、もちろん、小説家は、有名であることなど意識しない、ひとつの作品を書き終わると、もう次の作品に取りかからねばならない、焦燥感がつのり、自分自身に才能があるのかなどと問う暇さえないのだ、と言う。彼が真に才能のある作家かどうかを脇に置いても、何かを書き記すことを生業とする者ならば、この作家──トリゴーリンという名前だが──の、ちゃらんぽらんに感じられるかも知れないが、その奥には、ある種の誠実さを備えた長い言葉の数々に、静かに同意するだけだ。「私の場合、昼も夜も私を苦しめるのは、書かなければ、書かなければ……と頭にこびりついて離れない考えです。一本書き上げたかと思えば、もうまた次の作品に取りかからなければならない。それが終わるとまたその次、それからまた次の作品ということになる。ひっきりなしに書いていて、これじゃまるで駅馬車を乗り継いでいるようなものですが、そうするほかないんです。どこに晴れ晴れとした生活があります?」

 作家の言葉が、彼の現実についてますます誠実になっていき、「私は自分自身が好きになったことなど一度もない」と吐き捨てるのだが、彼の言葉を聞けば聞くほど、娘──ニーナという名前だ──の名声への憧れは大きくなっていく。「あなたは他の人々にとっては、とてもすばらしくて大きな存在です。もしわたしがあなたのような作家でしたら、わたしは人々のために自分の全生涯を捧げるでしょう」。ニーナにあるのは、著名な作家という概念と目の前にいるトリゴーリンという誠実な中年男という具体的な姿との混同だ。こうした憧憬そのものも若さゆえの特権だ、と書く、ぼくもトリゴーリンと同種の、自らへの諦念とアイロニーで自分を擁護する小さな存在なのだ、と、このチェホフの『かもめ』を読みながら確信する。だが、こうしたトリゴーリンの諦念についての言葉が具体的な比喩の中で大きくなっていくと、ニーナの中で膨らんでいくのは、加速度を増した創造活動への憧憬とその憧憬をトリゴーリンという「小さな存在」に無理矢理重ね合わせようとする欲望だ。ニーナにとって、トリゴーリンこそ自らの未来であり、つまり現在の自分を投機する対象なのだ。しかし時間がない。若いニーナは、こうした混同が大きくなればなるだけ、さっき自分が演じたばかりの恥辱的な「失敗作」を書いた女優の息子──トレーブレフという若者だ──の失意がない増しにされることが想像できない。自分自身の欲望に正直であることが、他者に耐え難いほどの失望を与えることを想像できる若者など存在するはずがない。

 「お呼びだ。おそらく荷造りでしょう」と言ってニーナの許から去っていくトリゴーリン。別れ際に彼はニーナに自分の持っている自作のメモについて語る。「ちょっとした短編の題材です。ある湖の岸に、あなたのような若い娘が子どもの頃から暮らしている。かもめのように湖が好きで、仕合わせで、かもめのように自由だった。ところが、そこにたまたま男がやってきて、彼女を見そめ、退屈紛れにその娘を破滅させる」。そこに現れるのが作家の愛人である女優──アルカージナ──だ。「トリゴーリンさん、どこです?」「何ですか?」「私たちここに残るわ」。チェホフのト書き。「トリゴーリン。屋敷に向かう」。次いでニーナの台詞。チェホフのト書き。「フットライトまで出てくる。しばらく考え込んだ後」。ニーナは言う。「夢だわ」。夢ではない。そんなことは判りきっている。ぼくだって、『かもめ』を読むのは、これが初めてではない。何度も読んでいるし、舞台だって何度か見たことがある。やがてトリゴーリンのメモは、彼の自作のなるではなく、ニーナの現実になることなど、チェホフの忠実な読者でなくても想像できるだろう。

 ぼくは、岩波文庫版、浦雅春訳の『かもめ』から目を上げる。前の前に広がるのは、夕刻が少しずつ迫ってくる広大な湖。安普請の土産物店が建ち並ぶ湖畔。そんななかにある湖に突きだした場所に大きくテラスが広がっているイタリア料理店にぼくはいる。少しだけカップの底に残ったエスプレッソはもう冷えてしまった。緩やかな風に雲がちぎれて流れていく。山々の稜線に、太陽が少しずつ近付いていく。いつかこの場所に、この戯曲にあるような仮設舞台が建てられ、名優たちが、このチェホフの傑作を上演し、その中にある、登場人物たちの微妙な変化を、豊かな言葉に乗せて語られる夕刻があれば、それに勝る快楽はないだろう。

 

山田五十鈴さんを思い出す

7月11日

 もう別れた方がいいんじゃないか、と菊田一夫に説得されて、頷いてはみたのだが、花柳章太郎は、結局、日比谷から愛人が待つ世田谷の郊外へと向かってしまう。戦後間もない東京。世田谷・赤堤。住宅がまだまばらにしかなく、畑がたくさん残っている。夜半まで着かないと暗い道を歩くことになる、と考えた花柳章太郎は早足で愛人宅へと向かう。花柳章太郎は、愛人宅で過ごすことはあっても、そこで一夜を過ごすことはなかった。妻の勝子を持つ身として、たとえ勝子との愛情が冷めてしまっているからと言って、家に帰ることだけが彼にとって唯一の矜持だったのかもしれない。菊田の説得は、的を射ていて正しかった。そして、愛人宅にたまたま妻・勝子の日記を置いていってしまい、それを愛人が読み、勝子の哀しみを深く理解してしまった現在、別れを切り出したのは、愛人の方からであり、決して花柳章太郎からではなかった。そこに菊田一夫からの説得が加わり、花柳章太郎が、愛人宅に向かったのも、これを最後にしようと思ったからかも知れない。

 愛人宅に到着したが、暗い。合い鍵を回して中に入る。薄明かりの中に、ガランとした部屋が見えてくる。家財道具はいっさいなくなっている。台所の真ん中に小さなテーブルと、そして椅子が2脚だけ残されている。ふたりで買った装飾品のすべても持ち去られている。花柳章太郎は、ことのすべてを悟る。もう彼女は戻ってこない。だが、それを悟ったにせよ花柳章太郎は簡単にその場から立ち去ることなどできはしない。台所に転がっていた空き缶をテーブルの上に乗せ、懐からタバコを取り出し、一服点ける。電球さえも持ち去られた室内は暗く、マッチの火が部屋の空白を強調する。寂寞感。ゆっくりと巻の中に灰を落としながら、何もない部屋に目をやると、愛人との生活のすべてがまぶたの向こう側に確かに映し出されている。父が同じ劇団に属したことがあるので、愛人のことを幼少時代からよく知る花柳章太郎。成瀬巳喜男の『歌行燈』で彼女と共演したのは、トップスターの彼女と共演することで、彼が所属する劇団新派の窮状を救うのが目的だった。あのころはまさか彼女と花柳章太郎がこんな関係に立ち至るなどと考えた者は周囲には誰もいなかった。だが、女形としての所作を彼女に教えるうちに、手と手が触れあい、身体と身体が近付き、ふたりはこんな関係になった。そして、そんな関係がいつかは終わることは、菊田一夫に言われなくとも、花柳章太郎には分かっていたはずだ。空き缶に落とすタバコの数が増えていき、部屋の暗さは次第に深まっていった。

