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November 26, 2004

『映画の明らかさ—アッバス・キアロスタミ』ジャン=リュック・ナンシー

[ book , sports ]

84229.jpg この書物は、ジャン=リュック・ナンシーがキアロスタミの映画を参照として映画について書いた、いくつかの論考と、キアロスタミとの対談によって構成されている。
このタイトルに付された奇妙な提言、つまり、かつてアンドレ・バザンがネオレアリスモの映画をその「曖昧さ」によって評価していたのに対し、キアロスタミの、ひいては映画の「明らかさ」とは一体なんだろうか。ナンシーはこの「映画」と「明らかさ」を巡って繰り返しテクストを織り込み、ことはキアロスタミの映画の特質を超えて、映画そのものに対する独特な視点へと読むものを導く。
ナンシーは、映画の本質をその表象の力ではなく、まさに映画がそこにあるところの世界との「距離」によって捉えようとする。「映画とは表象になるというよりも、現実的なものの運動になる」。映画とはそもそもここにおいてはメディアではなく技術である。イメージは現実の二次的な反映であるよりかは、生に伴走し、生にとって不可欠なものとしてある。なぜなら生は、「ただおのれの死に関してのみ起源であり確実性であるにすぎない」(『無為の共同体』)、 方向的な偏り ( クリナメン ) をもったものとしてあり、その偏りのまま、世界との距離を測りながら、「世界への布置を熟させる」ために「おのれ自身の彼方で、前で、前方で、自己の前面でおのれを支える」からだ。
映画はまた、不断の「 運動学 ( シネマティック ) 」である。一見するとまるでタブローのようなキアロスタミの長い、ロングショットの不動性も、他の運動との関係である限り、運動であり、あるいはもっと言ってしまえば、他の運動の内に秘められていた不動性の現前としての運動である。この不動性への敬意はバザンらの議論と近いが、独特である。『桜桃の味』の男が、高台に座り眺める都会の風景の中の一台のクレーンの回転に観客はどうやってこの映像を撮ったかと考える、その熟考さえも、観客を映画の中に投げ入れ、映画の運動の中に置きいれる、視線の運動の一部だとナンシーはいう。
ここで明らかなのは、まさしく、映画が、私たちの実存が世界との距離をはかり、その生を正しく位置付けるために試行錯誤するその運動と同じ地平で捉えられているということだ。いいかえるならば、私たちは映画をその客観性として外部に置くのではなく、監督が、観客が、映画の内部で、「共に-在る」という事実の中にあるに過ぎない。「映画の明らかさとは、ひとつの視線の実存の明らかさ」なのだ。実存はまた、「生-死の無頓着=無差別に抗い、機械的な「生」の彼方で生き、常におのれ自身の喪であり、そしておのれ自身の喜びである。それは形象となって、イメージとなって具現化される」。生が「果てまで赴く」ために、イメージは作られ、イメージに疎外されることなく、イメージのうちにおのれを呈するのである。映画はその都度観客の、または監督の、生の不断の運動の中に内面化され、その外部にはない。
映画とは、世界への信頼を回復させるものとしてあるだろう。いや、映画のみならず、ニーチェが述べるように、作品はたんに美学的なものであるよりかは、その作者にとってそもそも「幸福の条件」としてある。「作者の生または死、あるいは少なくともその精神的な救い」(アガンベン)としての作品をつくること、それは生がその自らの弁護でもなくその夢でもなく、それそのものとしてそこにあるという時点で「明らか」にある。

影山裕樹