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March 26, 2004

オルタナティブ・モダン 建築の自由をひらくもの 第2回 青木淳 「そもそも多様である、そもそも装飾である」

[ architecture , cinema ]

全4回の連続講議の第2回目は青木淳を迎えて。作品としては潟博物館から一連のルイ・ヴィトンの仕事の話が中心となる。
冒頭で青木は、アミノ酸の構造の複雑さについて触れる。良く似たふたつのアミノ酸であっても、その構造には全く共通点が見つからないと言っていいほどの複雑さ、その原型のない「多様さ」が根底にあるのだと語る。もうひとつのキーワードである「装飾」の方だが、ロンドン動物園のペンギンプールとラ・トゥーレット修道院を引き合いに出す。ヴォリュームはマスとは異なり、固体ではない液体や気体の容量を表すとして、ふたつの空間にあるヴォリュームが外の世界と接する境界面に、青木は「装飾」を見い出す。「向こう側」をこちらに痛感させる存在としての「装飾」。
だがこのシンポジウムを終えて、この「多様さ」と「装飾」との間にある隔たりが浮かび上がった気がする。アミノ酸がもつパターンとして知覚することのできないパターンを現在の段階の科学技術ではコントロールできないものとして、アルゴリズムによるアプローチを彼が退けるとき、世界が本質的に持つ原型のない「多様さ」にどのようにアプローチするのか。また彼が「装飾」として用いたルイ・ヴィトン表参道のモアレにしてもカモフラージュにしても、それを形作るのはいたって規則的に配置された丸や直線といった極めて単純な幾何学的図形である。それがたとえ幾度となく繰り返して実物を作ってみるスタディによって最適を見つけだしたのだとしても、彼が拒否するアルゴリズムによるアプローチとの本質的な違いがあるとは思えない。前回のシンポジウムに出席したものには明らかに筋違いのものに思える、青木の伊東豊雄やセシル・バルモンドへの反感が議論を成り立ちえないようにしてしまうし、客席のナイーヴな質問を誘発する。
あるヴォリュームをもつ「向こう側」へ入り込むときに現れる多様さ。そのことについて考えることは「建築の自由をひらくもの」になりうると思う。しかしそこで「装飾」を構造とは一致するべきでないものとして特権的に取り出すことにどのような可能性があるのか。その辺りがいまいち良く見えない。
突然だがセシル・バルモンドはこんなふうに語っている。「パターンは私にとってすべてです。パターンは抽象的なものですが、パターンの中にスケールを与えてサブ・パターンを作り、それを結びつけると現実のものができる。つまりパターンのこちら側には、具体的な確実性と呼ぶべきものがあります。たとえば、私がここに座っているのも、ごくシンプルなパターンとなっている。そしてパターンの向こう側はメタファーです。私がこちら側で何か具体的なものを建てると、それが生み出すパターンは何かと考えることで向こう側へ移動していく。パターンとは、私の思考が移動する乗り物なのです。パターンの中にある組織を見い出し、それを現実にするのが構造です。そしてその構造が、おかしな方法で建築に触れる。プログラムというのも、パターンであると考えています」。アミノ酸の原型のない「多様さ」に向きあわずに「装飾」を考えることはできないのではないか。なぜこの連続シンポジウムの第2回目が青木淳でなければならなかったのか。それが最後までつかめなかった。

結城秀勇