 山田五十鈴はこうやっていつも彼女の方から男の許を去っていった。花柳章太郎の心情を共有する男たちは、嵯峨三智子の父親でもある月田一夫、二番目の夫である映画プロデューサー、そして、花柳章太郎の後に五十鈴の相手になる加藤嘉、下元勉……もっとたくさんいるだろう。「通り過ぎる男たちを芸の肥やしにする」という常套句は正に山田五十鈴に与えられたものだと言ってもいい。もちろん溝口健二の『浪速悲歌』、『祇園の姉妹』を見れば山田五十鈴の持つ信じがたい吸引力に誰でもが納得するだろうが、とりわけ『鶴八鶴次郎』と『流れる』の2本の成瀬巳喜男の映画での山田五十鈴、さらに小津安二郎の『東京暮色』での山田五十鈴を見ていると、それぞれの年代の山田五十鈴自身のドキュメンタリーを見ているような気持ちがしてくるのは、ぼくだけではないだろう。実生活での山田美津(本名)がいて、映画に主演する女優としての山田五十鈴がいるのではない。山田五十鈴にとっても、山田美津などデビューした12歳のときに捨ててしまったのではないか。山田五十鈴に魅了された数知れぬ男たちは、ぼくらが、『鶴八鶴次郎』の山田五十鈴に惚れ込むように、『流れる』の山田五十鈴の立ち居振る舞いに魅了されるように、実生活の山田五十鈴に魅了されていったのだろう。1本の映画は何度も繰り返して見ることができるが、映画に出演する主演女優にとっては、1本の映画の撮影が終わると、もう次の現場が待っていて、そこでは別の恋人がいるのだ。

   *

 神楽坂の登り口にある紀の善の「抹茶ババロア」も嫌いではないが、紀の善がビルになってからは、どうも風情がなくなってしまった。ビルになってからもう30年近く経つのではないか。紀の善で買い求めるのは、いつも「抹茶ババロア」ばかりではない。「クリームあんみつ」だってかなりおいしい。でも、神楽坂だと、紀の善よりももっとおいし生の和菓子が手に入るのではないか。神楽坂をかなり登って、少しだけ下りに差しかかる場所に和菓子司、五十鈴がある。昔は、紀の善と同じように、喫茶が併設されていたと思うが、建て変わってから、喫茶はなくなってしまった。甘納豆と始め、伝統的な和菓子が並んでいて、季節によっては「クリームあんみつ」もあったような気がする。そして、記憶を辿ると、紀の善で買わずに、神楽坂を登ってきたかいがあった、と思ったこともある。

 五十鈴を「いすず」と読めるようになったのは、もちろん山田五十鈴の読み方を知っていたからだ。その山田五十鈴さんも亡くなった。晩年は、おひとりで帝国ホテルにお住まいだったが──オペラ歌手の藤原良江も帝国ホテル住まいだった──、ホテル住まいの女優なんて山田五十鈴が最後の人だろう。きっともっと安いホテルを住まいにしている女優さんならいるかもしれないが、大女優だったら、やはりどうしてもライト以来の帝国ホテルだ。その山田五十鈴が脳梗塞で帝国ホテルを出てからもう10年が流れている。

 神楽坂の五十鈴の裏には、まだ芸者さんたちが済んでいる場所がある。その周囲を通りかかると、芸者さんたちが稽古をしているからだろうか、今でも三味線の音色が聞こえてくる。ぼくは、それを聞く度に『流れる』のラスト近くで、山田五十鈴が弾く三味線を思い出してしまう。

 

カンヌとファミレス

 4月25日

 いろいろな矛盾や偏向があるにせよ、それでもカンヌ映画祭は、映画界のオリンピックだ。スポーツとちがって参加標準記録なんてないのだが、否、標準記録がないから、コネクションや人脈、同時代の社会がセレクションに反映する。他に方法がないのだから、文句を言っても仕方がない。

 今年の公式セクレションが発表された。すでに報道されているので確認して欲しい。驚くくらいに「日本映画」がない。三池崇史の『愛と誠』が深夜上映されるのと、学生映画のシネフォンダシオン部門に芸大大学院修了生の渋い作品、秋野翔一の『理容師』がセレクションされているくらいだ。日本映画でも、いろいろな作品に選ばれるのではないかという噂があり、それぞれのプロデューサーも頑張ったのだろうが、残念ながらコンペ部門には1本も選ばれなかった。

 日本映画バブルと日本国内では言われているのに、「国際化」は遠のくばかりだ。極東の4つの島々と周囲の小島群からなる小国では、自国の映画がかなりの率で享受されている。しかし、自国の作品が4つの島々から外に出ていかない。日本映画バブルの担い手の多くは、テレビ局とテレビ局のプロデューサーたちだ。テレビ・ドラマのヒット作と映画化したり、4つの島で売れている小説──多くがライトノベルと言われるもの──を映画化したりして、最初からマーケティングとしては「完璧」な商品が映画として出荷されている。そうした作品の作り手たちにも、まれに野心のある人たちがいて、自作を4つの島の外で行われる「国際映画祭」に出品したりするが、多くの場合、惨敗してしまう。まったく評判を呼ばないばかりか、他の地域からの出品作と比較されて、なぜこんな作品が作られるのかと途方に暮れられたりする。

 そうした作品のプロデューサーたちは、グルメのために敷居の高いレストランでの料理を作っているわけではなく、もともとファミレスの料理を作っているのだ、とうそぶいている。誰でも入れるファミレスの料理を作らなければ、誰にも食べてもらえなくなると心配しているからだ。ぼくもときどきファミレスに行くけれども、うまいと思ったことはない。単に空腹が満たされるだけだ。

 ところで、ファミレスっていったい何なんだ? 定義はあるのか? ウィキペディアによると明瞭な定義はないらしい。ただ「ファミリーレストラン家族連れに対応した業態ともされその料理の幅は老若男女に添ったものが提供されるまた多くの客に同時進行で食事が供されるよに広い店内が特徴的である料理の価格帯は概ね大衆的で質と量共に低価格で満腹感が得られる傾向が強」く、「多くの場合ファミリーレストランでは食品加工工場のよ設備を備えた調理施設であるセントラルキッチン集中調理施設や調理センターとも地域ないしグループ全体で一括して調理を行い完成直前の状態まで料理を仕上げたものを冷蔵ないし冷凍を行った上で各店舗に配送している各店舗では配送され店舗の冷蔵冷凍室にストックされた料理を湯煎や電子レンジオーブンで暖める焼くなどの加熱を行ったりいろどりの野菜などを添えて食器に盛り付け料理の最終的な仕上げを行い客に提供する」ということらしい。広い店内、老若男女、低価格、満腹感(満足感ではない)、セントラルキッチン等がキーワードになりそうだ。

