« previous | メイン | next »

June 1, 2004

『ビッグ・フィッシュ』ティム・バートン

[ cinema , cinema ]

ティム・バートンほど頑迷な映画作家がいるだろうか。『ビッグ・フィッシュ』が彼の転回点に当たるとか、それまでの彼の作品とは異なる位相にあるなどということはない。ティム・バートンは、『ビッグ・フィッシュ』でも頑固なまでにティム・バートンのままだ。のっぺりとした表層をたたえただけの今の世界には「映画」を生み出すエンジンは存在しない。だから、ティム・バートンのフィルムの主人公は、常に、「映画」を探し求めて遡行しなければならない。年老いた女性が子どものために話を聞かせたり(『シザーハンズ』)、ここではない別の場所に居場所を求めたり(『バットマン』『バットマン、リターンズ』)、死の床で語るビッグトークの裏付けを求める(『ビッグ・フィッシュ』)ために過去に遡行することは、彼のフィルムにあっては常套手段なのであり、あえて言えば、その手段こそが彼の映画の変奏とも言えるだろう。のっぺりした現実の表層には何も映っていない。記憶へ、過去へ、物語と遡行するしか映画を取り戻す方法は残されていない。
たとえば温暖な街のクリスマスに降る雪、池を航行する大きな魚──普段なら遭遇することのないそうしたものが、私たちを過去へと誘うエンジンになるだろう。過去の記憶の中にめくるめく存在する映画では、時間が直線的に流れていない。行きつ戻りつしながら、その速度も多様な汎用をくりかえしながら、その都度その都度、映画は息を潜めて、その存在を顕わにするだろう。たとえば『ビッグ・フィッシュ』の至る所に流れる水は、そうした映画を顕在化する大きな力になる。池から浴槽へと流れて、いつの間にか大きな流れを作り、廃屋にひとり住む中年の女性は、少年がかいま見る魔女と同一人物かもしれない。映画の在処を突き止めるためには、このフィルムに流れる水のように、不可能を可能にする通底器が必要になるだろう。アルバート・フィニーは、死の床にあっても、入浴することを欲し、彼の妻に扮するジェシカ・ラングは、着衣のままゆるやかに彼と共に浴槽に身を沈める。映画を、映画の力を呼び戻すためだ。「ビッグ・フィッシュ」とはそのとき映画の別名に他ならない。

梅本洋一