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February 1, 2005

『侵入者』クレール・ドゥニ

[ cinema , sports ]

この映画のなかに溢れかえっている異物は、それが紛れ込んだ場所とのあいだに摩擦を起こし、ふたつのものの存在の肌触りや温度の異質さを不気味なほどに浮き立たせている。例えば、ルイ・トレボール(ミシェル・シュボール)が湖で心臓発作を起こしたとき這い上がった陸で握り締めた砂利の中から、煙草の吸殻が出てくること‥あるいは、静寂の風景の中にとつぜん銃声が鳴り響くこと‥あるいは、二匹の犬を置き去りにする場面で突如挿入されるトランペットの高い音‥あるいは、理由も分からず殺された女性の真っ赤な心臓が、白い雪の上に転がっていること‥この映画のあらゆる局面のなかにさまざまな異物を見出すことができる。それはクレール・ドゥニがジャン=リュック・ナンシーの著書『侵入者—いま<生命>はどこに?』(以文社、西谷修・訳)から得たインスピレーション—世界のすべての事象が、「侵入」と「拒絶」のふたつのあいだを行き来する円環によって成り立っているのではないか—という考察がこの映画の通奏低音として鳴り響いているからである。ミシェル・シュボールはまさに彼自身が異物として韓国、オセアニア諸島へと渡り、映画はそのまま地球をぐるっと一周するかたちで(ドゥニ)またフランスとスイスの国境へ戻ってくる。そのものがたりを追いながら、映画はさまざまな記憶や夢や不可思議な(不条理な)できごとを生みだし、そして生まれた謎をあちこちに放置しつつ、その全てを包含しながら進行してゆく。
クレール・ドゥニやオリヴィエ・アサイヤスが共通して口にするのは「リスクを冒す」という言葉だ。リスクを冒すこと、つまり均衡を崩すこと、それは映画と生き生きと関係するために、あるいは映画が作り手から離れていかないようにするためだとクレール・ドゥニは語る。そしてまた、彼女自身が世界にたいして常に注意深くいるためだ、とも。
『侵入者』は、その内部のあらゆる局面に含み込まれている異物を我々の眼に晒すだけに留まらず、それを目にする者の中にも侵入し均衡を崩す力をもった映画である。自らの枠と均衡を揺るがすために、見る者はそれを甘んじて侵入させるべきだろう。

藤井陽子