 映画に当てはめてみると、広い店内とは、おそらくシネコンに対応し、老若男女とは、子どもと老人向きの物語ということであり、低価格というのは、遠くでロケしたり、高いセットを使わないということであり、話が分かりやすい上に、知っている物語といったものだろう。セントラルキッチンは、それぞれの店の作り手に任せず、同じ味を大量にということだろうから、映画だと全国津々裏々の映画館で見ることが可能という意味にもなるだろうし、最初からキャストと原作が決められていて、暖めるだけとも考えられる。ファミレスは、最初から料理人には興味がないのだろう。素晴らしい料理人をめざす人は、おそらくどこかで料理に感動したことがあるはずだが、ファミレスで料理に目覚めた料理人はいないだろう。人を感動させる料理が作りたいので「デニーズ」に就職する人はいないだろう。料理を作り手たちも、綿密なマニュアルが用意されるから、バイトで十分だ。つまり、ファミレスから、画期的な料理が生まれることがないのと同様、ファミレスのような映画が画期的な作品になることなど最初からない。ファミレスの料理が世界の料理のオリンピックに参加することがないように、ファミレスをめざした映画は、「国際映画祭」には関係がないし、ファミレス仕様の作品を任されたプロデューサーには、そもそも担当した作品が「国際映画祭」のセレクションにひっかかることになど興味がない。新しくメニューに入れたチーズハンバーグはどのくらい売れるのかにしか興味がない。

 カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの三大映画祭は、ミシュラン、ゴー&ミヨー、ザガトかもしれない。ミシュランの3つ星は、パルム・ドールやグランプリに当たるだろう。「ロイヤル・ホスト」や「デニーズ」に、星を付ける審査員など軽蔑の対象かも知れない。そこで、日本で不幸なのは、本当のキュイジニエ(料理人)=映画作家だ。優れた料理人ならば、自分で店を出せば客が来てくれるが、映画作家が店=作品を作るには莫大な資金がかかる。出資する側は、ファミレスの経営には興味があるが、優れた料理には興味がない。日本で出資する人たちは、批評など読まないと豪語している。当たり前だ。ファミレスの経営者は、ミシュランなんて持っていない。そもそもミシュランで星を得るためにファミレスを経営する人はいない。

 でも、とても悔しいことに、日本には、優れた料理人=映画作家が複数いる。残念なことに、彼らへの出資者=プロデューサーがいない。優れた料理人に投資して、ゴー&ミヨーでもミシュランでもいいから高評価を得ようと目論むプロデューサーがいない。批評家には好評だったけれども、興行的には大失敗だったという言葉をよく耳にする。ぼくら映画批評を生業にする者たちへの皮肉と当てこすりだ。ぼくらは、この料理はすごくおいしかったと書き、その理由を示すのが仕事だ。おなかがいっぱいになるばかりでなく、おいしいものを食べたい人に味方している。小津のように、昔は西洋料理を作っていて、戦後は懐石に転向した人もいるが、まだスタジオが機能していた時代は、スタジオの中にも良い料理人がたくさんいた。良い料理人を励ますプロデューサーもいた。日本で、おいしい料理を食べる機会がなくなれば、ぼくら批評家は廃業するかパリのビストロ・ガイドでも書くしかなくなる。やはり、ぼくの町内に住む友だちがオリンピックに出て欲しい。そして、ぼくは友だちが活躍する場でサポーターとして応援する準備ができているのに……。

 

 

ミッキーさんはずっと青春

 2012年2月17

 久しぶりに神保町で昼食だ。学士会館の中華料理である紅楼夢。学士会館という名前は何か権力的で好きじゃないけど、この建物はかなり良い。設計は佐野利器と高橋貞太郎。古色蒼然としているが、天井が高く、紅楼夢にもシーリング・ファンがゆったり回っている。窓とカーテンの感じが往時のコロニアルな雰囲気。本日のランチの麻婆茄子炒飯が来るまで、東京堂で買った本を読んでいた。片岡義男と小西康陽の『僕らのヒットパレード』(国書刊行会)だ。この本は片岡と小西が「芸術新潮」誌上でやっていた交換コラムが一冊になったもの。主に好きなLPを一枚採り上げて、それについてのエッセーが綴られている。片岡が書くナンシー梅木についてのエッセーが面白かった。

 ナンシー梅木には、ぼくも注目していて2〜3年前に『Miyoshi』というCDを買って何度か聴いたことがある。進駐軍まわりの女性ジャズ歌手だったが、26歳のとき本格的に歌の勉強をしようと渡米した人だ。1955年のことだった。その後ハリウッド映画にも出演し、マーロン・ブランドと共演した『サヨナラ』でオスカーの助演女優賞まで獲得している。片岡義男が書いているのは、『ナンシー梅木 アーリー・デイズ』というアルバムで、彼女が渡米する前の1950年から54年までに録音した歌を集めたアルバムだ。片岡は「彼女の英語をぜんぜん違和感なく聞けた」と書いている。「違和感なく聞けた」というのはすごいことだ。なぜかと言えば、片岡義男はバイリンガルで、そのバイリンガルぶりが隅々まで発揮されている『ぼくはエルヴィスが大好き』という名著がくらいだ。戦前だったらディック・ミネの英語も「違和感なく」聞ける気がする。ぼくはバイリンガルではないから片岡義男みたいに断言はできないけど。ちなみに、ぼくが持っている『Miyoshi』というアルバムのタイトルだが、ナンシー梅木の本名は、梅木美代志というのだ。それでMiyoshi。こっちのアルバムには、ジャズのスタンダードの名曲がつまっている。すごくいいアルバム。

 『おれと戦争と音楽と』(亜紀書房)というやたら面白い本も読んだ。書いたのはミッキー・カーチス。「ロボジイ」でロボットの中に入っている爺さんを演じている人だ。まだぼくが幼稚園生だった時代に、母がぼくの友だちのお母さんたちと「淡路恵子とミッキーも離婚しちゃったわね。1年もったのかしら?」なんて話していたのを思い出す。なにせ当時のロカビリー三人男のひとりだったから。ちなみに他の二人は山下敬一郎と平尾昌晃。日劇のウェスタン・カーニバルの時代だ。ぼくは、ずっとミッキー・カーチスのことを忘れていたのだが、ここ10年ぐらいの間に、ぼくの友人の映画に2度も出演していて、すごくいい味を出していた。この老人だれよ?って思ってクレジット見たら、ミッキー・カーチス! 青山真治の『WiLD LiFe』や冨永昌敬の『パンドラの』に出演していた。さっきフィルモグラフィーを調べていたら、最低でも1年に2〜3本映画出演作がある。出ずっぱりの大活躍だ。

