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March 3, 2005

『LOFT』黒沢清

[ cinema , sports ]

『ドッペルゲンガー』以降、黒沢清は、彼自身のアメリカ映画のコンセプトに落とし前をつけようとしている。アメリカ映画とはなによりもジャンルである──1983年春に東京を訪れたヴィム・ヴェンダースは、すべてのフィルムはジャンル映画であると何度も繰り返していた──という深い信念。「ホラー」、「ジャパニーズ・・ホラー」──『リング』、『呪怨』などが「アメリカ映画」としてリメイクされている──の「最初」の「日本」の巨匠としての自ら。そして、高校時代からの行動様式としてのシネフィリー。そうした自らの周囲に何重にもまとわりついた薄皮を一枚一枚剥がしながら考察している黒沢清。そうした彼のプロセス──ドゥルーズならばprocessusというだろう──そのものが、『ドッペルゲンガー』『ココロオドル』そして新作の『LOFT』である。
たとえば役所広司がふたりいる、という素朴なアイディアから出発した『ドッペルゲンガー』を撮り始めた頃、黒沢清は、自らの思考の過程が、ここまで継続するとは思わなかったろう。撮影が進むにつれて、否、より正確に言えば、撮影の準備段階であるシナリオの構成が整いつつある内に、ホラーとコメディが実は同根なのではないかという不可思議な確信が彼の中に生まれたかもしれない。ひとりしかいないはずの役所広司が、実はふたりいるのだ。アイデンティティではなく、分身、あるいはピュアな自己同一性へ収斂する物語から、拡散する結末へ。あるいはこう言えるかもしれない。プラトニズム的な同一性から、シミュラークルばかりが徘徊する現代へ。その瞬間、映画は晴れやかな完成から遠ざからざるを得ない。自己同一性への収斂によって、カタルシスが得られるアリストテレス的な「詩学」から、ニーチェの「神の死」以降へと、映画は一気に流れ出す。ジャンルとしての約束事は、まるで骸骨のように形骸化し、ひとつのジャンルと隣接した別のジャンルが同一平面上に並立する。ある種の混濁。
だが、行程の、そうした混濁とは逆に、映像はますます清麗さを増していく。見事すぎる構図、そして過不足ない編集、そして確信に満ちた俳優たちへの演技指導。『ココロオドル』から『LOFT』に向けて、その清麗さは、彼のフィルムはそれまで到達したことのない高みに登るだろう。ホラー映画と恋愛映画の併存、あるいは、ホラー映画のような世界の中で恋愛映画が可能なのかという実験。恋愛映画を体現する中谷美紀と、恋愛映画の墓場としてのホラー映画を体現する安達祐美、その両方を往還する存在としての「考古学者」豊川悦司。コンセプチュアルであると同時に極めて高度な技巧を有するこの映画作家が、このフィルムで提供するのは、物語とそれが盛られたフィルムの間にいっさいの齟齬がない、見事なまでの構造である。
文学賞を取ったことのある女流作家(中谷美紀)は、大衆的な支持のある作品を執筆しようとするがなかなか完成しない。業を煮やした編集者(西島秀俊)は、彼女に田舎の一軒家を仕事場として提供する。その家の向かいにある廃屋と化した大学の研究所にひとり佇む考古学者(豊川悦司)。彼が湖から引き上げることに成功したのは、麗しい妙齢のミイラだった……。
過去──映画とは黄金時代をすでに通過したのだ──から逃れることはできない。だが、同時に、今、ここで、そして未来に向けて新たな作品を生まねばならない。『LOFT』は現代の映画が背負い込んだプロセスを、そのまま生きている。

梅本洋一