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June 1, 2004

『映画の授業 映画美学校の教室から』黒沢清ほか

[ book , sports ]

1冊の書物として、それを俯瞰する視点が欠けている。この本が興味深いのはその点だ。「はじめに」と題された序文を黒沢清が書いているが、本書を通読するかぎり、これは黒沢清の文章であり、また彼の考えであって、それを執筆者のすべてが共有しているようには思えない。「我々は映画作りのノウハウを伝授しようとは考えていない」。黒沢清は「はじめに」をこのように書き出している。実際、彼がここで書いている文章は「ノウハウ」としてはまったく役に立たないだろうと思う。たむらまさきの「at the edge of chaos」と題された辞典(?)も役に立たない。読むのだけでひと苦労だ。その一方で、高橋洋と塩田明彦が脚本について(似たような語彙を用いて)書くのはある意味では「ハウ・ツー」であって、「ノウハウ」の伝授へと傾いている。また、録音についての臼井勝の文章、編集についての筒井武文の文章は、一連の作業の流れの解説にちょっとしたアドヴァイスを加えたものだろう。
脚本の執筆から編集などのポストプロダクションまでの映画づくりのプロセスに沿って、この本のページは、脚本、演出、撮影、録音、編集という順序で並んでいるが、この本をはじめの1ページ目から読んでいく必要はあまりないような気がする。それぞれの文章を好きなところからべっこに読んでも問題はない。執筆者たちはそれぞれに興味のあることを彼らなりの語りかたで語っているからだ。高橋、塩田が書くのは脚本の「ハウ・ツー」だと先述したが、そのような趣きが多分にあったとしても、そこに読まれるのは、脚本は(あるいは映画は)こうあるべきだという紛れもない彼らの考えである。
それぞれの執筆者は自分の考えを書いている。そこから生まれるのは、それぞれのあいだにある差異だ。個人的には、万田邦敏の文章をおもしろく読んだが、問題はおもしろいかどうかということよりも、どの考えを支持し、どの考えを支持しないかということであって、つまり本書はある態度決定を読者に迫っているようにも思えた。

須藤健太郎