 『おれと戦争と音楽と』はミッキー・カーチスの自伝。タイトルの最初に「おれ」がくるところなんか実に格好いいね!謙遜なんてまったくしていない。かつて日本のエルヴィスと言われていた彼は、その呼称に腹を立てていたという。「『和製プレスリー』と呼ばれていたのは許せなくて、エルビスのことを『米製ミッキー』と言えよと、本気で怒っていた」を書いている。どのページにもこのように最低1回は笑えるネタがつまっている。だって彼は立川流の真打ちで、ミッキー亭カーチスなんだ。病床の談志を見舞いに行き、「ミッキーにはいろんな面白い話があるんだから、それを書き残しておかなくちゃ」(あとがき)と談志に言われたことがこの本を書いたきっかけだという。大いに笑って、ちょっとほろりとする。まるで古典落語の世界だ。もっともけっこう語彙も少ないし、文章も練れてない。つまり本人が書いたのに間違いないね。だからもっといい。

 幼稚園生だったぼくは、ミッキー・カーチスを「外人」だと思っていた。顔も外人だった。この本を読んでみると、彼は日英のハーフの父バーナードと日英のハーフの母リリーから生まれている。生まれは赤坂、そして育ちは上海。本書の18ページにカーチス家の系図が出ているけれども、複雑すぎてぜんぜん理解できない。やっぱりかなり「いかがわしい」。バーナードは、上海に行ってからほとんど家に寄りつかなくなったらしい。ミッキーさんはバーナードがスパイだったんじゃないかと睨んでいる。戦前、戦中の上海だ。『上海バンスキング』だ。リリーは戦前の日本では、「スタァ」誌で映画ライターをやっていたという。「スタァ」は、淀川長治や双葉十三郎が編集していた雑誌だった。だからミッキーさんのお母さんは、淀長や十三郎と一緒に仕事をしていたっていうことだ。戦中の上海では、顔かたちから、憲兵にしょっちゅう着けられ、敗戦後、引き揚げ船で苦労して東京に帰ってくると、「進駐軍」を言われる。普通こういう場合、「居場所がない症候群」で引きこもりになり、「おれって誰?」という問題に悩むものだ。もちろんミッキーさんも例外ではなく小さい頃は人見知りだったらしいが、思春期に入ると、通った和光中学がよかったのか、音楽に親しみ、学校をサボって新宿末広亭に「引きこもる」。「引きこもって」大笑いの毎日だ。将来のミッキー・カーチスも落語家ミッキー亭カーチスももう中学時代にほぼ完成だ。そして、当時の音楽と言えば「進駐軍まわり」。顔が「外人」なのに、英語が鍛えられたのはキャンプだ。だって、英語が下手だと、米兵からブーイングを喰らったからだ。ミッキーさんの友だちでいちばんブーイングを喰らったのはムッシュだったと書いている。

 それからサムライというバンドを率いて欧州ツアーを何度もやったり、音楽プロデューサーとしてガロ(『学生街の喫茶店』という曲があったよね)や細野さんの初期をプロデュースしている。サムライの頃はヴェトナム反戦の時代だった。つまり、ミッキーさんはここでも「戦争」と出会う。ロカビリーで始まり、ロックの多様な進展を、ミッキーさんは、その中心に居ていつも受け止めていた。そして音楽の動向の中心に居たということは、世界の運動の中心にいたということでもある。

 ミッキーさんは50歳を迎えた1988年から音楽の方向を少し変えた。「ロックから少し離れてジャズに真剣に取り組むようになった。ジャズの本当の良さがわかるのは、そのくらいの人生経験が必要なんだね」。Youtubeでそんなミッキーさんの歌を聴くことができる。たとえば『マック・ザ・ナイフ』(http://www.youtube.com/watch?v=GEMWhVSi3l4)、それから『我が心のジョージア』(http://www.youtube.com/watch?v=OU3rVGu5-Ko)。ホントうまいよね。「アメリカのある女性シンガーがおれの歌を聴いて、『私、その歌を20年も歌っていて、初めて本当の意味がわかったわ』と言ってくれた」とミッキーさんも書いているけど、歌詞を大事にするミッキーさんの最近の歌は実にいい。もっとも、そう思っているのは、ぼくばかりじゃなさそうだ。「カントリー界の大御所ウィリー・ネルソンがスタンダード・ナンバーばかりを集めたアルバムを何枚も出している。おれもカントリーに縁があって、風貌が似ていてスタンダードも演っているから、『ミッキーさん、ああいう路線はどうですか?』なんて訊かれる。/でも、おれが目指しているのはもう少し都会的な感じのものだ。彼は彼ですごい歌い手だけど、おれはやっぱり、ミッキー・カーチスという歌手が一番好きだからね」。ウーッ、カッコいいな。

 

安井豊作への手紙

 かなり前からこの本の書評めいたものを書こうとしていたのだが、どうにも書けない。黒岩幹子の愛に満ちた書評を読んだためかも知れない。だが、書評にはならないだろうが、こうして、この本について、この本の著者について、文章を綴り始めてしまった。『シネ砦炎上す』(以文社刊)と安井豊作についてだ。

 この書物の編集を担当した、というか、この本を世の中に出すことを倫理だとさえ考えていた以文社の宮田さんから電話をもらったときのことだ。

──とうとう安井さんの本が出版にこぎ着けられることになりましたよ。

──よかったね。でも薄いんじゃないの。100ページくらい?

──とんでもないですよ。400ページを超えましたよ!

──ええ! ホント?

 電話でそんな会話をした。ぼくにとって安井はなかなか原稿を書かない奴で、たまに引き受けた原稿もほとんどボツにする奴だった。まれに原稿を書いてきても、一行一行が紙の上に刻みつけられたような文章で、軽く読めるものではなかった。だが、もちろん、集中してしっかり読んだときは、結果はいつもすごいものだった。映画について思考するときに、通り過ぎることの許されない地点にじっくりと立ち止まり、その地点がなぜ重要なのかを明解に解き明かしてくれた。だから安井がこれまでに400ページを超える文章を書いていたなどいうことは俄に信じがたいことだった。安井が原稿をボツにしまくるおかげで、安井が空けた穴を埋めるために、「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集をしていたぼくは、池袋からかなり歩いた赤羽線の線路沿いにある印刷所の5階で白いページに字を埋める作業を何度もしていた。ぼくが何を書いたかはまったく覚えていない。印刷所のボロい建物にはエレヴェーターがなく、かなり急な階段をフーフーいいながら5階まで何度も何度も上がったことだけはよく覚えている。

 しかし、原稿をボツにした安井は、まったく悪びれる気配もなく、毎週木曜の夕刻から開いていた編集会議には、缶ビール持参で遅れることなく皆勤し、常に中央の陣取り、次の企画について堂々と意見を述べていたのだった。ぼくは、そんなに意見があるんだったら、次からきっちり原稿を書いて来いよな、と呆れながらも、彼の意見に耳を傾けてしまうのだった。この本の「あとがき」にもあるが、稲川方人とぼくが編集方針や映画の評価をめぐって論争したとき、それを弁証法的に止揚するのは安井の役割だった。

