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May 20, 2004

『まだ楽園』佐向大

[ cinema , cinema ]

ふたりの男が1台の車で旅に出る。だが冒頭の恋人との口論のシーンを見れば、この旅には始点も終点もないのだということは明らかだ。「あたしも一緒に連れてってよ」「いやいつ帰ってこれるかもわからないから」「仕事はどうするの?」「いやすぐ帰ってくるよ」。この連続する会話の返答が矛盾していることに主人公は決して気付こうとはしないし、見ている我々もそうなのだ。
全編にわたって横須賀で撮影された映像の中に見慣れぬ風景などどこにもない。コンビニ、大型スーパー、性感ヘルス。ひとつひとつはかつて見たことのある光景に酷似しているが、それらがつなぎあわされていくとき、いったい彼らは元居た場所からどれだけ遠ざかったかが判然としなくなる。主人公ふたり組は自分達の鏡像のような自転車に乗ったふたり組に何度か遭遇するが、自動車と自転車のスピードの差から生まれるのが当然である距離は、生まれない。
口にくわえた日本刀で弦を擦るパフォーマンスをするバンドの、ライヴ会場の中にあるはずの爆音よりも、そこで買ったCDをカーステレオでかけたときの方がうるさいという、身体の内と外がひっくり返ったかのような感覚に目眩がする。その感覚は、主人公のひとりが父親を撲殺し、もうひとりが女のもとに走るという旅の目的らしきものが達せられた後も続く。新興住宅街に右翼の演説のスピーカー越しの声が均質に響く。トンネルを通過する車の走行音に重なって、メリヤス工場の機械の音が鳴り響く。そうしてすべての旅は終わってしまったと思うときに、タイトルが浮かぶ。『まだ楽園』。それは期待に対する諦念というよりは、ただ当たり前のことを確認しているに過ぎないかのようだ。われわれも依然、冒頭の会話の無意識な矛盾の中にいる。
この「まだ」という感覚なしに今映画を撮ることにどれだけの意味があるのだろうか。ふたりの男とひとりの女が旅先で出会うという似たような筋を持つ、山下敦弘の『リアリズムの宿』に欠けているのはこの感覚だ。まだ自主上映の形でしか上映されていない『まだ楽園』が、もっと多くの人の目に触れることを願う。

結城秀勇