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September 30, 2004

『誰も知らない』是枝裕和

[ cinema , cinema ]

もちろん映画は映画であって、いかにそれが現実を多く呼吸していようとも、映画と現実を等号で結ぶことはできない。
『誰も知らない』を見た素朴きわまりない感想から書き始めよう。とりあえずこのフィルムが、撮影から15年前に起きた「西巣鴨子供置き去り事件」から想を得ていることは置いておこう。父親の異なる4人の子どもたちを残して恋人の許に去った母。13歳の長男が下の子どもたちの面倒を見る。子どもは「柔らかい肌」ではなく、「堅い肌」、つまり大人よりもたくましいものです、というのは、このフィルムを見れば誰でも思い出すだろう『大人は判ってくれない』を撮ったフランソワ・トリュフォーの言葉だ。カンヌで主演男優賞を得た柳楽優也の表情と歩き方はよい。約1年をかけて撮影したというが、季節の移り変わりと、子どもたちの成長が伺える。子どもたちは、顔の表情と共に、彼らの手によってその行動が描かれている。とても丁寧に演出されていると思った──子どもたちのよい表情と身振りが映っているという意味で。次女が突然死に──椅子から落ちて死んだことになっている──知り合った女子中学生と羽田に遺体を埋めに行き、夜の上空を飛行機が飛んでいくシーンはとてもフォトジェニックだと思った。羽田のシーン以外、『幻の光』『ディスタンス』で見られた過度の審美学は排除されていて、それまで私がこの映画作家を批判してきた面がずっと薄くなっているように感じられた。
でもなぜか私はこのフィルムを──たとえば松浦寿輝のように──手放しで賞賛する気になれないでいた。その理由は、それまで私がこの映画作家を好ましく思っていなかったからなのかと私は自問してみた。しっかり作ってあることは認めるけれども、感動できなかったことは告白しておこう。なぜか?見終わった直後に考えたのは、まず、このフィルムの地理的な方法に、映画が現実に対して勝利を収める側面が見られたことだ。まず明(柳楽優也)が頻繁に出入りするコンビニに新鮮組桜ヶ丘南店と出ていたこと。高円寺周辺には、桜ヶ丘という呼称はないのではないか。高円寺に住んでいる明が、母のかつての男を訪ねるのに京王線に乗ったこと──もちろんロケに京王線が欠かせないのは知っているが。高円寺から羽田への行程が描かれず直接モノレールが見えること。子どもの死体を入れたボストンバッグを持って、高円寺から羽田に行くのは簡単ではないだろう。もちろん撮影の都合や、風景の選定の面で、そうなったのかもしれないが、ならば高円寺北商店街という地名は映像から排除すべきではないのか。次に考えたのは、確かにこのフィルムでは季節の変遷が、花や衣裳によって見えるが、一日の中の時刻の変化が極めて分かりにくいこと。ドゥルーズが映像=運動から映像=時間への変遷の項で、子どもが、視記号と聴記号のような存在になると書いているが、このフィルムで、視記号と聴記号になるのは、観客の方であって、決してこのフィルムの登場人物ではない。
それらの理由を論ってみたのだが、私にとってもそれらのすべてが説得力を持っているわけではなかった。そのどれもが、私にとって、「しっくりこない」というか、批判の理由を探しているだけかもしれないという懸念が拭えなかった。地理的な錯乱が起こることは映画によくあることだ──『ラストタンゴ・イン・パリ』などその極みだ──し、季節が流れていれば、結果的に一日の時刻も流れていることになるではないか。だから、仕方なく──おそらく多くの人がするように──「西巣鴨子供置き去り事件」について調べることにした。調べてみて、愕然とした。事件の概要は、このフィルムと同じだが、2歳の次女が死ぬ原因になったのは、実際の事件では、このフィルムにも登場する明の友人ふたりと明自身による折檻らしいこと。それも明の友人の少年が、次女が「おもらし」をしたことに腹を立てて、次女を鞠のように何度も投げつけたことが原因らしい。フィルムでは、閉塞的な生活をしていた少年が、ゲームセンターに行き、初めて友人をふたり作ることになる。彼らは次女の死因と関係ない。
多くの人々は、このフィルムには、子どもたちの自然な現実の表情が見えていると書いているが、実際にはそうではないだろう。次男と次女はまだ「おむつ」が取れていない状況であり、むずかったり泣き叫んだりする瞬間が多いはずだ。13歳の少年に、いくら不在の母に頼りにされていようが、そんな状態の子どもに寛大に接することなどできないのではないか。このフィルムに見る次男と次女は「いい表情」しか見せていない。腹が減って泣いたり、外に出たいとむずかったりしない。子どもは、極限状態にあっては、食べ物を動物的に口に入れるのではないだろうか。もちろん映画はフィクションなのであって、現実と等号では結べない。だが、置き去りにされた子どもたちの姿を、私なりに想像してみると──そして、事件の概要を知った今──、このフィルムはやはり「現実」をオプラートで包んだものとしか思えない。私がかつて是枝裕和を批評したときの彼の審美学はこのフィルムでも顕在なのではないか。同じ年頃の少年ならば、私は、『ユリイカ』の少年を選ぶ。両手を血に染め、刃物をもって、役所公司の前に佇む少年を見せることの方が映画作家の誠実を示していると私は思う。

梅本洋一