 だが、考えてみれば、安井が原稿を何度もボツにしたのは、彼が「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集委員を務めていた時代であって、それ以前、彼はけっこうマメに文章を書いていたのだった。でなければ、「伝説の」タウン誌「シティロード」の星取り表担当──ほとんどの映画に☆をひとつしかつけない──を続け、そこに実に気の利いた警句を毎月書き記すこともなかったろう。蓮實重彦が責任編集をしていた、これまた「伝説の」映画批評誌「リュミエール」のレギュラー・ライターを務めることもなかったろう。送られてくる「シティロード」を手にして、まず最初に読むのは安井の星取り表で、「リュミエール」でも、まず安井の短文──「リュミエール」掲載の文章のほとんどはひどく長く何ページも続いていたが、安井のそれは見開きかせいぜい3ページだった──を読んで大笑いしてから、蓮實重彦の映画史についての文章を勉強し、松浦寿輝の美しい批評文を読んで感心する経験をしたのはぼくだけではないだろう。

 つまり、安井の中で文章を書く姿勢が変わったことだけは明らかだ。少なくとも「カイエ」に安井が発表した文章を読んで、感心したり、すごいなと思ったりした人はぼく以外にもたくさんいるだろうが、「カイエ」の彼の文章に大笑いした人はいないだろう。そう言えば、彼が「宝島」に書いた「いいかげんにしろよ爺さん」というロメール論がぼくは大好きだった。ロメールについて、(ぼくも含めて)批評家たちは訳知りの文章を書いているが、実は、少女をたぶらかそうとしている「爺さん」なんだ。だからお嬢さんたち、ロメールに注意しろよ、という文章だった。

 なぜ彼が文章を書く姿勢が変わったのだろう? 理由はぼくにとって明らかだった。柄谷行人の影響だ。柄谷がカントを読み直していた頃、安井の文章にもカントへの言及があることがその証拠だ。「英語の授業なのに、とつぜん浅田彰の批判を始めるんですよ」と法政大学の学生をやっていた時代、安井はぼくに言っていた。まだ柄谷と浅田が「批評空間」を始めるずっと前の話だ。柄谷をじっくり読み始めた安井は、柄谷のように明瞭だけれど、「色気を欠いた」文章を書くようになった。ぼくは、編集者として安井の文章をじっくり読む仕事をしていたので、同時代の柄谷(今の彼ではない)と安井の間にある親和力みたいなものを感じたのだと思う。そして安井の文章は、ぼくがごく当たり前じゃんと思っていたことが、実は「当たり前」ではなく、それを「当たり前」と考えるには、いくつもの前提が必要になることを、彼の文章を読みながら、ぼくは学んでいったのだ。編集者冥利につきる作業だった。

 それから彼は病気になってしまって、「失われた10年」がやってくる。もちろん、その間にも、安井は、廣瀬純を発見し、それなりに豊かな時間をすごしたのだろうが、彼の文章にぼくら触れることはかつてよりもずっと少なくなった。彼にとっての「失われた10年」は、ぼくにとっても「失われた10年」かもしれない。その10年間、ぼくは、子育てに追われた。

 安井と知り合ってからもう30年近い年月が流れている。『シネ砦炎上す』を読むと、彼の30年間を考えるのと同時に、この30年間の映画と批評を思い出す。そして、ぼくは、この本にある文章の周囲にあって、文章に書かれていない安井と話した多くの夜のことを思い出す。

 

川島雄三の速度について

2012117

 

 ここ最近、どこの映画館に出向いても満員札止め! といっても『ミッション・インポッシブル』のように正月の渋谷の映画館で満員札止めなのは仕方がないし、わずか80名しか入れない上映ホールで封切られているコッポラの新作『テトロ』が日曜日の午後に満員だったと言っても、かつてなら渋谷や新宿のもっとも大きな劇場での封切りが常だったコッポラ映画を思い出せば、世の中は悪い方に変わっていると思い込んでも仕方がない。

 そして金曜日の午後に有楽町で見た『幕末太陽傳』も、10分前に着いたぼくに与えられたのが最後の1席だった。だが、ここもわずか80席ほどの上映ホール。『テトロ』がDVDスルーにならなかったのは幸いだし、日活100周年でディジタル・リマスターされた『幕末太陽傳』がしっかりリヴァイヴァル上映されたことも単純に喜ばしい。だが、どちらの映画館も、50代も半ばを越えたぼくが若い方の観客であることはやはり哀しい。若い人たちが映画館で映画を見る習慣を確実になくしていることだけは確かなようだ。

 1957年封切りの『幕末太陽傳』をスクリーンで見たのはおそらく3回目だと思う。最初は今から30年ほど前に、そして2度目は10年ほど前に見た。もちろんその間にヴィデオでも見ているし、このフィルムについて20数年前にかなり長い文章を「ユリイカ」の川島雄三特集にも書いたことがあった。さらに、ここ数年は、ぼくの中で川島雄三がブームになっていて、『銀座二十四帖』を初めてとして大好きなフィルムも増えた。川島関連の書物も何冊も読んだ。品川宿周辺を何度も歩いてみた。銀座、品川、九段下、晴海、東陽町……川島的な東京の各地についての知識も土地勘も以前よりもずっと豊かになったと思う。そして、今回、『幕末太陽傳』を見直してみて、その111分の上映時間が嵐のように過ぎ去って、改めてこのフィルムの素晴らしさを納得する。成瀬巳喜男の東京もあるし、小津安二郎の東京もある。成瀬ならば、変わっていく東京の中で、まるで取り残されたように変わらずにあるものが亡びていく時間が描かれているし、小津ならば、やはり変わっていく東京と変わらずにある東京の相克がフィルムの中で平衡を保っているように見えるが、川島の東京は、変わっていく東京の速度そのものに身を任せている。ぼくら『幕末太陽傳』を見る者も、その東京の変わっていく速度そのものに身を任せているからこそ、このフィルムの上映されている時間を嵐のような速度だと感じるのだ。

 小津ならば、変わっていくのは東京の風景とそこに住む家族だった。成瀬ならば、変わっていく東京の中で消えていくのは女性たちと彼女たちが生きた恋愛だった。だが、『幕末太陽傳』には変わっていくことで人々が感じるはずの、寂寞感もなければ、何かが無くなっていくという喪失感もない。舞台が品川宿であることも関係があるだろう。冒頭で品川宿を形成する東海道を疾走する馬の姿が速度を文字通り表象することもあるだろう。タイトルバックで加藤武のナレーションで説明される1957年当時の品川が大きな駅と操車場と国道1号線によって示される「交通の要衝」であることもあるだろう。東海道の最初の宿場である品川宿は、そこが宿場である限り定住する場所ではなく、通過する通路に過ぎず、品川駅もまたそこで京浜東北線と山手線と東海道線と京急が交わる場所ではあっても、上野駅や東京駅のようなターミナル・ステイションではない。乗換駅であっても終着駅ではない。品川宿とは優れて交通のみを表している。

 主人公の居残り佐平次(フランキー堺)にせよ、彼のニックネイムである「居残り」が示す停滞とは正反対に、彼は、「いのさん!」と誰かに呼ばれると、遊郭相模屋の部屋から部屋へ、1階から2階へ常に移動している。彼自身が、まるで品川宿のように、品川駅のように移動と乗り換えそのものと化している。そして、ペリーが浦賀沖にやっていて以来、鎖国の扉を開いた江戸時代も、明治の文明開化に向かって、その速度を増している。このときの品川宿は、歴史の上でも時代の結節点になっている。空間的にも時間的にも速度のみが存在証明であるこの時代の品川宿、それが『幕末太陽傳』なのだ。

