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November 2, 2004

『2046』ウォン・カーウァイ

[ cinema , photo, theater, etc... ]

金曜日の最終回の上映にしては異様なまでに空いている渋東シネタワー。ウォン・カーワァイ、木村拓哉という固有名もすでにパブリシティの機能を失っているのか? あるいは、ウォン・カーワァイのフィルムは、やはり単館ロードショー留まりのフィルムであって、全国ロードショーには当てはまらないのか?
興業面には多くの疑問があるし、そもそも観客で一杯の映画館などもうないのだろうから、TSUTAYAでレンタルに並ぶ人と、映画館に来る人とは異なるのだという実感を確認するだけだ。
だがこのフィルムがたとえそれに見合う観客に恵まれなくても、このフィルムに私自身がめぐり会ったことは、幸福なことだった。ここしばらく出会うことのなかった映画の感情──そう、サミュエル・フラーが『気狂いピエロ』の中で「一言で言えば映画は感情だ」という意味での感情だ──がこのフィルムに満ちていた。トニー・レオンと彼の周囲にいるコン・リー、チャン・ツィイー、フェイ・ウォンという3人の女性たちの感情がこのフィルムに満ちていたからだ。喜怒哀楽という感情を表す四字熟語の中で、このフィルムに満ちていたのは「哀」だけだ。「喜」も「怒」も「楽」も存在しない。「哀」だけが、このフィルムを支配し、このフィルムに漂っていた。「哀」を支配するのは、映像と音声だ。クリストファー・ドイルのいつもの映像は、他の何よりも「哀」だけを強調するし、このフィルムに流れる2曲の素晴らしいスタンダード・ナンバーは、この時代──このフィルムはそのタイトルが示すように近未来のフィルムではない、明瞭に60年代のアトモスフィアの中にある──の色彩を強調している。米ソ冷戦の只中にあり、貿易という「交通」だけで生きるしか手だてのない東アジアのふたつの島──香港、シンガポール──がこのフィルムの舞台だ。極東の島国が高度経済成長を堪能しているとき、その表皮を一枚めくれば、その下には底なしの「悲哀」が流れている。コニー・フランシスの"Siboney"やディーン・マーチンの"Sway"がその感情を拾い上げているだろう。そんな隠れた感情がその薄い姿を見せるのは、暗さに覆われ始めた夜、四方を薄い壁に囲まれた狭い室内。暗くなり始めた空を背景にネオンサインが点り、オリエンタル・ホテルの部屋の薄い壁の向こう側には男女の吐息が聞こえ始める。そこを行き来するのは、「もの」ばかりではない。「言葉」を職業とし、しかも官能小説ばかりを書き続けるトニー・レオンにとってみれば、「言葉」と「身体」と「金銭」が「交通」する場には、「哀」しかない。「哀」に身を委ねつつ、「哀」の発酵を押しとどめることしかできない彼は、だから、ひたすら「哀」を生み続ける女性の前に佇むことになる。どの女の頬にも一筋の涙が流れていく。彼は、その涙をみつめ、「哀」を受け止めることしかできないだろう。

梅本洋一