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May 24, 2005

『愛の神、エロス』「若き仕立屋の恋」ウォン・カーウァイ
田中竜輔

[ cinema , sports ]

その暗い部屋は、すべてのものが何かによって閉ざされている、あるいは何かによって媒介されざるを得なくなっている、といった方が正しいのかもしれない。ホア(コン・リー)がひとりの老婦と共に息を潜めているその部屋は、確かにどこからか続いているようだが、淡い青の光が差し込む階段の先にその部屋があるのかどうかは保障されてなどいない。シャオ(チャン・チェン)が迷い込んでいるのは、そんなあらゆる可能性に背を向けた場所である。
 部屋に設置された電話機とスピーカーから流れ出す陽気な歌謡曲は、この危うい場所をかろうじて外部と繋ぎとめているかのように見える。だが、スピーカーはただただ音楽を一方的に部屋に流し込むだけだし、いくらホアが受話器に向かって切実に声を振り絞ってみてもその相手の声は一度として聞こえることはない。「いい仕事をしたければ、多くの女を知りなさい」、そう助言されたはずの若き仕立て屋は、決して「多」の方向に開かれてなどいない場所に幽閉されることになる。だが、そんな狭い空間であるというのに、ここでは何もかもがすれ違ってしまう。女を殴る男を壁の背後に聞き、作ろうとしたドレスのウエストは2インチ増加し、女が電話をかけたとしてもそれが連結されることはなく、数日のタイムラグで女は仕立て屋の前から姿を消してしまう。ふたりの姿がカメラによって同時にフォーカスを合わせられるのは、鏡という媒介を経由した「平面」の中だけだ。
 幾重にも重なるすれ違いの中で、ようやくそれが繋ぎとめられるのではないか、という淡い期待がふたりの「手」に寄せられる。ホアがシャオの性器を愛撫した「手」と、シャオがホアのドレスを仕立てた「手」が、シャオが抱きしめるホアの背中で静かに重ねられたからだ。しかし、その「手」はふたりの唇を繋ぎとめることは許さない。それは、カーウァイが徹底して「手」による愛の発露に固執したためであり、それ以外の方法を拒絶したからなのであろうか。それについては決して答えは出てこないかもしれない。

 ところで、この短編が収められているアントニオーニの企画によるオムニバス映画は『eros』と題されている。この聞きなれた単語について手元の辞書で再度調べてみたところ、それは驚きを伴うものになった。そこには「ギリシア神話の愛の神。あらゆるものを結合する力を擬人化したもの」とある。『若き仕立屋の恋』で愛の象徴となる「手」は、さらにはこのフィルムにおけるほとんどすべての空間は、「結合」どころか「拒絶」、あるいは「断絶」を体現しているものばかりであったからだ、すべてがあらゆるすれ違いの中で蠢いていたからだ。
 このフィルムでは、『2046』や『恋する惑星』で聞こえていた50〜60年代のアメリカン・ポップスを1曲も聞くことはできない。聞こえてくるのは、1960年代の香港で流れていただろう現地の歌謡曲の断片だけだ。『恋する惑星』で「California Dreamin’」が響きだした時に、その瑞々しい映像が海の向こうまで広がっていくように感じられたことと対極に、このフィルムはあらゆる外部を排除した密室としての美を突き詰めているように思う。この深い密室の中に閉ざされたふたりの姿は、哀しみを一身に背負った「衝動」そのものとして、暗く、そして美しく蠢いていた。

『愛の神、エロス』
シネスイッチ銀座、Bunkamuraル・シネマほかにてロードショー中