 よく言われているように「川島雄三はモダニストだ」という言葉を、このフィルムを見た者は誰でもがごく自然に納得するだろう。戦後の変わっていく東京に身を任せた小津も、もちろん「モダニスト」ではあるだろうが、川島が体現する速度を持ってはいない。日本家屋から51Cの空間へと変わっていく様を示すことで日本のモダンをしました小津に対して、品川宿の相模屋をそのままセットで作ってしまい、その空間の中の移動と歴史の流れを封じ込めることで速度を導き出した川島。

 ルコルビュジエ門下のモダニスト建築家、坂倉準三の遺作は品川駅前のホテル・パシフィック東京だ。その最上階にあるレストランからは品川駅の全貌を見ることができる。東海道新幹線、山手線、東海道線、京浜東北線、横須賀線……それらのすべてが線路の上を滑るように走る様が見える。

 

 

『トゥー・ラバーズ』のヘンリー・マンシーニ

20111220

 

 ジェイムズ・グレイの『トゥー・ラバーズ』をDVD(この素晴らしい作品が「封切り」ではなくDVDスルーなのは寂しい)で見ていて、不意を突かれた。主人公のレナード(ホアキン・フェニックス)が、片思いしている隣人ミシェル(グイネス・パールトロー)と彼女の不倫相手のデートに同行するシーンでのことだ。「今夜はお洒落をしてきてね」とミシェルに言われたレナードはスーツを着てネクタイをしている。待ち合わせ場所のイタリア料理店に向かうレナード。キャメラは、横に移動撮影しながらニューヨークの夜景を映し出す。レナードたちが住んでいるブライトンビーチの街並みもそうだが、ジェイムズ・グレイは本当に街を映し出すのがうまい。『リトル・オデッサ』でも『アンダーカヴァー』でも街が見事に映っていた。

 だが、不意を突かれたのは、ニューヨークの夜景を映し出す映像(撮影監督はいつものホアキン・バカ=アセイである)からではない。そのシーンに被せられた音楽だ。そのシーンまでこのフィルムに添えられた音楽は、ギターによるイェーディシュ(このフィルムはユダヤの家族についてのフィルムでもあり、その意味で、ジェイムズ・グレイの自伝的な要素もあるのだろう)風のパッセージが主だった。だが、「絶景」の夜景を背景にした音楽は、ほぼストリングズ中心の美しいパッセージ。聞いたことがある。聞いたことがある以上に、口ずさむこともできる。ゆったりしたストリングズが耳に易しく響き、それはニューヨークの夜景とこれ以上ないくらいにマッチする。ヘンリー・マンシーニだ。曲名は『Lujon』(http://www.youtube.com/watch?v=pGS40VGg9-I)。

 最初にこの曲を聴いたのは小学校3年生のとき。ハワード・ホークスの『ハタリ!』に使われていたのを聴いた。『ハタリ!』は何度見たことだろう。もちろん「ヒッチコック=ホークス主義者」として見たことも幾度もあったけれども、小学生時代にも何度も見た。昼間はチームワークを駆使して猛獣狩りをし、今日はサイ、明日はキリンと世界の動物園のために動物たちを捕獲していき、夜になるとキャンプに戻って、酒を飲み、メシを食い、ピアノを囲んで歌う多国籍の人々の話だった。サバンナに夕暮れが迫り、アフリカの大地──当時はタンガニーカ、現在はタンザニア──の地平線が赤く染まり始める。数代のジープと猛獣を乗せたトラックがゆっくりとキャンプ地に向かう。『Lujon』は、ブロードウェイの夜景ばかりではなく、アフリカの夕刻にもしっかりときこえていた。マンシーニが全曲を担当した『ハタリ!』で、一番有名な曲は、ラストに流れる『子象の行進』だろう。『ハタリ!』にマンシーニの曲がなければ、いったいどんなフィルムになっていたか想像も付かない。

 ヘンリー・マンシーニが参加した作品のフィルモグラフィーを見ているとくらくらする。50年代から亡くなる(1994年)直前まで、何本のフィルムに音楽を付けたのだろう。もちろん『ピンク・パンサーのテーマ』、『ムーン・リヴァー』、『酒とバラの日々』、『シャレード』なんていう名曲中の名曲は誰でもが口ずさめるだろう。カラオケで熱唱する人も多いだろう。何しろ1951年にユニヴァーサル映画に入社してから1957年までにすでに100本を越える映画に参加している。50年代の作品と言えば、彼が初めてオスカーを獲た『グレン・ミラー物語』、そしてグレン・ミラーと来れば『ベニー・グッドマン物語』だってマンシーニだ。シネフィルには、彼の名前がクレディットされていたオースン・ウェルズの『黒い罠』を挙げればいいだろう。そして有名(すぎる)なブレイク・エドワーズ=マンシーニのコンビが始まるのが1958年。上記の挙げた曲のほとんどがこの時代。オードリー・ヘプバーンとアルバート・フィニーが組んだ『いつも二人で』のテーマ曲やエドワーズ晩年の傑作『ビクター/ビクトリア』でエドワーズ夫人のジュリー・アンドリューズが歌った『クレイジー・ワールド』(http://www.youtube.com/watch?v=qsQ8tM1rjuA)の2曲も何度聞いたか分からない。『いつも二人で』は、ヘンリー・マンシーニ・オーケストラ版もいいけれども、ジャネット・サイデルが歌ったもの(http://www.youtube.com/watch?v=KbOFh0Pvv0c)がすごくいい。それに『いつも二人で』は歌詞もすごくいいんだなあ。「ちょっと暇だと感じているなら、ぼくと世界を回ってみないかい/偶然着いたどんな場所も、ぼくらの待ち合わせの場所さ/何年もいっしょに旅をして、記憶の中から選んで、大切な想い出を集めよう……」

 もちろんヘンリー・マンシーニを使うのは、ジェイムズ・グレイばかりではない。アルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』やジェイムズ・マンゴールドの『ニューヨークの恋人』の「ムーン・リヴァー」など枚挙に暇がない。けれども『トゥー・ラバーズ』の「Lujon」は、その絶景と音楽の完璧なマッチングゆえにすごく哀しかった。片思いの女性が不倫をしていて、その不倫相手の値踏みをするために、女性に同伴を頼まれていっしょに食事をするなんて、どんな男でも嫌に決まっている。でも、自分に言い聞かせる。ぼくが求めているのは、ぼくの幸せじゃない。彼女の幸せなんだ。じゃ一緒に彼女の不倫相手を見に行ってみよう……。真冬のニューヨークの夜景に響き渡る「Lujon」はそんな中で聞こえてくる。

 

白石加代子を久しぶりに見た

2011124

 

