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January 7, 2004

『ファインディング・ニモ』アンドリュー・スタントン

[ cinema , cinema ]

息子ニモを探し助け出す父親マーリン。物語はたったそれだけだ。そしてここには語りの効率性と、それを異化する距離とが見事に存在している。ガス・ヴァン・サントの『ファインディング・フォレスター』(邦題『小説家を見つけたら』)と同様、1本のフィルムは現在分詞のなかで特異な何かへと変容してゆく。
ピクサー・スタジオの魅力はそのアニメーションテクノロジーにあるのではない(でも確かにものすごい)。その魅力は、何を見せるか、見せないかという演出の確かさと語りへの意識にある。『ファインディング・ニモ』にはコメディの良質さと、そしてヒッチコック的なサスペンスがちりばめられつつ、しかし砂漠のような風景を目の前に提示してくれる。現在の子供たちはそのようにあるべきだ、と言わんばかりに。
『シュレック』『モンスターズ・インク』を見てもわかる通り、ピクサー・スタジオの語る物語はつねに同型だと言ってよい。まずかならずふたつの共同体がある。前2作であればモンスターと人間の共同体。異形の主人公はグッドパートナーとチームを組み、異質の世界(=人間の世界)へと自らを横断させようとする。そして今作にもまたふたつの世界が登場する。海の世界と人間の世界。
人間に囚われたニモを救出する父親マーリン。しかし『ファインディング・ニモ』で重要なのは、その救出劇ではない。もちろん子供の脱出劇でもない。ふたつの対立する世界は便宜上あるだけだ。そのふたつの侵犯や横断も便宜上あるだけだ。実際、人間に囚われたニモが住むのは小さな水槽、つまり海と同型の世界だ(もちろんそこは貧しいが、しかし豊かさと貧しさの対立もまたここでは便宜的でしかない)。
ここで真に示されるのは、そうした物語が生まれる直前の、いや、そうした物語が発生する過程としての時間と空間のみだ。「ニモ」という記号がマーリンの口からサメへと伝達され、それがカニへと、海鳥へと伝達され物語へと生成する。それはマーリンという個人(魚)の意志から出発し、その意志を追い越してマーリンをも包み込む「世界」という何かの姿でもある。
もっとも素晴らしいのはマーリンのパートナーであるドリーの存在だ。女性であり、数分前の事柄を記憶できないというドリーの設定は、そのまったくの無意味さとアナーキーさとでもって、物語と伝達を中断させる。彼女は海に脱出したニモと最初に出会うのだが、彼がニモであることも、そしてそれまで自分がマーリンとニモを救出しようとしていたことすら忘れてしまっている。しかしある事柄をきっかけに彼女はそれまでの記憶を一挙に思い出す。それはまるでこの「世界」の記憶そのものが一挙に訪れるように、ドリーがドリーでなくなる瞬間でもある。無意味な個体のなかに海が一挙に流れ込む。伝達によって生まれた「世界」や物語は、そのようにして我々に訪れる。記憶が甦るフラッシュバックの連続には、たしかドリーが見ていないはずのシーンすら含まれていたはずだ。「世界」はそうやって我々に伝染する。つまり、近頃のクソガキはまったくとんでもないものを見せられているわけだ。合掌。

松井宏