 2007年4月26日のニューヨーク・タイムズ紙はひとりの老女優の死を伝えている。アン・ピトニアクのことだ。彼女はガンの合併症によって85歳の生涯を閉じた。同紙のよると、大学を出てからの彼女のキャリアのほとんどはテレビドラマとラジオのコマーシャルだったという。では、なぜニューヨーク・タイムズ紙が、このテレビドラマとラジオのコマーシャルばかりに活躍していた老女優についての長文の追悼文を掲載したのか? 1975年のこと。彼女はすでに50代の半ばに達していた。長く続いた結婚生活は離婚で終わり、ふたりの子どもも大きくなっていた。彼女は突然リー・ストラスバーグ演劇研究所で演技の勉強を始めたのだ」。ニューヨーク・タイムズ紙は、彼女の追悼文をそう始める。

 そして「2年後、彼女はケンタッキー州ルイスヴィルのアクターズ・シアターの女優になり、マーシャ・ノーマンの最初の戯曲『ゲッティング・アウト』の舞台に出演する」。その舞台が好評を博し、彼女は次々に舞台に立つことになり、ついにジェイン・マーティンの『トーキング・ウィズ』でオフ・ブロードウェイのマンハッタン・シアター・クラブに進出する。「『おやすみ かあさん』は、マーシャ・ノーマンの3作目の戯曲であり、ピトニアクが主演した。彼女は、かなりの失意の中にある母親を演じ、自殺を予告する娘を演じたのはキャシー・ベイツ(『ミザリー』は1990年の映画だ)だった。演技はニューヨーク・タイムズ紙のフランク・リッチに絶賛された。この舞台はマサチューセッツ州ケンブリッジのアメリカン・レパートリー・シアターで上演され、1983年にはブロードウェイで上演された」。グーグルの画像でアン・ピトニアクを検索してみると、彼女が母を演じた『おやすみ かあさん』でキャシー・ベイツを共演している写真を見つけた。

 2011年の東京で『おやすみ かあさん』が上演された。東京でのこのプロダクションで注目に値するのはアン・ピトニアク演じた「かあさん」を演じるのは、あの白石加代子であり、娘のジェシーを演じるのが中島朋子であり、演出するのが青山真治であるということだ。

 場所は、近年フェスティヴァル・トーキョー等演劇の街として活況を呈している豊島区の「あうるすぽっと」である。演劇批評家を廃業してから20年近くになるぼくは、初めてこの劇場に行った。両国のシアターカイもそうなのだが、再開発地区に建つこの種の劇場は、どこも複合施設で高層マンションの低層階にある。ブロードウェイやウェスト・エンドなど劇場が建ち並ぶ場所を知っていると、少々残念な気がする。エレベーターで劇場へ上がるのはちょっと気分が乗らない。エントランスと受付を通ると、大きな階段が劇場の内部へと導いてくれるヨーロッパのイタリア式の劇場を臨んでも仕方がないが、それでも演劇という「非日常」へとぼくらが導かれるのには、それなりの装置が必要なのではないか。ともあれキャパが300席の「あうるすぽっと」は楽日であるせいか立錐の余地もない。

 もちろん中島朋子の舞台は初めてだが、白石加代子の舞台もいついらいだろうか? 初めて彼女を見たのは多くのオールドファンと同様『少女仮面』の春日野役、そして『劇的なるものをめぐってⅡ』、それから『トロイヤの女』……。『おやすみ かあさん』で中島朋子を共演する彼女を見ていると、必然的に李麗仙と彼女が共演した『少女仮面』を思い出す。もちろん唐十郎の初期の代表作と、十分にテネシー・ウィリアムズの影響下にある『おやすみ かあさん』とは内容が異なるが、老女と若い女性の共演という意味では似ている。それに白石加代子は、すでに70歳になろうとしているのに、昔と変わらない。憑依女優と言われた彼女のおどろおどろしさは『トロイヤの女』などに強烈に発揮されていた。発声法、「中腰」による立ち方……。最初はストレート・プレイに白石加代子の身体所作は似合わないようにも感じられたが、中島朋子の伸びやかな狂気と対比されると、このふたりの女優の持つ対照的な所作や発声法が独自のハーモニーのように感じられてくる。おそらくふたりが「役に入り」始める冒頭の30分あたりから、ぼくらも芝居の言葉に包まれ始めてくる。冒頭こそ、ふたりの言葉の間に「間」(ま)が欠如していることに慣れなかったが、この戯曲の構造が可視化され始める後半になると、もともとこのふたりの間にダイアローグが成立するはずがなく、存在するのはそれぞれのモノローグなのだと納得されはじめ、ふたりの対照的な所作も説得力を持ち始める。

 残念なのは10回目の上演であるぼくが見た回が楽日であることだ。というのも、この種の「室内楽」のような戯曲は、それこそ何十回何百回と上演すれば、言葉の正しい意味でふたりの女優にとってのレパートリーになり、ふたりの生きる時間とこの戯曲の世界が重なり合ってくるからだ。東京の演劇事情は、こういう戯曲に厳しい。どの演目も短い上演期間しかない。かつてぼくが演劇批評家だった時代も、ぼくが書いた批評が印刷媒体に掲載されたころには、とっくに上演が終わっていた。かつて渋谷のジャンジャンで中村伸郎がイヨネスコの『授業』を延々と上演したことがあったが、キャパが150人くらいの小劇場で、『おやすみ かあさん』を何ヶ月も上演することができないだろうか。アン・ピトニアクにとってのこの役がはまり役であったように、キャシー・ベイツのジェシーが想像できるように、白石加代子と中島朋子にとって、この戯曲が彼女たちの人生の一部を成すようなものにならないだろうか。

 青山真治は、もちろん映画作家であるけれども、『東京公園』を見れば、彼が舞台演出にも大きな可能性を見出すだろうことは予想できた。そして、前の演出作『G.G.R』よりも小さなスペースでのこのふたり芝居は、青山真治の舞台に与える作業により合っているように思える。どこかの小さなスペースでストリンドベリの短い戯曲──『火遊び』なんてどうだろうか──を長いスパンで上演することなど東京の演劇事情を考えると夢物語だろうか? 夜8時ぐらいから10時ぐらいまで豊饒な会話劇を楽しみたい大人の数は多くないのだろうか。

 

原宿、1965年

20111010

 東京オリンピックが終わって1年後の原宿にぼくは引っ越してきた。47年前の今日、東京オリンピックの開会式があった。

 横浜で生まれ小学校3年までそこで暮らし、父が新潟市に転勤になり、その任期が終わって、今度は原宿の公務員宿舎に住むことになった。場所は、神宮前1丁目。東郷神社の裏だ。3棟の4階建ての集合住宅があり、名前を東郷台住宅といった。

 初めての原宿で目を引いたのは、オリンピックプール。東京オリンピックでドン・ショランダーが金メダルを取ったシーンはテレビで見ていた。釣り屋根型の大空間を見たときは素直に感動した。ショランダー選手が世界記録を出したプールで泳ぐことができた。泳ぐのが苦手だったぼくは、毎日オリンピックプールに行って練習した。そして、もうひとつ。表参道の幅の広さだ。

 渋谷区立外苑中学に編入した。新潟では新潟大学附属中学に通っていた。地元のエリート校だった。地方から越してきたのと、地方のエリート校から東京の真ん中の区立中学への転校。このふたつのことは、ぼくにカルチャーショックを与えた。まず外苑中学の生徒たちは勉強ができなかった。けっこうふざけた中学生が多く、授業中にドラム代わりに机を叩いていた奴、体育の時間の前の更衣室でペニスを勃起させて自慢気に見せびらかす奴、そしてテレビの『マグマ大使』で岡田真澄の息子役をやっている俳優の奴──要するに地方のエリート校にはいないような奴らがいっぱいいた。鳩森神社の側に住んでいた田中くんは、家の手伝いで、朝ベッドメイクをしてから学校に来るのでいつも遅刻だった。田中くんの家は、当時の言葉で言う「温泉マーク」(連れ込み宿)で、田中くんは、いろんな部屋を覗いたことがあって、ぼくの知らないいろんなことを教えてくれた。地方のエリート校には存在しないタイプは、生徒ばかりではなかった。

 技術の教師は、授業中に、突然大島くんを理由もなく殴りつけ、大島くんが鼻血を出すと「校長に言わないでくれよな」と突然おどおどしていた。音楽の教師は、おとなしく生徒たちが好き勝手に楽器をいじって時間を潰している間、壁に向かって授業をしていた。「あいつ、5年前まで暴力教師だったんだ。でも、卒様式の日に、仕返しに、チェーンで顔を殴られてから、大人しくなったんだ」。隣にいたクラスメイトが教えてくれた。とても英語など話せそうもない発音で授業をしていた英語の教師はオバサンで顎が長く、「long long ago」と呼ばれていた。社会の男性教師は、この中学に来る前に、渋谷区教育委員会所属だったことをいつも自慢していた。もちろん、生徒たちは教育委員会なんて知らなかった。こんな感じじゃ誰も勉強できるようにならないね。

 退屈していたぼくは街を散歩した。片側3車線で舗道も広い表参道を原宿駅の脇から自転車で下っていった。道幅は広かったけれど、まだクルマが少なかった。1階に大きな豪華中国料理店「南国酒家」が入り、クラスメイトの中ではちょっと可愛かったエミ子が住んでいたコープ・オリンピアの前を通り過ぎ、明治通りを渡ると、クラスの鈴木くんの家であるそば屋があり、Kiddy Landがあり、Kiddy Landの向こう側には、青柳くんの家である喫茶店があった。Kiddy Landの手前には、神社のような店があった。「Oriental Bazar」と書いてあるのが、英語を習いたてのぼくにも読めた。反対側の舗道には、ずっと長く渋い感じの同潤会アパートが続いていた。明治通りの脇にあるセントラル・アパートの1階にはフィリピン料理店があって、土曜日の夜にはよく両親と食べに行った。明治通りと表参道の交差点を新宿の方に曲がると、「そば」の増田屋(よく出前をとっていた)と洋菓子の「マロン」(マロンロールが大好きで、いつも3つ食べていた)があった。「マロン」の角を左に曲がると、原宿駅に通じる小道になっていた(今では竹下通りと呼ばれている)。「マロン」の隣には、ルート5というドライヴインがあって、若い兄さん姉さんで賑わっていた。東郷神社の並びは社会福祉を専門に扱っていた社会事業大学で、社会事業大学の脇の細い道を通ると、住んでいた東郷台住宅に戻ることができた。

 田中くんの家の近くには、田中くんの家と同じ「連れ込み宿」がたくさんあった。こんな場所に「連れ込み宿」がたくさんあるのはなぜだろう? 表参道には、なぜKiddy LandOriental Bazarなんて英語で書いている店がたくさんあるのだろう? Kiddy Landの玩具は面白いけど、Oriental Bazarで売っている鳥居や仏像は誰が買うんだろう? それにしても表参道があんなに広いのはどうしてだろう? 外苑中学に入っ1ヶ月もすると、ぼくのアタマの中は、そうしたクウェスチョン・マークでいっぱいになった。

 秋尾沙戸子さんが書いた『ワシントンハイツ──GHQが東京に刻んだ戦後』が文庫化(新潮文庫)された──単行本は2009年──ので、読んでみた。中学生のぼくのアタマに浮かんだクエスチョン・マークのほとんどの解答が、この本の中にあった。ワシントンハイツは、アメリカ軍の駐屯地で、現在の代々木競技場とNHKの敷地と代々木公園の敷地のすべてを占め、800戸以上の米軍軍人とその家族のための住宅が存在していた。1963年に日本に返還され、日本政府は、米軍の住宅を改造して東京オリンピックの選手村にしていた。明治神宮に隣接した旧陸軍の敷地のすべてがワシントンハイツと呼ばれる在日米軍のための住宅地であり、当然、日本人はオフリミッツになっていた。

 秋尾さんは、この本を書こうと思ったきっかけが、彼女が西麻布に住んでいた頃、その上空をけたたましい音量で米軍のヘリコプターが飛び交うのを見たからだと書いている。六本木と西麻布の間のハーディー・バラックスのことで、ぼくも、このコラムにそのことを書いた。ワシントンハイツから直接繋がる表参道は、米軍御用達のストリートであり、だから、Oriental Bazarというこれ見よがしの東洋があり、おもちゃ屋のキディランドは、Kiddy Landと表記されていたし、だから、明治神宮の北参道にほど近い鳩森神社近辺には、これまた米軍御用達──それ以前は陸軍御用達──の「連れ込み旅館」がたくさんあったわけだ。

 ぼくが原宿に引っ越した1965年は、ワシントンハイツが返還され、東京オリンピックの翌年ということで、「東京の中のアメリカ」だった表参道周辺が、米軍御用達の場所から、東京でアメリカ文化をもっとも色濃く呼吸する場に変貌する最中だった。ドライヴインのルート5──明治通りは環状5号線、だからルート5──のパーキングには、東京の若者たちが乗り回し始めたアメ車がたくさん停まっていた。

 外苑中学にいたマグマ大使出演中の子役は、ワシントンハイツに駐屯した日系人ジャニー・キタガワさんが興す芸能事務所ジャニーズ事務所に入り、後にフォーリーブスの一員になった。彼の口から「ジャニーさん」とか「メリーさん」という固有名が漏れるのを聞いたことがあった。

 青柳くんの家だった喫茶店も鈴木くんの家だったそば屋もビルになった。渋い同潤会アパートはなくなり、表参道ヒルズになり、フィリピン料理店が入っていたセントラルアパートも取り壊され、ルート5はずっと前になくなっている。マロンの前の東郷女子学生会館がパレフランスになったのは、ぼくが大学生になる頃の話だ。田中くんの家だった「連れ込み旅館」はマンションになったのもぼくが大学生だった頃。アメリカだった表参道が少しずつアパレル系のストリートに変動していった。技術の教師に理由もなく殴られていた大島くんは19歳で父になり、新宿でバーを経営しているそうだ。エミ子は今でもコープオリンピアに住んでいるのだろうか?